ペンギンの飛び方

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「お前が言うな」論法の無意味さと有害さ

 

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2枚の布マスクを巡る一連の報道を見ていて、少し前から気になっていた「お前が言うな」論法についてに僕が感じていたことをつらつらと書いてみたいと思う。

 

まずは「お前が言うな」論法について、初めに整理しておく。

この論法は、ある問題についての批判者の過去の言動や現在の状況を、当該問題と絡めて指摘することで、批判者の批判の効力を減じることを目的とした論法である。

これには見逃せないある重要な前提、「ある問題についての批判者は、その問題においては清廉潔白でなければならない」という道徳観が存在しているのだが、ここではその是非については深く立ち入らない。

僕が気になるのはもっぱら、この論法が使われる状況だ。それは大きく2つに分けることができる。

まず1つは、問題の内容が閉じている、つまり論争の当事者以外の第三者が、問題自体に直接の関連を持たないないケースだ。

例えばここに長年の運動不足と食べ過ぎから見事な肥満体形になった太郎と呼ばれる男性がいるとする。彼は健康や見栄えの点などから、痩せたいとは思っているのだが、ダイエットは続かない。その状況を見た友人の次郎、-彼もまた太郎に負けず劣らず肥満である-が太郎にこう言う、「君はずっと太ったままだね」。太郎も次郎にこう返す、「君に言われたくないよ」。

さてこの例では、太郎が次郎の自らを棚に上げた批判に抗して、「お前が言うな」論法を使っている。おそらくこのような使われ方が、この論法の日常生活におけるもっともポピュラーなものだろう。二人の肥満という問題は解決されたわけではないが、自らに対する批判者の説得力を低下させるという効果を、この論法はしっかりともたらしている。

もう1つ例を挙げる。

例えばワイドショーである芸能人の不倫が取り上げられ、それを過去に不倫のスキャンダルがある司会者が口を極めて批判したとしよう。その批判がそうした過去を持つ司会者だからこその、「自分のようにはなるな」という自戒を込めたものでなければ、おそらく視聴者からは司会者に、「お前が言うな」という批判が多数寄せられるだろう。

この例では、この論法を使っているのは論争の当事者ではなく、そのやり取りを見ている第三者である。したがって仮にこの論法によって司会者の言説がその効力を減じられたとしても、この第三者にとって大きな意味があるわけではない*1。そしてそれは、不倫を取り上げられた芸能人自らがこの論法を使って司会者を非難したとしても同じことである。なぜなら、そもそもこの芸能人の不倫という問題そのものが、第三者である視聴者にとってほとんど何の関係もないからだ。

 

これまでみた2つの例では、「お前が言うな」論法を使う者の立場は違えど(論争の当事者か、第三者か)、俎上に乗っている問題が第三者の立場からは無関係なものに限られているという点では一致していた(たとえば最初の太郎・次郎のケースでは、やりとりを見ているだけの三郎にとっては、2人の批判の応酬の行方はどうでもよいことである)。

しかしその問題というものが、第三者にとって常に無関係であるとは限らない。

これが2つめのケースで、この場合問題の内容は開かれており、論争の当事者以外の第三者も、それについて利害関係を持つ。

このケースに該当するひとつの例が、冒頭で取り上げたマスクだ。

僕のみたところこの問題の焦点となっているのは、布マスクの感染防止効果だが、政府と新聞社の応酬の結果どちらに軍配が上がろうとも、布マスクの感染防止効果に変化があるわけではない*2。したがってそれについて棚上げされたままになれば、私たち国民の側が被害を被ることになる。

こうした事例は、政党同士や、政府とマスコミ間の論争や批判の応酬においてよく見られる。この場合、第三者は国民や市民ということになるが*3、こと政治的な問題がからんでくると、(党派性という問題のために)私たちはそのことに気が付かず、あたかもリングの外からボクシングの試合を見ている観客のような立場で、論争の行方を見守ったり、あるいはどちらかに肩入れして応援したり(その反面としてもう一方を貶めたり)してしまう。

「お前が言うな」論法は確かに、人類に備わるある意味では重要な道徳観を反映しているのかもしれない。言った方は痛快だし、論争に大きな変化を生むことは否定できない。

しかし、論争中の問題が肥満や芸能人の不倫ではなく、政策に関する事柄や、政治における嘘、文書の改ざんなどであった場合は、私たちはその問題の中身に集中しなけらばならない。すると、ときには応酬の当時者となっている両者どちらも批判しなければならない場面もでてくることもあるだろうが、それが結果的には、国民や市民の利益につながる。

 最近では「ブーメラン」なる言葉もよく見られる。しかし俎上にあげられた問題が私たち自身に関係する事柄だった場合、「お前が言うな」論法での問題の棚上げは、まわりまわって私たち自身に、その「ブーメラン」を向かわせることになるだろう。

ところがそれは、最初にあげた1つ目のケース(問題が閉じている状況)に比べて間接的で時間差があるために気づくことが難しい。したがってこの意味では、「お前が言うな」論法は無意味であるばかりか有害ですらあると言える。少なくとも、論争においてはあくまでサイドメニューで、メインディッシュであってはならない。

 

このような政治的な論争について「お前が言うな」論法を使う傾向は、インターネットの発達によって強くなったように思われる。ある人物の過去の言動を拾ってくることははるかに容易になったし、なにより政治とマスコミの両者を対象化し、それに対してだれでも意見できる巨大なプラットフォームが出来上がったからだ。

このことは一般的には歓迎すべきことなのは言うまでもない。が、こうしたよろしくなさそうな弊害も生んでいるのもまた事実であるように思われる

 

 

2020年4月20日 

・文章の構成を修正

・その他表現を修正


 

 

*1:もちろん、その芸能人の熱烈なファンであれば、少しは胸がすく思いになるのかもしれないし、不倫を取り上げられた当該芸能人も、多少は気がまぎれる可能性もあるのかもしれない

*2:政府と朝日新聞の販売していたマスクは、質的にそもそも異なるものだという報道もあるが、ここではふれない

*3:もちろん多くの民主主義論においては、国民や市民は第三者ではなく問題の当事者として論争の中に入り議論すべきとされているが、ここではその見解については深く立ち入らない。