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ペンギンの飛び方

本を読んだりニュースを見たりして考えたことを、自由に書いていきたいと思います。

「本音」と政治とインターネット

社会

 

アメリカの次期大統領がトランプさんに決定しました。

今回の結果については、専門家の方々が詳細な分析をするはずで、遠い国の出来事でもあるので僕なんかが特別何か言うことなんて無いんですが、つい最近「インターネットと本音」についての記事を書き、そこでちょうど政治と本音の関係性について触れたところだったので、この記事を書いてみようと思いました。

まずこの「インターネットと本音」についてですが、僕はこのブログで何度かインターネットにおける「本音」の発露について、ゴフマンの「表舞台・舞台裏」の概念を使って論じてきました。

その内容をここで簡潔にまとめるとすると、「インターネットは、密な人間関係の中で社会的役割を演じる『リアル』という『表舞台』に対して、そこでは言えない『本音』を言う『舞台裏』の領域を担っている」というような感じになるかと思います。

 

今回の選挙の結果については、様々な解釈がネット上ではなされていますが、その一つに「ポリティカル・コレクトネス」(以下PC)への反発というものがあります。

 

togetter.com

 

つまり、PCへの反発をくみ上げ、人々の「本音」を代弁したのがトランプさんである、というのがこの論の要旨です。

 

さてここからは、この「PCへの反発説」にのっとった上で、本題である「本音」と政治、そしてインターネットの関係について考えてみます(以下数行は過去記事をほぼなぞります)。

まず「本音」についてですが、修学旅行の夜に仲間内で好きな人を言い合うのが盛り上がるように、確かに「本音」や「秘密」「真実」を伝え、知ること、あるいはそれを共有することは非常に楽しいものです。

「本音」で語り合うことによって生まれる深い理解は、人間関係や集団を結束させたり、それらをより良い道へと導く「前進」だとされています。

しかし、こと政治という領域に関しては、思想家のハンナ・アーレントの考えは違っていました。

アーレントは、多くの市民の目線が飛び交う公共領域で行われる「政治」においては、本音のようなものは私的領域にとどめ、各々が「仮面」を付けた上で、理性的な善き市民の役割を演じる中で執り行われるべきだとしていました。

というのは、彼女は、「仮面」や「偽善」の下に存在する「人間の本性」を善なるものだとは認めていなかったからです。

 

もし現代においてPCがこの「仮面」の役割を担っていたとするのなら、それを剥ぎ取って現れる「本音」なるものは、そこまで「きれい」な「尊重されるべき」ものなのでしょうか。

それは、人種(あるいは民族や宗教)のようなカテゴリーから発露された「本音」であると考えられるPCにおいては、一層深く考えなくてはなりません。

なぜなら、ここでの「本音」は、悪い言い方をすると「本能」に近いものであるからです。

社会心理学の知見からも分かるように、人間はふとすると無意識に自分と異なる属性の他者を偏見の色眼鏡で見てしまい、差別してしまう傾向を持っています。

もちろん差別は社会的学習によって身に着けてしまう場合もありますが、それで全て説明できるわけではありません。

この言ってしまえば本能のようなものが、教育と理性によって再帰的にモニタリングされることで抑制され、あらゆる差別は減少してきたのです。

そしていつしかそれは人間にとって正しい生き方だとされるようになりました。

これまで、既存の大メディアはこの論理でおおむね成り立っていました。というのも、まさにこれらは「多くの視線が飛び交う」公共領域であるからです。

しかし、この論理を飛び越えた新しい公共空間が新しく誕生しました。

それはインターネットです。

 

僕は、インターネットは表舞台の「リアル」に対して、本音を暴露する舞台裏的な使われ方をしているのにもかかわらず、その規模と可視性はどの「リアル」よりも大きいという、「表と裏の逆転現象」が起きているのでは、と上のリンク記事で述べました。

