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ペンギンの飛び方

本を読んだりニュースを見たりして考えたことを、自由に書いていきたいと思います。

「本音」の場としてのインターネット

ネット

 

前回の記事では、インターネットが「表舞台」の「リアル」に対して、「舞台裏」(陰口の領域)的な役割を担っているのではないかと書きました。

そしてインターネットを舞台裏とした場合、表舞台よりも舞台裏のほうが多くの人の目に触れ、露出度が高いという逆転現象が起きているのではないかとも書きました。

これについて最近のニュースなどから僕自身少し考えることがあったので少し付け足しておきたいと思います。

 

ここ1週間ほど、ある元アナウンサーの方のブログ記事が注目を集めています。

内容ついてはここでは詳しく述べませんが、僕が気になったのはそのブログのタイトルでした。

というのも、そのタイトルが、僕が前回記事で主張したような考えを補強するようなものに思えたからです。

恐らく件のブログの著者である元アナウンサーの方は、自らが普段主に活動するメディア、つまり「テレビ」などの表舞台に対し、そこでは言えない自分の「本音」を主張する場としてインターネットを選択し、その意思もあってかあのようなブログタイトルを掲げたのでしょう。

前回記事に書いたとおり、インターネットを舞台裏として使う人は多くいますし、そのこと自体は全く責められることではありません。

しかしここで1つの疑問が僕の頭に浮かびました。

それは、「テレビなどの既存のメディアを『表』とした場合、インターネットは『裏』と言えるのか」というものです。

既に何度も書いているように、インターネットを裏の領域として使っている人は多くいます。そこで書かれている「本音」は実に様々ですが、ここでは例として仕事の愚痴、特に職場での人間関係の愚痴を考えてみます。

インターネットで綴られる職場の人間関係の愚痴、例えば上司や後輩に対してのそれは、職場という表舞台が想定されており、そこでは言うことがはばかられるからこそ舞台裏に持ち込まれたものです。

冒頭で触れたように、確かにインターネットの方が職場に比べてはるかに大規模ですが(というよりも全世界に公開されています)、その書き込みが自分のものであると職場の人間にばれたりさえしなければ、職場の秩序には影響がありません。

つまり、舞台裏の利用はそれが表舞台と厳密に分離され、それが観客からは見えない(分からない)ことで初めて、安全で有効なものとなるのです(この場合観客は職場の同僚)。

 

翻って今回の件はどうでしょうか。「テレビ」を表舞台と設定した場合、「インターネット」はその裏の領域として適切なのでしょうか。

テレビが表舞台だとすると、それは前述の職場の例のように、本音を聞かれてはまずい特定の人間関係が存在するわけではありませんから、表と裏を分かつのは「大衆性の高さ」となるのでしょうか。

しかし媒体としての情報拡散能力、そしてその受け手の人数という点では、インターネットはテレビと比較して劣るようにも思えませんし、そもそもテレビを視聴する人とインターネットを使う人は特に分離されてはいません。

結局、今回の場合この2つを決定的に分かつのは、関わる人の多さということなのではないかと思います。テレビは多種多様な人々が力を合わせて番組を制作しています。そこにはもちろん多くの人々の生活がかかっていて、何かあったときの悪影響は自分以外の多くの人間に及びます。このことが、テレビを初めとした既存メディアの、一定の信頼性やモラルを維持することに役立っているのでしょう。

 

とはいえ、元アナウンサーの方が、テレビでは言えないと彼自身が考えていた「本音」を自身のブログで綴ったことは間違いないでしょう。

さてそこで「本音」について少し考えてみます。

修学旅行の夜に仲間内で好きな人を言い合うのが盛り上がるように、「本音」「秘密」「真実」を伝え、知ること、あるいはそれを共有することは非常に楽しいものです。

「本音」で語り合うことによって生まれる深い理解は、人間関係や集団を結束させたり、それらをより良い道へと導く「前進」だとされています。

しかし今回の件のような政治的な話題の場合はどうでしょうか。

本音のようなものは私的領域に留め、多くの市民の視線が飛び交う公共領域においては、政治は各々が「仮面」を付けた上で、(理性的な)善き市民としての役割を演じる中で執り行われるべきだとしたのは思想家のハンナ・アーレントでした。

誰かが発信した膨大な「本音」が嫌でも目に入ってしまうこのネット社会で、アーレントのこの主張は現代の私たちにとってより重要な意味を持っているのかもしれません。