ペンギンの飛び方

本を読んだりニュースを見たりして考えたことを、自由に書いていきたいと思います。

政治における無関心の「パラドックス」

 

 政治における「無関心」、あるいは政治決定をそのまま受任する態度がある国家において受け入れられるにはそうした態度が「有効」である(もしくは関心を持つことが無意味)と国民に広く認識されなければなりません。

ところで、そもそも政治に対する無関心は、有効なものとなりうるのでしょうか?

当然、政府が自身に直接的な危害を加えたり、極端に高い程度にまで身体的、内心の自由を制限しない、というのは必要条件に入るでしょう。なぜなら、そうした政治決定に無関心であることは、難病に冒された際にそれに対しなんの対策もとらず無視を決め込むことと同じく、自身にとって著しく有害であるからです*1

また、「一般的政治的自由が確保されている」ことも条件に入ってくるでしょう。それは何よりまず、上記のような極端な立法を事前に排除する必要性から求められます。同時に、政府の一般的な失政や不正を防ぎ、修正するという意味からも、この自由は不可欠です。

無関心であるからとって時の政府の失策を唯々諾々と受容する義務は当然なく、できればそうした害を回避した方が好ましいのは当然です。しかしそのためには、「無関心な自分」以外の、政治に関心があり、同時に余裕のある誰かが、国の統計や公文書など(改竄のされていない開かれた)正確な情報を手にし、そこから事実に基づく正しい政治的判断を導き、それが政策や政権の変更という形でフィードバックが行われる体制を常に用意しておく必要があります。

ここまでの非常に簡単な推論によって、一つの仮説が導かれるように思われます。それは、政治に無関心であり続けるためには、『民主主義のルールを破壊する行為』に対してはだけは関心を持たなくてはならない」というパラドックスです。

無関心が有効であるためには、少なくとも上記二つの条件を満たしている必要があり、中でも、民主主義下においては政治的自由が特に大きな鍵を握っています。したがってこの自由をなきものとしたり、意義を無効化させるような政府の行為は、あっという間に「無関心」を有害なものへと変化させるでしょう。

こうした政府の行為の例としては、公文書の秘匿、改竄、言論の弾圧やメディアに対する圧力、公正な司法への介入などが挙げられます。

これらを総称して、とりあえず「民主主義のルールを破壊する行為」と呼んでおくと、こうした行為が政府によってなされたとき、あるいはなされそうであったとき、普段の生活で政治に無関心であり続けたい国民・市民はとりわけ全力で民主主義的機構が生きている内に、その政府や勢力を、行政組織、また立法府から排除するよう努力しなくてはなりません。

「とりわけ」と言ったのには理由があります。

というのも、政治に関心があり、かつ十分に(経済力があり)利己的な人々は、持ち前の関心によって得られた知識を駆使してそのような難局を潜り抜け、また権力に接近することで、平時よりもむしろ大きな利益、地位を得ると推測されるからです(国家が破局的な状況にならない限りで)。

したがって、普段政治については無関心でありたいと考える人々であったとしても(むしろだからこそ)、逆説的に、政府の「民主主義のルール」を破壊する可能性のある行為にだけは、強い関心を持ち、またそれを防ぐよう努力する必要があると考えられるのです。

そしてそのように努力することが、政府のパフォーマンスにおいても、より「マシ」なものが維持される可能性が高くなるおそらく唯一の道であると思われます。

 

 

 ※ところでこうした懸念は、有能な政府ならば杞憂なことのようにも見えます。実際、民主主義のシステムは、主権者の決定に対して正統性は付与するものの、その内容について「正しさ」を保証するものではありません。したがって有能な政府ならば、独裁であったとしても民主主義よりも首尾良く国家を運用する可能性は十分にあると考えられます。

ところが歴史は、それが長期的な視点ではうまくいかないこと私たちに教えてくれています。結局のところ、批判のはたらかない強大な権力を独占する体制は腐敗し、パフォーマンスを落としてしまうのです。

※無関心とは別に、そもそも自身の利益を権力者のそれと同一視してしまうか、もしくは自分がそっちの側に入れると錯覚してしまう(と同時に反対勢力に他罰的な欲求を抱く)権威主義的価値観の問題もありますが、ここではそれには触れませんでした。

  

 

 

*1:難病の例では、前提として生存を目的とした場合に限られます