僕は特にこのことが、今回の大統領選にかなりの影響を与えたと考えます。

その具体的な機序は次のような感じになるかと思います。

 

1.インターネットによって「本音」が可視化される。

2.各々が自分だけが持っていると考えられていた、あるいは「持っていいのかどうかすら確証の持てなかった」意見や感情が人々に共有され、それらが一つの考えとして政治的な立場を確保する。

3.そのような考えを「リアル」で主張するトランプさんに対して、自身の感情に自信を持てた人々が代理満足的に支持する。

4.それが「リアル」の人間関係からは隔絶している(不可視である)という点ではインターネットと同一の、本音の場としての「投票」という営為に反映される。

 

僕はこれの特に4.のフェーズによって、今回の「隠れトランプ支持」現象なるものや、多くの既存メディアがトランプさんの不支持をしたにも関わらず彼が勝利したことの原因のいくらかを、説明できるような気がしています。 

 

ところで今回このようなデータがありました。

 

edition.cnn.com

 

出口調査ですから確定的なことは言えませんが、CNNのこの記事によれば、どうやら投票前の主だった報道が描いていた「物語」に反して、有権者の「収入」や「学歴」はそこまで投票先の傾向を分ける大きなファクターとはなっていません。

むしろ最も差がはっきりと表れているのは、「人種」です。

僕自身、PCに付随する全ての言論が正しいと思っているわけではありません。

しかし、仮にこの人種差(を生んだ選挙結果)が今現在よく言われているような人種的マジョリティのPCへの反発(本音)によってもたらされていたとするのなら、この「仮面」の下に隠されていた「本音」は、そのような文脈で簡単に肯定されるべきものだとは、僕には思えないのです。

 

ここ日本でも、政治において(インターネット発の)「本音」は力を持ち始めています。

思えば、こないだの待機児童の問題を糾弾した「日本死ね」も、あえて荒っぽい言葉を使うことで当人の心からの叫び、「本音」の発露だと捉えられたからこそ、注目を集め、多くの人々の共感を得ることが出来たのだと思います。

しかし同時に「本音」は、記事が掲載されていたブログタイトルの通り、先日の元アナウンサーの方のような主張にも使われることがあるのです。

インターネットの普及、またSNSの隆盛によって、私たちはいつでも見知らぬ人々の大量の「本音」を見ることが出来るようになりました。

私たちにはこの「本音」がどのようなもので、どこまで尊重されるべきものなのかを、ある程度厳しくみることが、今求められているのかもしれません。

もちろん、「自分は行き過ぎたPCに対して批判しているのであって、それ自体を否定しているわけではないし、差別も肯定していない」 と考えている人も多くいるでしょう。

しかし、あのような発言を繰り返した人物が政治という公共領域に躍り出て、それを特に撤回もしないまま国のトップにまで上り詰めたことの影響は、深く考える必要があるように思います。

それは、いつか誰かの耐えようのない「本音」が自分自身に向いてしまった時に後悔しないためにも、必要なことだと僕は考えています。

 

twitter.com

 

human921.hatenablog.com

 

 

電車内での化粧と「儀礼的無関心」

社会

 

最近の記事ではゴフマンを何度か取り上げましたが、先日電車内での化粧についての記事を見かけたので、前々から書いておこうと思っていたこれら電車内でのマナーについて、ゴフマンの「儀礼的無関心」と絡めながら考えてみたいと思います。

anond.hatelabo.jp

 

まず儀礼的無関心の意味についてですが、こちらのページを見ていただければ大体分かると思います。

 

d.hatena.ne.jp

ようするに「儀礼的無関心」とは、見知らぬ人が多く集まる公共空間において、互いの尊厳と場の秩序を維持するための技法のことを指しています。

例えば電車では、閉ざされた空間で見知らぬ人間同士が密着せざる負えない状況が日々作り出されていますが、まさにそうした場でこの儀礼的無関心は必要となってきます。

電車の場合よく挙げられる無関心の例に「むやみに他人を凝視しない」というものがありますが、今を生きる私たち現代人は、無意識にこのような「儀礼」を駆使して日々を暮らしているわけです。

