ペンギンの飛び方

本を読んだりニュースを見たりして考えたことを、自由に書いていきたいと思います。

「集団主義的利己主義」が立ち行かなくなったとき

 

はてなブックマークでこちらの投稿が話題になっていました。

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

この投稿を読んでいて、以前僕が書いていたこの記事

human921.hatenablog.com

 

の内容を思い出したので整理して再度自分の考えを書いてみます。

 

 

哲学者のポパーは、プラトンを批判する文脈で、次のような対立関係を提示しています。

(A)個人主義 は (A)´集団主義に対する。

(B)利己主義 は (B)´利他主義に対する。*1

 ポパーはここから、プラトン(本来違うものであるはずの)個人主義と利己主義を同一視して、その反映として、集団主義利他主義をセットにすることで、個人主義の価値を不当に貶め、集団主義を擁護したと批判しています。

ポパーの示した対立関係を踏まえると、このカテゴリーの内部では人間は次の4つのタイプに分けることができるといえそうです(もちろん傾向としてそうであるというだけですが、ここでは議論上、単純化して話を進めます)。

 

個人主義的利己主義 ②個人主義利他主義

集団主義的利己主義 ④集団主義利他主義

 

ここでそれぞれの主義の特徴を見ていきます。(都合上順番を変えています)

 

個人主義的利己主義

「自らが属する共同体のことにはなんら関心なく、己の利益のみを追求する」。

この文脈での個人主義批判はプラトンの時代から現代に至るまで、様々な場面で見ることができる。

 

集団主義利他主義

「集団に自己を依拠させ、自集団に対する愛着からそうした共同体のため、あるいはその成員のために自らを犠牲にする」。

あらゆるフィクションなどで、肯定的に登場してくる人物像。

 

個人主義利他主義

「属性(性別、国籍、民族、思想信条)にかかわりなく他人の不幸に心を痛め、幸福のための手助けをする」。

プラトンはこのタイプを無視することで個人主義を攻撃。

 

集団主義的利己主義

「自分が得られる利益のために自集団の利益を第一優先に考え行動する」。

 

さて、冒頭で取り上げた投稿の話題に合わせると、集団主義的利己主義が今回の問題関心となります。

そこでもう少し詳細に集団主義的利己主義を考えてみます。

まずこの主義には「集団の利益と自らの利益が連動している」という前提条件が必要となります。

当然集団の規模が大きいケース、例えば国家などの場合、そうした「連動」が発生しない状況は簡単に起こりえます。

したがってここにおいて普通想定される集団の規模は、階級であったり特定の職種、はたまた「世代」だったりするわけですが、しかし時代状況によってはこうした「中間集団」の利益を代弁する組織が弱いか、あるいは存在しないために集団の利益を促進する機会がないという場面が生じ得ます。

また、集団や個人の動きが流動的になっているために、そのような中間集団にあまり帰属意識を持たない、あるいは利益を考えても意味がないという場合もあるでしょう。

こうした状況で集団主義的利己主義はどうなるのでしょうか。

一つには、個人主義的利己主義に思考様式を変えるというルートが存在します。

「自集団の利益向上を介して自分の利益も〜」という道が険しいのならば、己の力を信じて努力するという道も、相当に困難なものですが別の選択肢として浮上してきます。考え方によっては集団主義的利己主義よも回りくどくなくある意味わかりやすいとも言えそうです。

しかし自らの力で道を切り開くということは誰にでもできることではありません。

したがってまた別のルートが必要になります。

それは集団主義的利己主義にとどまったままでその認識を変えるというものです。

まず集団についての認識ですが、集団が流動的になったからこそできる思考がここで生まれます。それは己の利益のために集団を「使う」という道具的な思考でもって集団を「選ぶ」というものです。

