ペンギンの飛び方

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公共の場における「萌え絵」と「文明化」

 

 

ここ最近再び公共の場におけるいわゆる「萌え絵」の存在についていろんな議論が交わされてますね。

今回は何か個別の問題に対して何か解決策を考えてみるというわけではなく、一つの観点から見た「萌え絵」問題の枠組みを一度俯瞰してみたいと思います。

僕が見ている限り、公共の場における萌え絵が問題となる場合、何か1つだけの限定された観点からの非難ではなく、いくつかの方面からの非難があるように思えます。

今回の記事では、便宜上、「公共の場に過度に性的な表現のある萌え絵を置くのはどうなのか、許容されるラインを超えているのではないか」という非難の1形態から、「公的空間における性的表現」について考えてみたいと思います。

 

この問題を考える上でまずはっきりさせなければならないのは、「そもそもなぜ公的な空間では性的表現は排除、あるいは抑制されなければならないのか(されるようになったのか)、という点です。

ここではこのブログに何度も登場している社会学ノルベルト・エリアスの議論に従って、この疑問についての解答を探ってみたいと思います。

エリアスによれば、近代以降のような強力な中央集権による国家が生まれる以前の段階の中世ヨーロッパでは、今ほど私的領域と公的領域の区別がなされておらず、人々も自らの様々な欲望や衝動を抑制することは少なかったと言います。

というのも、当時は暴力の独占が未達成でそれを背景とした法体系を執行する主体がおらず、人々は常日頃から自分の身を自分で守る必要があったからです。そのような環境では自身の衝動の抑制は無意味どころか有害ですらあります。

また、貨幣経済やそれに伴う産業の発達、そして「分業」が進んでいなかったために、人々の関係構造は実に単純で、彼らは自らの生を他人に依存することなく暮らしていました。このような場合、関係のこれからを見据えた感情のコントロールというようなものは不必要ですから、人々はそのコントロールの技法も学びません。

しかしこのような状態は強大な権力を備えた絶対主義国家、あるいはその先の近代国家が誕生する過程で変化していきます。

中央政府による暴力の独占を背景に厳格に法が行使されるようになり、また、それによる治安の安定から産業の発展と分業体制が生まれ、人々の関係はそれまでより格段に強固・複雑になり、彼らは自身の生を相互に依存しあうようになります。

その結果、人々はかつてのように自らの欲望や衝動に正直ではいられなくなり、最初は(警察権力などの)外的強制によって、その次は「自己抑制」によって、自らのふるまいを洗練させ、感情コントロールの技法を学んでいくのです。

 

そのような中で、今度は上流階級を発端として、「礼儀作法」や「マナー」と呼ばれるようなものが発明されます。というのも、暴力の独占が達成された(宮廷)社会では、すでに他者との競争の中で暴力が手段として使用されることはなく、他者の感情を見極め、自身の感情をコントロールする技術が重要となるからです。「礼儀作法」や「マナー」とは、そのような穏やかな競争の中で生まれた技法であり、他者との違いを作るうえでの画期的な発明品だったのです。

これら礼儀作法やマナーが示した規範は多岐にわたりますが、性的表現の公的領域からの排除もその一つでした。というのも、その発生過程からすれば当然ですが、これらの発明品が志向する傾向の一つに、人間の動物的な部分や瞬間(人間が動物であることを思い起こさせる部分や瞬間)の公的空間からの排除があったからです。*1

性や排泄、食事作法にいたるまで、動物的で粗暴なふるまいが次々と「発見」され公的空間から排除されていく。その中で人々はそのようなものに対しての感受性を高め、自らふるまいを洗練させていく。これをエリアスは「文明化」と呼び、現代を生きる人々はこのような歴史を経て、衝動・感情の(自己)抑制をほぼ無意識に当然のように行っているのです。

これが公的領域における性表現の抑制や排除の、エリアス的観点から見た一要因ですが、これだけでは「萌え絵と性的表現」について考えるには材料が足りないように思われます。

というわけで、「文明化」後の20世紀ごろから見られ始め、現在でも続いていると思われるある現象について説明します。僕はこの現象が、今回の議論を考えていく上で重要な示唆を与えてくれると考えます。

 

「文明化」によって人々は衝動を自己抑制し、ふるまいを洗練させてきたと先ほど述べました。しかし20世紀頃から、性の解放や道徳基準の弛緩など、一見「文明化」と逆行するような現象が世界各地(の先進国)で見られるようになったのです。*2

