ペンギンの飛び方

本を読んだりニュースを見たりして考えたことを、自由に書いていきたいと思います。

抗議の「作法」への批判を見たときに、僕が思い出す指摘

 

 最近のニュースやtwitterを見ていて、過去に僕が投稿した記事でも引用していたキムリッカの例の指摘を久々に思い出したので再度引用したいと思います。

 キムリッカは、「市民性」という名の、私たちが日常生活全般において要求される、たとえ最小限の徳性しか具えていない市民といえども身につけなければならない「徳」の存在を指摘して、(市民性の本来の意義を強調しながら)次のように述べています。

 たしかに、リベラルな社会において市民性という道徳的義務は「良い作法」という美的な構想と混同されることもある。たとえば、市民性への期待は、激しい抗議のやり方 ー抑圧された集団にとっては自らの声に耳を傾けさせるために必要なものであるかもしれないー を挫くために用いられることもある。

不利益を被っている集団が「派手にやる」ことはしばしば「趣味が悪い」と見なされる。良い作法にたいするこの種のおおげさな強調は、奴隷根性(servility)を促進するのに用いられうる。

しかし真の市民性というものは、どんなにひどい扱いを受けていたとしても他者に微笑みかける ーあたかも被抑圧集団は抑圧者に対して行儀よくするのが当たり前であるかのようにー、というようなことを意味しているのではない。そうではなく、他者が自分に同等の承認を与える条件の下で他者を対等者として処遇する、ということを意味しているのである。*1

 

権力者(抑圧者)側は権力を持っているが故に、そもそも「派手にやる」必要がない。しかし被抑圧者側はそうではない。

このことは僕自身忘れがちだし、正直に言えばそうした抗議手法について、僕の中の「市民性」なるものがあまりいい気分ではないことを必死で伝えてきます。

そんなとき、そうした「いい気分でないこと」が含意するものと、そのように思える自分の立場の意味について、立ち止まって考えさせてくれるこのキムリッカの指摘は、自分にとってずっと大切にしたい言葉です。

*1:W・キムリッカ 2005年『新版 現代政治理論』p439 日本経済評論社