このため時々で選ばれる集団は状況によって様々で、 己の利益を最大化する集団が、「自集団」として数ある選択肢の中から選択される形になります。

そしてここで「選択」とは、実際にその集団に自らが所属しているかどうかとは関係なく、自分の認識上において行われることとなります。

次に利益についてですが、ここでいう「利益」とは、(集団を通した利益向上がもはや望めないのだから)もはや普通考えられるような実体のあるものではなく、自らが属すると決めた集団が、その帰属によって自身に与える高揚感、自己肯定感のことを指しています。

仮にこの思考様式を⑤ネオ集団主義的利己主義と呼んでみるとして、これがもたらす思考の結果を例を挙げて考えてみます。

例えば国内の経済格差の問題に関してですが、 ⑤ネオ集団主義的利己主義の思考傾向を持つ人々にとっては、こうした問題は非常に目障りとなりそうです。というのも、そうした社会問題を生んでいることそれ自体が、自らの依拠する共同体(国家)の価値を貶め、結果的に自らのそれも削いでしまうと彼らは感じるからです。

よって彼等は、貧困問題をなかったことにしたり、あるいは自己責任だとしてそれを処理します

問題に対して無関心なだけの①個人主義的利己主義とはその点が異なります(もちろん①の人々も自己責任論を唱えることがあるが、その理路が⑤とは異なります)。

次に国家や民族間、あるいは国内の地方間に生じる問題や論争について考えます。

⑤ネオ集団主義的利己主義の人々は、自らの属する国家や民族よりもより弱い(と彼らが考えている)相手に対するときは高圧的にふるまう一方で、そうとは考えられない場合(相手が自分よりも強い)は、存在している問題や論争をなかったことにしたり、実際は仲間であるとふるまったり、それも難しいときは、認識上において、自らが相手と同じ集団に属すると考えるでしょう。

なぜなら、あくまで彼らにとって重要なのは「自らが属すると決めた集団が、その帰属によって自身に与える高揚感、自己肯定感」だからです。

このように、⑤に属する人々は、集団内部の問題はそれをないものとして処理し、集団間の様々な対立の中では、状況に合わせて、一方よりも(権力や腕力、その他種々のカテゴリー内での「ヒエラルキー」において)より強いと思われる集団に自己を依拠させ常に強者としてふるまうことで、自己の安定を図ります。

この⑤ネオ集団主義的利己主義は外形的には、集団の利益や価値について熱く語っているという部分において、通常の③集団主義的利己主義、さらには④集団主義利他主義と見分けがつかない場合があります

しかし実際には彼らは、自らの集団やその成員の利益や価値、運命について本質的な関心があるわけではなく、それが認識上において自己に何をもたらすかという間接的な関心しか持ちません。しかしその集団すらも、彼らにとっては結局、交換可能な対象なものになるわkです。

この⑤ネオ集団主義的利己主義は、言ってしまえばいわゆる権威主義なのではないかと感じますが、それは措くとして、自らの利益の表現をする適切な手段が、個人、集団問わず奪われたとき、あるいは手段としてあっても難しいものであったとき、このような思考が生まれるのではないかと思われます。

また同時に、おそらく⑤ネオ集団主義的利己主義的傾向を持つ人々は、③集団主義的利己主義が立ち行かなくなった時代に、わかりやすい「正攻法」となってしまった①個人主義的利己主義の価値観を深く内面化しているということも、またこの問題を複雑にしていると思われます。

 

と、ここまでつらつら書いてきましたが、実際には問題は、この指摘のようにもっと単純なものかもしれないという気もしています...。

それらの害悪を匡正できないものとして容認する習慣は、きわめて長いあいだ持続していたので、多くの人びとはそれらの害悪を、できるならば喜んで匡正したいことがらだと考える能力を、失ってしまったように思われる。

治療ができないという絶望から、その病気の否認にいたるまでの距離は、あまりにもしばしば、ほんの一歩にすぎないのであり、このことから、匡正が提案されることを、まるでその提案者が、害悪からの解放を提案するのではなくて害悪をつくりだしているかのように、嫌悪する気持ちが出てくる。