具体的にはファッションにおける肌の露出の増大(ここには水着等も含まれる)、公的空間での性的な話題の増加、コミュニケーション作法の厳格さの消滅等々です。*3

20世紀に始まったこの傾向をどう説明するのかは社会学者の間でも意見が分かれているところですが、見解の1つにこれを文明化の延長であるとするものがあります。

つまり、規範やルールの外的強制から、それらの内面化を経た自己抑制からさらに進んで、これまでの規範の「厳格な運用」を脱して、どこまでなら自己を表現・解放していいのかを自らで決める「新しい自己抑制」が文明化の最先端として生まれた、というのです。

ここではこれまでよりもより強い自己抑制が求められます。 というのも、ただ単に規範を受容し、無意識的に自らの衝動・感情を閉じ込めるだけの「自己抑制」ではなく、他者との関係の中で、どの程度感情のコントロールを緩め、それを表現するかを自己が意識的に決める「自己抑制」が必要になってくるからです。

なぜこのような新しい技法が求められるようになったかについては諸説ありますが、1説に、経済発展による平等化による各階級の交じり合いと接近により、それまで階級間の差別化として有用だった礼儀作法等の厳格な運用が無意味なものとなった結果、「道徳規範から自由な自己」を演出することが、新しい区別の方法として求められたというものがあります(このあたりは現在のコミュニケーション能力と密接にかかわっているように思います)。

 

さて、ここまで新しい自己抑制について説明してきましたが、今回の議論である「性的表現のある萌え絵の公的空間での存在」に関しては、この「心理化」(ある社会学者はこの新しい自己抑制の形を、抑制から解放までを自らが主体となって決めると言う意味でこの用語を用いています)の観点から考えることが出来るのではないでしょうか。

つまり、「一度公的な場から排除され、私的領域に隠されたものが、再び公的な場へと持ち込まれる」中で、どこまでが許容範囲でどこからがアウトなのか現状ではコンセンサスが得られていない(というより本来それが新しい自己抑制の本質)、というのがこの昨今の「萌え絵」問題を形作る一つの枠組みとしてあるのではないでしょうか。

そして実写や写実的な絵画や彫刻とは異なる「萌え絵」の持つ特殊な文脈で発達してきた比較的新しい記号的表現もまた、ラインを設定することが難しい原因となっているように思います。

ただ歴史を振り返れば、これまでそうした公的領域からの排除などからは特権的な地位を持っていたと考えられる宗教絵画などの、(性的な面からでなく芸術的な観点から鑑賞するという文脈が付着した)一般にいわゆる芸術作品として見なされるものでさえも、ミケランジェロの「最後の審判」の例が示すように、そうした周囲からの視線というものは避けがたいものであるようです。*4

 

現状をみるにこれからも同じような問題は続くように思われます。

ただ他者や社会との関係の中で表現の許容範囲が流動的に変化することが「新しい自己抑制」≒「心理化」の時代の特徴でもあることから、現在非難されている表現がこれからもそうであり続けるのかは誰にも予測は難しいところでしょう。

規範の自明性や確固たる支配的な価値観が失われ、あらゆる選択が個々の判断に委ねられるという傾向は、「再帰的近代」とか「リキッド・モダニティ」などと呼ばれるような現代ではある意味普遍的なものであり、その意味ではこの「萌え絵」の問題も、そのような時代背景から必然的に生じた衝突の一つである、と言うことができるのかもしれません。

 

この件で最近話題になった記事

b.hatena.ne.jp

togetter.com

anond.hatelabo.jp

 

追記 

たまたま同じ例(ミケランジェロの「最後の審判」)を挙げられた方の記事がありました(語られている文脈は違いますが)。

honeshabri.hatenablog.com

 

 

参考論文

 奥村隆 文明化と暴力の社会理論ーノルベルト・エリアスの問いをめぐってー

 

 

*1:面白い例の一つに料理における「丸焼き」の排除があります。動物の「丸焼き」は、食事をする人々に自らの動物性を思い起こさせる粗暴なものだと考えられたようです。

*2:この現象が最もラディカルな形で進行したのがオランダでした。オランダは今でも、性に開放的な国で知られています。

*3:ここで重要なのは肌の露出の再増大などは、文明化の発展の中で人々の高度の自己抑制が達成されて初めて可能となるということです。このような強い自己表現は、他者の自己抑制によってその安全性が担保されています。

*4:とはいいつつ作品が芸術と見なされることによって公的空間に存在する例も数多くあるでしょう。ただここでも性的な表現とのバランスがファクターになるように思います。