 

さてここで電車内での化粧について考えてみましょう。

電車という公共空間は先ほど説明した儀礼的無関心によってその場の秩序が保たれているわけですが、そこでの化粧はその場にどのような影響を与えるのでしょうか。あるいは電車内の人々にどのような印象を持たせるのでしょうか。

 

まず考えられるのは化粧のような一般的に自宅などの公共空間からは見えない私的領域においてされるような行為を公共空間に持ち込むことは、周囲の人間に「自分を完全に無視している」(≒疎外感)と受け止められる可能性があるということです。

ここで重要なのは、電車内で必要とされる無関心はあくまで「儀礼的」、つまり「ポーズ」や「フリ」なのであって、最初から周囲に対して「完全に」無関心であることは想定されていないという点です。

したがって電車内での化粧は、周囲の人々、空間に対しての当人の完全な無関心の態度の証左とされるとともに、公共空間での私的領域の拡張、私的行為への没頭ととらえられ、儀礼的無関心に拠って成り立つ電車内の秩序に対する潜在的脅威とみなされてしまうのです。

この構造は携帯電話の通話やイヤホンからの音漏れ等の電車内でのほかのマナー違反にも当てはめることが出来ます。

電車内での会話が許容されている一方で、これらのことがマナー違反とされるのは、前者はそれがその「空間内」のメンバー同士でなされることで、周囲の環境に対する関心を完全に遮断するものとは考えられてはいないからです。

つまり電車内においてある行為がマナー違反なのかそうでないのかは、上記の例で言えば「騒音」という観点からみた音の大小などのように、必ずしも具体的に周囲の人間に害を与えるか否かという基準では決められていないのです。

ここでは当該行為が儀礼的無関心の範囲を逸脱したものかそうでないのかが、重要なファクターとなるわけです。

 

とはいえ僕自身は、電車内での化粧と今挙げたような携帯電話の通話やイヤホンの音漏れを、マナーという括りで一緒に論ずることには抵抗感があります。

というのも、携帯やイヤホンに関しては、曲がりなりにも「音」という具体的な形で周囲に悪影響を与える可能性のある要素があるのに対し、化粧にはそのようなものがないからです。(中にはファンデーションの粉が飛ぶからという意見もありますが、その割には啓蒙ポスターや広告にはそのような文言はめったに登場せず、「みっともないから」というフワッとした理由付けが多く感じます)

そもそも化粧が問題視されるのなら、同じく周囲への無関心を想起させうるスマホの使用、ゲーム、読書はどうなるのでしょうか。これらの行為は空間から隔絶された外部メディアへの接続という点では、化粧よりもその無関心の度合いが高いといえなくもありません。

いや、それよりも「睡眠」はどうでしょうか。よく考えれば「睡眠」ほど周囲への完全なる無関心を示す行為はありません。なぜなら覚醒してないのですから。ついでに言えば一般的に睡眠は自宅などの私的領域で営まれることでもあることから、その私秘性もある程度高いと言えるでしょう。

しかし電車内での睡眠は特にマナー違反とみなされてはいません。

こうなるとやはり化粧に関しては何か別の観点から考える必要があるように思えます。

僕が今考えているのは化粧に対する人々の認識の違いです。僕は化粧をしないのでくわしいことは良く分からないのですが、化粧を何のためにしているのかは、人によってかなりばらつきがあるような気がしています。

例えば仕事のため仕方なくする人、化粧自体が好きで外出するときはいつもする人、誰か特定の人に会うためにする人、社会人として他人に会うときはするのが常識だと思っている人…などなどです。

このようなばらつきがある中で、例えば仕事の為に仕方なく化粧をする人が、時間がないためにやむを得ず電車で化粧をした場合、それを見た外出して他人に会うとき(他人の目に触れるとき)は化粧するのが常識だと思っている人はどのような印象をその人に持つでしょうか。