国民は、それらの害悪に全く慣れてしまっているので、それらについて不満をのべることを、まちがってはいないにしても不合理なことであるかのように感じる。*2

 

*1: K.R.ポパー(1944=1980)小河原誠 他訳『開かれた社会とその敵 第一部 プラトンの呪文』p.p108‐114 未来社

*2:J.S.ミル (1861=1997)水田 洋訳『代議制統治論』岩波文庫 p.179(太字は筆者による)

抗議の「作法」への批判を見たときに、僕が思い出す指摘

 

 最近のニュースやtwitterを見ていて、過去に僕が投稿した記事でも引用していたキムリッカの例の指摘を久々に思い出したので再度引用したいと思います。

 キムリッカは、「市民性」という名の、私たちが日常生活全般において要求される、たとえ最小限の徳性しか具えていない市民といえども身につけなければならない「徳」の存在を指摘して、(市民性の本来の意義を強調しながら)次のように述べています。

 たしかに、リベラルな社会において市民性という道徳的義務は「良い作法」という美的な構想と混同されることもある。たとえば、市民性への期待は、激しい抗議のやり方 ー抑圧された集団にとっては自らの声に耳を傾けさせるために必要なものであるかもしれないー を挫くために用いられることもある。

不利益を被っている集団が「派手にやる」ことはしばしば「趣味が悪い」と見なされる。良い作法にたいするこの種のおおげさな強調は、奴隷根性(servility)を促進するのに用いられうる。

しかし真の市民性というものは、どんなにひどい扱いを受けていたとしても他者に微笑みかける ーあたかも被抑圧集団は抑圧者に対して行儀よくするのが当たり前であるかのようにー、というようなことを意味しているのではない。そうではなく、他者が自分に同等の承認を与える条件の下で他者を対等者として処遇する、ということを意味しているのである。*1

 

権力者(抑圧者)側は権力を持っているが故に、そもそも「派手にやる」必要がない。しかし被抑圧者側はそうではない。

このことは僕自身忘れがちだし、正直に言えばそうした抗議手法について、僕の中の「市民性」なるものがあまりいい気分ではないことを必死で伝えてきます。

そんなとき、そうした「いい気分でないこと」が含意するものと、そのように思える自分の立場の意味について、立ち止まって考えさせてくれるこのキムリッカの指摘は、自分にとってずっと大切にしたい言葉です。

*1:W・キムリッカ 2005年『新版 現代政治理論』p439 日本経済評論社

政治における無関心の「パラドックス」

 

 政治における「無関心」、あるいは政治決定をそのまま受任する態度がある国家において受け入れられるにはそうした態度が「有効」である(もしくは関心を持つことが無意味)と国民に広く認識されなければなりません。

ところで、そもそも政治に対する無関心は、有効なものとなりうるのでしょうか?

当然、政府が自身に直接的な危害を加えたり、極端に高い程度にまで身体的、内心の自由を制限しない、というのは必要条件に入るでしょう。なぜなら、そうした政治決定に無関心であることは、難病に冒された際にそれに対しなんの対策もとらず無視を決め込むことと同じく、自身にとって著しく有害であるからです*1

また、「一般的政治的自由が確保されている」ことも条件に入ってくるでしょう。それは何よりまず、上記のような極端な立法を事前に排除する必要性から求められます。同時に、政府の一般的な失政や不正を防ぎ、修正するという意味からも、この自由は不可欠です。

無関心であるからとって時の政府の失策を唯々諾々と受容する義務は当然なく、できればそうした害を回避した方が好ましいのは当然です。しかしそのためには、「無関心な自分」以外の、政治に関心があり、同時に余裕のある誰かが、国の統計や公文書など(改竄のされていない開かれた)正確な情報を手にし、そこから事実に基づく正しい政治的判断を導き、それが政策や政権の変更という形でフィードバックが行われる体制を常に用意しておく必要があります。

