ペンギンの飛び方

本を読んだりニュースを見たりして考えたことを、自由に書いていきたいと思います。

ナチズムの精神 (ハロウェル『イデオロギーとしての自由主義の没落』 読書メモ)

 

以前私が読了した本にハロウェル『イデオロギーとしての自由主義の没落』というものがある。

この著作は「(ナチ時代のドイツにおいて)1933年以前には公然と自由主義と名乗っていた優れた教授、裁判官、法律家、および公務員たちが、自由主義の基本前提を拒否するばかりでなく地上から凡ゆる自由主義制度を追放しようと積極的に努力する暴虐政治を承認し、或る者に至っては歓迎さえすることがどうしてできたのか」という疑問に対して回答を与えるという目的意識のもと著されたものだ。

要旨を簡潔に示すならば、「統合的自由主義自然権の存在を認め個人を自律した道徳的人格を持つ自由な存在であると定めたうえで、この自由の担保のために非個人的な権威として法があるとする考え)が、実証主義の法学への流入により倫理的内容を抜き取られ、法が単に最強(多数派)の意志の表れであり、それに対する服従が背後の強制力によって確保されていると認識されることによって、自由主義がもっぱら形式的なものとなり、それに伴い法の限界が消滅し、またそれに反対する論拠も失われ、ナチスの(反自由主義的な)主張をみすみす受け入れてしまった」というようなものになるだろう。

私にはこの主張が実態にどれほど近いのは不明だが(納得感はあるものの)、それでもその内容には非常に刺激的かつ示唆的なものが含まれていると思われるので今回いくつか引用する。

 

法が次第に「人民の意志」と、或いは特に議会内の多数派の意志と、同一されるようになるにつれて、法の正当性はその内容に依存せしめられることが次第に少くなり、それが発出した源泉の方に次第に依存せしめられることが多くなって行った。結局においては、「法」(Recht)は力と同一なものにさせられる。……法の形式だけが重要であると考えられるときは、専断に対して何らの実体的制限はあり得ない。

ハロウェル(1943=1953)『イデオロギーとしての自由主義の没落』創元社 p.p169-170

 

恐らく自由主義が犯した致命的な過失は、罪と無知とを同一視しようとする楽天的な試みであった。現代の自由主義者を描いて、ルイスマンフォードは言う、

「彼らの道徳的価値に対する色盲症が、彼らの政治的欠陥を理解する鍵である。だからこそ、彼らは野蛮と文明とを区別することができない。....プラグマティックな自由主義者は、悪という根本的な問題を認めることを拒んでいるので、悪人たちの意図と闘うことができない。…」

 

…又、アウレル・コレ ナイは言う、

「その『相対主義』、『寛容』、および『中立主義』("indifferentism") の信仰に おいて自由主義的精神は決定的にやり過ぎてしまったのだ。
ここには、一方においては最も野放図な主観主義に、他方では専断的な暴虐政治に広く開け放つところの、おとなしくて気前が良いと同時に身勝手で無責任な気分がある。…
…気取った批評は、終には恥知らずの非合理主義になる。洗練されすぎた科学的懷疑は、残忍なプラグマティズムになる。精神に対する不信は”物神崇拝的都族生活”への復帰となる。『心の寬さ』は、専制と階級的あるいは民族的排他主義との臆病な甘受になる。」…

 

 

自由主義的な政治的·経済的制度は、人々に対して自由と平等とを約束した。十九世紀になって、自由が放縦に堕し、実体的な機会の平等が形式的な法の前の平等に堕したとき、人々は自由主義的な政治側度に対する信頼を失いはじめた。自由主義的秩序が拠って立っていた価値さえも、多くの人々にとっては、存在しないとは言わざるまでも、幻想的なものとして映じた。
信仰にさからって信じたドイツ国民は、混沌から秩序をもたらそうと約束した人々に、彼らに対して何らかの安心感を与えようと約束した人々に、既に崩れつつある一制度の否定的批評から成る綱領を掲げた人々に、頼った。ナチスドイツ国民に対して、彼らが積極的に肯定し得るようなものは何も与えなかったとしても、少くとも彼らは、殆どすべての人々が歓迎し得るような、堕落した自由主義的制度の批判を提供した。国民は民族社会主義を信じた、といろよりも、むしろ彼らは自由主義的時代の約束を信じなかったのである。或る著述家が巧みに証明したように、ファシズムは他に代るべきものがなかったので入り込んで来たのである。…

ヒットラーが未だ登場して来ないずっと前に、自由主義時代の価値は破壊されてしまっていたので、大多数のドイツ国民は、単なる誓いの行為によって少なくとも安心感を回復することを約束した新しい権威を信頼する用意ができていた。彼らはブラグマティストとして、あたかもヒットラーが常に正しいかのように行動する用意があった。そしてその指導者の絶対無謬性の擬制の上に、…民族社会主義の構造が立っている。それは、このような擬制自体が放棄されるときにのみ、崩壊するであろう。この擬制を維持することが宣伝省と軍事組織との本質的任務の1つである。ただ決定的な軍事的敗北のみが、よくこの絶対無謬性の擬制を震撼し得る、―そのときはじめてドイツ国民は、彼らが現在混沌に代る唯一のものとして甘受している専制の外に、別のものがあることを知り得るであろう。…

 

…絶望のあまりに彼らは、ヒットラーの絶対無謬性を信仰する道を選んだ。そしてその信仰は、いかに逆説的であろろと、ペーター・ドルッカーが指摘する通りますます増大する絶望の深みから更新される。…この明白な逆説は、ドルッカーによって次の如く説明されている。


「大衆は何ものかを持たねばならない。…彼らは全体主義が提供しようとするものに深い不満を感じているけれども、他に何物をる得ることができない。したがって全体主義は妥当な解答たらざるを得ない。全体主義が与えるものに彼らが満足しなければしないほど、ますます彼らはそれで十分だと自らを 説得しようと努めねばならない。 彼らは深刻に不幸であり、深刻に失望しており、深刻に幻減を感じている。しかし彼らは、幻減を感じ不満を感じていればこそ、 全力をつくして全体主義を無理矢理に信仰しようとしなければならない。.…
…信仰に反対して信仰し、証拠を無視して信頼し、注意ぶかい暗論のあとで自発的に喝来するように不断に自己を説得することの、知的緊張は非常に大きいので、…彼らは矛盾したものが一つになるような一種の『ディーモン』を、超人であり魔術者であるものを発明しなければならない。彼においては邪は正であり、偽は真であり、幻想は現実であり、そして空虚が実体であるような、この『ディーモン』たることが即ち「指導者」の任務である。」

 

ハロウェル(1943=1953)『イデオロギーとしての自由主義の没落』創元社 p.p218-222