おそらくそこでの疎外感、化粧をする人から発せられる自身に向けられた無関心の度合いは、他のマナー違反のそれとは一線を画す程強く感じられるものとなるでしょう。

僕は記事の最初の方に「化粧のような一般的に自宅などの公共空間からは見えない私的領域においてされるような行為」と書きましたが、なるほどこの認識は浅いところでは多くの人に共有されたものではあるけれども、上記のように化粧に対する考え方の違いによって、その認識の度合いに差があることが、問題の一つの要因であるような気が現時点ではしています。

 

解決策として

マナー違反とされる行為は電車内の空間の儀礼的無関心に拠って作られた秩序への脅威とみなされるがためにタブーとなってしまうと説明しました。

マナー違反をする人、それを見て不快に思う人双方がwin-winの関係でこの問題を解決するためには、別の方法で電車内の秩序を構築するという方法が考えられます。

例えば、通常の車両と隔絶した、儀礼としての無関心の範囲を逸脱するとみなされたためにマナー違反となった行為を許容する車両を作る、というような方法です(もちろん周囲に実害を与えるような違反・犯罪はNoです)。

鉄道を運営する会社側がこのような「完全な無関心」を認める車両を一部設け、車内の状況・文脈を予め設定することで、人々に儀礼的無関心による秩序に依存しない公的空間を作るように仕向けるわけです。

特に時間的余裕の無い日本の朝の通勤時間帯においては、この車両は電車に乗る間に出来ることの選択肢を広げるので、多少の需要はあるような気もしています。

(とはいっても、その前に労働環境と朝の電車の混雑を改善する必要がありますが…)

 

 

 

 

 

公共の場における「萌え絵」と「文明化」

社会

 

 

ここ最近再び公共の場におけるいわゆる「萌え絵」の存在についていろんな議論が交わされてますね。

今回は何か個別の問題に対して何か解決策を考えてみるというわけではなく、一つの観点から見た「萌え絵」問題の枠組みを一度俯瞰してみたいと思います。

僕が見ている限り、公共の場における萌え絵が問題となる場合、何か1つだけの限定された観点からの非難ではなく、いくつかの方面からの非難があるように思えます。

今回の記事では、便宜上、「公共の場に過度に性的な表現のある萌え絵を置くのはどうなのか、許容されるラインを超えているのではないか」という非難の1形態から、「公的空間における性的表現」について考えてみたいと思います。

 

この問題を考える上でまずはっきりさせなければならないのは、「そもそもなぜ公的な空間では性的表現は排除、あるいは抑制されなければならないのか(されるようになったのか)、という点です。

ここではこのブログに何度も登場している社会学ノルベルト・エリアスの議論に従って、この疑問についての解答を探ってみたいと思います。

エリアスによれば、近代以降のような強力な中央集権による国家が生まれる以前の段階の中世ヨーロッパでは、今ほど私的領域と公的領域の区別がなされておらず、人々も自らの様々な欲望や衝動を抑制することは少なかったと言います。

というのも、当時は暴力の独占が未達成でそれを背景とした法体系を執行する主体がおらず、人々は常日頃から自分の身を自分で守る必要があったからです。そのような環境では自身の衝動の抑制は無意味どころか有害ですらあります。

また、貨幣経済やそれに伴う産業の発達、そして「分業」が進んでいなかったために、人々の関係構造は実に単純で、彼らは自らの生を他人に依存することなく暮らしていました。このような場合、関係のこれからを見据えた感情のコントロールというようなものは不必要ですから、人々はそのコントロールの技法も学びません。

しかしこのような状態は強大な権力を備えた絶対主義国家、あるいはその先の近代国家が誕生する過程で変化していきます。

中央政府による暴力の独占を背景に厳格に法が行使されるようになり、また、それによる治安の安定から産業の発展と分業体制が生まれ、人々の関係はそれまでより格段に強固・複雑になり、彼らは自身の生を相互に依存しあうようになります。