ここまでの非常に簡単な推論によって、一つの仮説が導かれるように思われます。それは、政治に無関心であり続けるためには、『民主主義のルールを破壊する行為』に対してはだけは関心を持たなくてはならない」というパラドックスです。

無関心が有効であるためには、少なくとも上記二つの条件を満たしている必要があり、中でも、民主主義下においては政治的自由が特に大きな鍵を握っています。したがってこの自由をなきものとしたり、意義を無効化させるような政府の行為は、あっという間に「無関心」を有害なものへと変化させるでしょう。

こうした政府の行為の例としては、公文書の秘匿、改竄、言論の弾圧やメディアに対する圧力、公正な司法への介入などが挙げられます。

これらを総称して、とりあえず「民主主義のルールを破壊する行為」と呼んでおくと、こうした行為が政府によってなされたとき、あるいはなされそうであったとき、普段の生活で政治に無関心であり続けたい国民・市民はとりわけ全力で民主主義的機構が生きている内に、その政府や勢力を、行政組織、また立法府から排除するよう努力しなくてはなりません。

「とりわけ」と言ったのには理由があります。

というのも、政治に関心があり、かつ十分に(経済力があり)利己的な人々は、持ち前の関心によって得られた知識を駆使してそのような難局を潜り抜け、また権力に接近することで、平時よりもむしろ大きな利益、地位を得ると推測されるからです(国家が破局的な状況にならない限りで)。

したがって、普段政治については無関心でありたいと考える人々であったとしても(むしろだからこそ)、逆説的に、政府の「民主主義のルール」を破壊する可能性のある行為にだけは、強い関心を持ち、またそれを防ぐよう努力する必要があると考えられるのです。

そしてそのように努力することが、政府のパフォーマンスにおいても、より「マシ」なものが維持される可能性が高くなるおそらく唯一の道であると思われます。

 

 

 ※ところでこうした懸念は、有能な政府ならば杞憂なことのようにも見えます。実際、民主主義のシステムは、主権者の決定に対して正統性は付与するものの、その内容について「正しさ」を保証するものではありません。したがって有能な政府ならば、独裁であったとしても民主主義よりも首尾良く国家を運用する可能性は十分にあると考えられます。

ところが歴史は、それが長期的な視点ではうまくいかないこと私たちに教えてくれています。結局のところ、批判のはたらかない強大な権力を独占する体制は腐敗し、パフォーマンスを落としてしまうのです。

※無関心とは別に、そもそも自身の利益を権力者のそれと同一視してしまうか、もしくは自分がそっちの側に入れると錯覚してしまう(と同時に反対勢力に他罰的な欲求を抱く)権威主義的価値観の問題もありますが、ここではそれには触れませんでした。

  

 

 

*1:難病の例では、前提として生存を目的とした場合に限られます

「お前が言うな」論法の無意味さと有害さ

 

mainichi.jp

 

b.hatena.ne.jp

 

 

2枚の布マスクを巡る一連の報道を見ていて、少し前から気になっていた「お前が言うな」論法についてに僕が感じていたことをつらつらと書いてみたいと思う。

 

まずは「お前が言うな」論法について、初めに整理しておく。

この論法は、ある問題についての批判者の過去の言動や現在の状況を、当該問題と絡めて指摘することで、批判者の批判の効力を減じることを目的とした論法である。

これには見逃せないある重要な前提、「ある問題についての批判者は、その問題においては清廉潔白でなければならない」という道徳観が存在しているのだが、ここではその是非については深く立ち入らない。

僕が気になるのはもっぱら、この論法が使われる状況だ。それは大きく2つに分けることができる。

まず1つは、問題の内容が閉じている、つまり論争の当事者以外の第三者が、問題自体に直接の関連を持たないないケースだ。

例えばここに長年の運動不足と食べ過ぎから見事な肥満体形になった太郎と呼ばれる男性がいるとする。彼は健康や見栄えの点などから、痩せたいとは思っているのだが、ダイエットは続かない。その状況を見た友人の次郎、-彼もまた太郎に負けず劣らず肥満である-が太郎にこう言う、「君はずっと太ったままだね」。太郎も次郎にこう返す、「君に言われたくないよ」。