その結果、人々はかつてのように自らの欲望や衝動に正直ではいられなくなり、最初は(警察権力などの)外的強制によって、その次は「自己抑制」によって、自らのふるまいを洗練させ、感情コントロールの技法を学んでいくのです。

 

そのような中で、今度は上流階級を発端として、「礼儀作法」や「マナー」と呼ばれるようなものが発明されます。というのも、暴力の独占が達成された(宮廷)社会では、すでに他者との競争の中で暴力が手段として使用されることはなく、他者の感情を見極め、自身の感情をコントロールする技術が重要となるからです。「礼儀作法」や「マナー」とは、そのような穏やかな競争の中で生まれた技法であり、他者との違いを作るうえでの画期的な発明品だったのです。

これら礼儀作法やマナーが示した規範は多岐にわたりますが、性的表現の公的領域からの排除もその一つでした。というのも、その発生過程からすれば当然ですが、これらの発明品が志向する傾向の一つに、人間の動物的な部分や瞬間(人間が動物であることを思い起こさせる部分や瞬間)の公的空間からの排除があったからです。*1

性や排泄、食事作法にいたるまで、動物的で粗暴なふるまいが次々と「発見」され公的空間から排除されていく。その中で人々はそのようなものに対しての感受性を高め、自らふるまいを洗練させていく。これをエリアスは「文明化」と呼び、現代を生きる人々はこのような歴史を経て、衝動・感情の(自己)抑制をほぼ無意識に当然のように行っているのです。

これが公的領域における性表現の抑制や排除の、エリアス的観点から見た一要因ですが、これだけでは「萌え絵と性的表現」について考えるには材料が足りないように思われます。

というわけで、「文明化」後の20世紀ごろから見られ始め、現在でも続いていると思われるある現象について説明します。僕はこの現象が、今回の議論を考えていく上で重要な示唆を与えてくれると考えます。

 

「文明化」によって人々は衝動を自己抑制し、ふるまいを洗練させてきたと先ほど述べました。しかし20世紀頃から、性の解放や道徳基準の弛緩など、一見「文明化」と逆行するような現象が世界各地(の先進国)で見られるようになったのです。*2

具体的にはファッションにおける肌の露出の増大(ここには水着等も含まれる)、公的空間での性的な話題の増加、コミュニケーション作法の厳格さの消滅等々です。*3

20世紀に始まったこの傾向をどう説明するのかは社会学者の間でも意見が分かれているところですが、見解の1つにこれを文明化の延長であるとするものがあります。

つまり、規範やルールの外的強制から、それらの内面化を経た自己抑制からさらに進んで、これまでの規範の「厳格な運用」を脱して、どこまでなら自己を表現・解放していいのかを自らで決める「新しい自己抑制」が文明化の最先端として生まれた、というのです。

ここではこれまでよりもより強い自己抑制が求められます。 というのも、ただ単に規範を受容し、無意識的に自らの衝動・感情を閉じ込めるだけの「自己抑制」ではなく、他者との関係の中で、どの程度感情のコントロールを緩め、それを表現するかを自己が意識的に決める「自己抑制」が必要になってくるからです。

なぜこのような新しい技法が求められるようになったかについては諸説ありますが、1説に、経済発展による平等化による各階級の交じり合いと接近により、それまで階級間の差別化として有用だった礼儀作法等の厳格な運用が無意味なものとなった結果、「道徳規範から自由な自己」を演出することが、新しい区別の方法として求められたというものがあります(このあたりは現在のコミュニケーション能力と密接にかかわっているように思います)。

 

さて、ここまで新しい自己抑制について説明してきましたが、今回の議論である「性的表現のある萌え絵の公的空間での存在」に関しては、この「心理化」(ある社会学者はこの新しい自己抑制の形を、抑制から解放までを自らが主体となって決めると言う意味でこの用語を用いています)の観点から考えることが出来るのではないでしょうか。