さてこの例では、太郎が次郎の自らを棚に上げた批判に抗して、「お前が言うな」論法を使っている。おそらくこのような使われ方が、この論法の日常生活におけるもっともポピュラーなものだろう。二人の肥満という問題は解決されたわけではないが、自らに対する批判者の説得力を低下させるという効果を、この論法はしっかりともたらしている。

もう1つ例を挙げる。

例えばワイドショーである芸能人の不倫が取り上げられ、それを過去に不倫のスキャンダルがある司会者が口を極めて批判したとしよう。その批判がそうした過去を持つ司会者だからこその、「自分のようにはなるな」という自戒を込めたものでなければ、おそらく視聴者からは司会者に、「お前が言うな」という批判が多数寄せられるだろう。

この例では、この論法を使っているのは論争の当事者ではなく、そのやり取りを見ている第三者である。したがって仮にこの論法によって司会者の言説がその効力を減じられたとしても、この第三者にとって大きな意味があるわけではない*1。そしてそれは、不倫を取り上げられた芸能人自らがこの論法を使って司会者を非難したとしても同じことである。なぜなら、そもそもこの芸能人の不倫という問題そのものが、第三者である視聴者にとってほとんど何の関係もないからだ。

 

これまでみた2つの例では、「お前が言うな」論法を使う者の立場は違えど(論争の当事者か、第三者か)、俎上に乗っている問題が第三者の立場からは無関係なものに限られているという点では一致していた(たとえば最初の太郎・次郎のケースでは、やりとりを見ているだけの三郎にとっては、2人の批判の応酬の行方はどうでもよいことである)。

しかしその問題というものが、第三者にとって常に無関係であるとは限らない。

これが2つめのケースで、この場合問題の内容は開かれており、論争の当事者以外の第三者も、それについて利害関係を持つ。

このケースに該当するひとつの例が、冒頭で取り上げたマスクだ。

僕のみたところこの問題の焦点となっているのは、布マスクの感染防止効果だが、政府と新聞社の応酬の結果どちらに軍配が上がろうとも、布マスクの感染防止効果に変化があるわけではない*2。したがってそれについて棚上げされたままになれば、私たち国民の側が被害を被ることになる。

こうした事例は、政党同士や、政府とマスコミ間の論争や批判の応酬においてよく見られる。この場合、第三者は国民や市民ということになるが*3、こと政治的な問題がからんでくると、(党派性という問題のために)私たちはそのことに気が付かず、あたかもリングの外からボクシングの試合を見ている観客のような立場で、論争の行方を見守ったり、あるいはどちらかに肩入れして応援したり(その反面としてもう一方を貶めたり)してしまう。

「お前が言うな」論法は確かに、人類に備わるある意味では重要な道徳観を反映しているのかもしれない。言った方は痛快だし、論争に大きな変化を生むことは否定できない。

しかし、論争中の問題が肥満や芸能人の不倫ではなく、政策に関する事柄や、政治における嘘、文書の改ざんなどであった場合は、私たちはその問題の中身に集中しなけらばならない。すると、ときには応酬の当時者となっている両者どちらも批判しなければならない場面もでてくることもあるだろうが、それが結果的には、国民や市民の利益につながる。

 最近では「ブーメラン」なる言葉もよく見られる。しかし俎上にあげられた問題が私たち自身に関係する事柄だった場合、「お前が言うな」論法での問題の棚上げは、まわりまわって私たち自身に、その「ブーメラン」を向かわせることになるだろう。

ところがそれは、最初にあげた1つ目のケース(問題が閉じている状況)に比べて間接的で時間差があるために気づくことが難しい。したがってこの意味では、「お前が言うな」論法は無意味であるばかりか有害ですらあると言える。少なくとも、論争においてはあくまでサイドメニューで、メインディッシュであってはならない。