つまり、「一度公的な場から排除され、私的領域に隠されたものが、再び公的な場へと持ち込まれる」中で、どこまでが許容範囲でどこからがアウトなのか現状ではコンセンサスが得られていない(というより本来それが新しい自己抑制の本質)、というのがこの昨今の「萌え絵」問題を形作る一つの枠組みとしてあるのではないでしょうか。

そして実写や写実的な絵画や彫刻とは異なる「萌え絵」の持つ特殊な文脈で発達してきた比較的新しい記号的表現もまた、ラインを設定することが難しい原因となっているように思います。

ただ歴史を振り返れば、これまでそうした公的領域からの排除などからは特権的な地位を持っていたと考えられる宗教絵画などの、(性的な面からでなく芸術的な観点から鑑賞するという文脈が付着した)一般にいわゆる芸術作品として見なされるものでさえも、ミケランジェロの「最後の審判」の例が示すように、そうした周囲からの視線というものは避けがたいものであるようです。*4

 

現状をみるにこれからも同じような問題は続くように思われます。

ただ他者や社会との関係の中で表現の許容範囲が流動的に変化することが「新しい自己抑制」≒「心理化」の時代の特徴でもあることから、現在非難されている表現がこれからもそうであり続けるのかは誰にも予測は難しいところでしょう。

規範の自明性や確固たる支配的な価値観が失われ、あらゆる選択が個々の判断に委ねられるという傾向は、「再帰的近代」とか「リキッド・モダニティ」などと呼ばれるような現代ではある意味普遍的なものであり、その意味ではこの「萌え絵」の問題も、そのような時代背景から必然的に生じた衝突の一つである、と言うことができるのかもしれません。

 

この件で最近話題になった記事

b.hatena.ne.jp

togetter.com

anond.hatelabo.jp

 

追記 

たまたま同じ例(ミケランジェロの「最後の審判」)を挙げられた方の記事がありました(語られている文脈は違いますが)。

honeshabri.hatenablog.com

 

 

参考論文

 奥村隆 文明化と暴力の社会理論ーノルベルト・エリアスの問いをめぐってー

 

 

*1:面白い例の一つに料理における「丸焼き」の排除があります。動物の「丸焼き」は、食事をする人々に自らの動物性を思い起こさせる粗暴なものだと考えられたようです。

*2:この現象が最もラディカルな形で進行したのがオランダでした。オランダは今でも、性に開放的な国で知られています。

*3:ここで重要なのは肌の露出の再増大などは、文明化の発展の中で人々の高度の自己抑制が達成されて初めて可能となるということです。このような強い自己表現は、他者の自己抑制によってその安全性が担保されています。

*4:とはいいつつ作品が芸術と見なされることによって公的空間に存在する例も数多くあるでしょう。ただここでも性的な表現とのバランスがファクターになるように思います。

「本音」の場としてのインターネット

ネット

 

前回の記事では、インターネットが「表舞台」の「リアル」に対して、「舞台裏」(陰口の領域)的な役割を担っているのではないかと書きました。

そしてインターネットを舞台裏とした場合、表舞台よりも舞台裏のほうが多くの人の目に触れ、露出度が高いという逆転現象が起きているのではないかとも書きました。

これについて最近のニュースなどから僕自身少し考えることがあったので少し付け足しておきたいと思います。

 

ここ1週間ほど、ある元アナウンサーの方のブログ記事が注目を集めています。

内容ついてはここでは詳しく述べませんが、僕が気になったのはそのブログのタイトルでした。

というのも、そのタイトルが、僕が前回記事で主張したような考えを補強するようなものに思えたからです。

恐らく件のブログの著者である元アナウンサーの方は、自らが普段主に活動するメディア、つまり「テレビ」などの表舞台に対し、そこでは言えない自分の「本音」を主張する場としてインターネットを選択し、その意思もあってかあのようなブログタイトルを掲げたのでしょう。

前回記事に書いたとおり、インターネットを舞台裏として使う人は多くいますし、そのこと自体は全く責められることではありません。

しかしここで1つの疑問が僕の頭に浮かびました。

それは、「テレビなどの既存のメディアを『表』とした場合、インターネットは『裏』と言えるのか」というものです。

既に何度も書いているように、インターネットを裏の領域として使っている人は多くいます。そこで書かれている「本音」は実に様々ですが、ここでは例として仕事の愚痴、特に職場での人間関係の愚痴を考えてみます。

インターネットで綴られる職場の人間関係の愚痴、例えば上司や後輩に対してのそれは、職場という表舞台が想定されており、そこでは言うことがはばかられるからこそ舞台裏に持ち込まれたものです。

冒頭で触れたように、確かにインターネットの方が職場に比べてはるかに大規模ですが(というよりも全世界に公開されています)、その書き込みが自分のものであると職場の人間にばれたりさえしなければ、職場の秩序には影響がありません。

つまり、舞台裏の利用はそれが表舞台と厳密に分離され、それが観客からは見えない(分からない)ことで初めて、安全で有効なものとなるのです(この場合観客は職場の同僚)。

 

翻って今回の件はどうでしょうか。「テレビ」を表舞台と設定した場合、「インターネット」はその裏の領域として適切なのでしょうか。

テレビが表舞台だとすると、それは前述の職場の例のように、本音を聞かれてはまずい特定の人間関係が存在するわけではありませんから、表と裏を分かつのは「大衆性の高さ」となるのでしょうか。

しかし媒体としての情報拡散能力、そしてその受け手の人数という点では、インターネットはテレビと比較して劣るようにも思えませんし、そもそもテレビを視聴する人とインターネットを使う人は特に分離されてはいません。

結局、今回の場合この2つを決定的に分かつのは、関わる人の多さということなのではないかと思います。テレビは多種多様な人々が力を合わせて番組を制作しています。そこにはもちろん多くの人々の生活がかかっていて、何かあったときの悪影響は自分以外の多くの人間に及びます。このことが、テレビを初めとした既存メディアの、一定の信頼性やモラルを維持することに役立っているのでしょう。

 

とはいえ、元アナウンサーの方が、テレビでは言えないと彼自身が考えていた「本音」を自身のブログで綴ったことは間違いないでしょう。

さてそこで「本音」について少し考えてみます。

修学旅行の夜に仲間内で好きな人を言い合うのが盛り上がるように、「本音」「秘密」「真実」を伝え、知ること、あるいはそれを共有することは非常に楽しいものです。

「本音」で語り合うことによって生まれる深い理解は、人間関係や集団を結束させたり、それらをより良い道へと導く「前進」だとされています。

しかし今回の件のような政治的な話題の場合はどうでしょうか。

本音のようなものは私的領域に留め、多くの市民の視線が飛び交う公共領域においては、政治は各々が「仮面」を付けた上で、(理性的な)善き市民としての役割を演じる中で執り行われるべきだとしたのは思想家のハンナ・アーレントでした。

誰かが発信した膨大な「本音」が嫌でも目に入ってしまうこのネット社会で、アーレントのこの主張は現代の私たちにとってより重要な意味を持っているのかもしれません。

 

 

 

Twitterにおけるコミュニケーションについて

ネット

 先日Twitterで、このようなハッシュタグがトレンドに上っていました。

 

「#オブラートにブスと伝えよう」

 

(このタグの文法上のおかしさはとりあえず措いておきます。)

このような文言がTwitterというネットサービスの中では大衆性の高い領域で数多く言及され、それがたくさんの人々の目に入ることそれ自体については、様々な意見があると思います。