 

このような政治的な論争について「お前が言うな」論法を使う傾向は、インターネットの発達によって強くなったように思われる。ある人物の過去の言動を拾ってくることははるかに容易になったし、なにより政治とマスコミの両者を対象化し、それに対してだれでも意見できる巨大なプラットフォームが出来上がったからだ。

このことは一般的には歓迎すべきことなのは言うまでもない。が、こうしたよろしくなさそうな弊害も生んでいるのもまた事実であるように思われる

 

 

2020年4月20日 

・文章の構成を修正

・その他表現を修正


 

 

*1:もちろん、その芸能人の熱烈なファンであれば、少しは胸がすく思いになるのかもしれないし、不倫を取り上げられた当該芸能人も、多少は気がまぎれる可能性もあるのかもしれない

*2:政府と朝日新聞の販売していたマスクは、質的にそもそも異なるものだという報道もあるが、ここではふれない

*3:もちろん多くの民主主義論においては、国民や市民は第三者ではなく問題の当事者として論争の中に入り議論すべきとされているが、ここではその見解については深く立ち入らない。

ナチズムの精神 (ハロウェル『イデオロギーとしての自由主義の没落』 読書メモ)

 

以前私が読了した本にハロウェル『イデオロギーとしての自由主義の没落』というものがある。

この著作は「(ナチ時代のドイツにおいて)1933年以前には公然と自由主義と名乗っていた優れた教授、裁判官、法律家、および公務員たちが、自由主義の基本前提を拒否するばかりでなく地上から凡ゆる自由主義制度を追放しようと積極的に努力する暴虐政治を承認し、或る者に至っては歓迎さえすることがどうしてできたのか」という疑問に対して回答を与えるという目的意識のもと著されたものだ。

要旨を簡潔に示すならば、「統合的自由主義自然権の存在を認め個人を自律した道徳的人格を持つ自由な存在であると定めたうえで、この自由の担保のために非個人的な権威として法があるとする考え)が、実証主義の法学への流入により倫理的内容を抜き取られ、法が単に最強(多数派)の意志の表れであり、それに対する服従が背後の強制力によって確保されていると認識されることによって、自由主義がもっぱら形式的なものとなり、それに伴い法の限界が消滅し、またそれに反対する論拠も失われ、ナチスの(反自由主義的な)主張をみすみす受け入れてしまった」というようなものになるだろう。

私にはこの主張が実態にどれほど近いのは不明だが(納得感はあるものの)、それでもその内容には非常に刺激的かつ示唆的なものが含まれていると思われるので今回いくつか引用する。

 

法が次第に「人民の意志」と、或いは特に議会内の多数派の意志と、同一されるようになるにつれて、法の正当性はその内容に依存せしめられることが次第に少くなり、それが発出した源泉の方に次第に依存せしめられることが多くなって行った。結局においては、「法」(Recht)は力と同一なものにさせられる。……法の形式だけが重要であると考えられるときは、専断に対して何らの実体的制限はあり得ない。

ハロウェル(1943=1953)『イデオロギーとしての自由主義の没落』創元社 p.p169-170

 

恐らく自由主義が犯した致命的な過失は、罪と無知とを同一視しようとする楽天的な試みであった。現代の自由主義者を描いて、ルイスマンフォードは言う、

「彼らの道徳的価値に対する色盲症が、彼らの政治的欠陥を理解する鍵である。だからこそ、彼らは野蛮と文明とを区別することができない。....プラグマティックな自由主義者は、悪という根本的な問題を認めることを拒んでいるので、悪人たちの意図と闘うことができない。…」

 