しかしここではこのタグの是非については論じません。

僕はこれを見てまず最初に、「まるで(男子)中学生の内緒話のようだ」と感じました。

中学生がクラス内の異性に聞かれたらまずいと考えて仲間内だけでヒソヒソと話すような、そんな光景をこのタグを見て僕は連想したのです。

そういう流れで僕は、いつまにか自身の中学生時代の記憶を辿っていましたが、ふいにある一つの疑問が浮かんできました。

それは、「このタグで大喜利をしている人にとって、インターネットはどういう存在なのか」というものです。

 

社会学者のアーヴィング・ゴフマンによれば、人間は、自身が他者から期待されている役割を演ずるパフォーマーとして振る舞い、自己の印象を操作し、同時に場の秩序を保つ「表舞台」と、本音や陰口を言うことで表舞台とのバランスを図る「舞台裏」を行ったり来たりする存在だとしています。(同じく社会学者の奥村隆は、この表舞台を「思いやり」の領域、舞台裏を「陰口」の領域と捉えています。)

 そして彼は、この舞台の2つの領域はその性格上厳密に分離されなければならないと言います。というのも、この分離がうまく行かなければ、表舞台における演技は一挙に空虚なものとなり、舞台の秩序は崩壊してしまうからです。(ゴフマンは例としてホテルの従業員達の行動を挙げています。彼らは宿泊客の前では従業員としての役割を完璧に一方で、控室では客を戯画化し、徹底的にこき下ろすのです。)

通常、社会と呼ばれるような(大衆性の高い)場では、「表舞台」の論理によってそこでの秩序は保たれ、人々は安全に自身の「面子」を保つことができています。

 

これまでの議論からすると、このハッシュタグは、通常舞台裏でなされる種の話題であることは間違いないように思われます。

というよりこのタグは「オブラート」の語が示すように、これからの表舞台での「演技」を想定した打ち合わせのような雰囲気さえ漂わせています。

 

では、ここで当初の疑問に戻りたいと思います。このタグで大喜利をしている人々は、このように通常舞台裏に持ち込まれるような話をTwitterで話題にしていますが、彼らはこのTwitterなどインターネットをどのような存在として捉えているのでしょうか。

率直に、彼らは「舞台裏=陰口」の領域として捉えていると僕は考えています。

それは何に対しての「裏」なのでしょうか。おそらく、ネットとの対照においていわゆる「現実」とか「リアル」と呼ばれるものに対してのものだろうと推察されますが、ここで面白いのが、この舞台裏は、裏と言いつつ実際には「全世界に」公開されているという点です。

つまりここでは、表舞台よりも舞台裏の方が大規模で露出度が高いという逆転現象が起きているのです。

もちろんインターネットを使いコミュニケーションをする人が、全員そこを舞台裏とみなしているわけではないであろうことは確かです。

例えばTwitterのプロフィールに実名や職業を書いているような人は、インターネットを表舞台として扱い、求められる役割演技をしている傾向が(他よりは)強いような印象を受けます。

このように考えるとインターネットは、その場が表か裏かコンセンサスが得られないままに、様々な目的を持った人々が同居している混沌とした空間であると言えるのかもしれません。

 

もしかするとインターネットは、そこを表舞台とする人々にとって不利な場であると言えるのかもしれません。

なぜなら場の秩序などお構いなしに自由気ままに発言する人々と、同じ舞台に立たなくてはならないからです…

…と言いたいところですが実は事態はそんなに単純ではないようです。

なぜなら上述のホテルの従業員のように、場が舞台裏であることによる陰口の「共犯関係」がここでは成立しないからです。

従業員の控室での陰口は、そのメンバー内においてそれを咎める人はいませんが、Twitterなどでは、その大衆性の高さゆえにメンバーの外部からそれを咎める人が出現する可能性が常に存在しています。

したがってこの舞台裏は、ここが表舞台だと考える真面目で(彼らにとっては)厄介な同僚がいつでも侵入する危険性のある、気の休まらない控え室であると言うこともできるのかもしれません。

 

続きです。

human921.hatenablog.com