…又、アウレル・コレ ナイは言う、

「その『相対主義』、『寛容』、および『中立主義』("indifferentism") の信仰に おいて自由主義的精神は決定的にやり過ぎてしまったのだ。
ここには、一方においては最も野放図な主観主義に、他方では専断的な暴虐政治に広く開け放つところの、おとなしくて気前が良いと同時に身勝手で無責任な気分がある。…
…気取った批評は、終には恥知らずの非合理主義になる。洗練されすぎた科学的懷疑は、残忍なプラグマティズムになる。精神に対する不信は”物神崇拝的都族生活”への復帰となる。『心の寬さ』は、専制と階級的あるいは民族的排他主義との臆病な甘受になる。」…

 

 

自由主義的な政治的·経済的制度は、人々に対して自由と平等とを約束した。十九世紀になって、自由が放縦に堕し、実体的な機会の平等が形式的な法の前の平等に堕したとき、人々は自由主義的な政治側度に対する信頼を失いはじめた。自由主義的秩序が拠って立っていた価値さえも、多くの人々にとっては、存在しないとは言わざるまでも、幻想的なものとして映じた。
信仰にさからって信じたドイツ国民は、混沌から秩序をもたらそうと約束した人々に、彼らに対して何らかの安心感を与えようと約束した人々に、既に崩れつつある一制度の否定的批評から成る綱領を掲げた人々に、頼った。ナチスドイツ国民に対して、彼らが積極的に肯定し得るようなものは何も与えなかったとしても、少くとも彼らは、殆どすべての人々が歓迎し得るような、堕落した自由主義的制度の批判を提供した。国民は民族社会主義を信じた、といろよりも、むしろ彼らは自由主義的時代の約束を信じなかったのである。或る著述家が巧みに証明したように、ファシズムは他に代るべきものがなかったので入り込んで来たのである。…

ヒットラーが未だ登場して来ないずっと前に、自由主義時代の価値は破壊されてしまっていたので、大多数のドイツ国民は、単なる誓いの行為によって少なくとも安心感を回復することを約束した新しい権威を信頼する用意ができていた。彼らはブラグマティストとして、あたかもヒットラーが常に正しいかのように行動する用意があった。そしてその指導者の絶対無謬性の擬制の上に、…民族社会主義の構造が立っている。それは、このような擬制自体が放棄されるときにのみ、崩壊するであろう。この擬制を維持することが宣伝省と軍事組織との本質的任務の1つである。ただ決定的な軍事的敗北のみが、よくこの絶対無謬性の擬制を震撼し得る、―そのときはじめてドイツ国民は、彼らが現在混沌に代る唯一のものとして甘受している専制の外に、別のものがあることを知り得るであろう。…

 

…絶望のあまりに彼らは、ヒットラーの絶対無謬性を信仰する道を選んだ。そしてその信仰は、いかに逆説的であろろと、ペーター・ドルッカーが指摘する通りますます増大する絶望の深みから更新される。…この明白な逆説は、ドルッカーによって次の如く説明されている。


「大衆は何ものかを持たねばならない。…彼らは全体主義が提供しようとするものに深い不満を感じているけれども、他に何物をる得ることができない。したがって全体主義は妥当な解答たらざるを得ない。全体主義が与えるものに彼らが満足しなければしないほど、ますます彼らはそれで十分だと自らを 説得しようと努めねばならない。 彼らは深刻に不幸であり、深刻に失望しており、深刻に幻減を感じている。しかし彼らは、幻減を感じ不満を感じていればこそ、 全力をつくして全体主義を無理矢理に信仰しようとしなければならない。.…
…信仰に反対して信仰し、証拠を無視して信頼し、注意ぶかい暗論のあとで自発的に喝来するように不断に自己を説得することの、知的緊張は非常に大きいので、…彼らは矛盾したものが一つになるような一種の『ディーモン』を、超人であり魔術者であるものを発明しなければならない。彼においては邪は正であり、偽は真であり、幻想は現実であり、そして空虚が実体であるような、この『ディーモン』たることが即ち「指導者」の任務である。」

 

ハロウェル(1943=1953)『イデオロギーとしての自由主義の没落』創元社 p.p218-222