ペンギンの飛び方

本を読んだりニュースを見たりして考えたことを、自由に書いていきたいと思います。

『ハクソーリッジ』と『小さな抵抗』

 

※映画のストーリーに関しての記述があります。

 

先日、映画『ハクソーリッジ』を見てきました。

沖縄戦において敬虔なキリスト教徒としての立場から戦場においても人を殺さず、それどころか武器すら持たずに衛生兵として数多くの兵士の命を救った、実話を基にした人物の話です。

僕は、この映画のあらすじを見た時から、以前読んだある本のことを思い浮かべていました。それが、タイトルにある『歌集 小さな抵抗』です。

この本の著者、渡部良三は、アジア太平洋戦争末期に学徒出陣によって中国戦線に送られ、そこで「度胸付け」として中国人捕虜を銃剣で突く刺突訓練に参加させられます。

彼はそこでキリスト者として捕虜殺害を拒否し、そのため凄惨なリンチを受けますが、それを耐えながら、戦場の体験を歌に詠み続けました。

『小さな抵抗』はその歌と、捕虜殺害を含めた戦場での体験が講演記録として収められている本で、戦場での道徳的な決断を、信仰という背景から下したという点から、『ハクソーリッジ』とは多くの共通点があるのです。

そういうことで僕は漠然と、『ハクソーリッジ』について、『小さな抵抗』での話と似たようなものが展開されるのだろうと予想していました。

ところが、僕の予想は裏切られました。

実際には『ハクソーリッジ』と『小さな抵抗』には、「汝、殺すなかれ」という戒律を実行に移すまでの回路に、大きな違いがあったのです。

具体的に言えば、『小さな抵抗』の渡部良三は、純粋にキリスト教の信仰に根差した「不殺」の決断でしたが、主人公デズモンド・ドスのそれは、信仰心からというよりもむしろ、カント主義的なものを僕は感じたのです。

 

まずデズモンド・ドスは、「日本の真珠湾攻撃に衝撃を受け」、「地元の仲間が皆志願しているから」という、当時実にありふれていたであろう動機から、自らの意思で陸軍に入隊します。

そこで彼は信仰心から、「人を殺さない」「武器を持たない」という決断をし、それを実行しますが、仲間からのリンチや軍法会議など度重なる困難に悩まされます。

葛藤を続けるデズモンドに、婚約者のドロシーは「プライドの問題なのではないか」と問いかけます。彼はそこで「そうかもしれない」「でもこれを破ったら、自分が自分じゃなくなる」と返すのです。

 これより前に、上官から「神の声が聞こえるのか?」と問われ「聞こえません。聞こえるという人はインチキです」と答えるシーンもあったのですが、それとドロシーとの問答を見て、僕の考えは確信に変わりました。

その考えとは、(映画の脚色の影響かは別にして)主人公デズモンドは、厚い信仰心からというよりも(信仰心はきっかけに過ぎず)、自らの意志の格率-「人を殺さない」「武器を持たない」-に従い自律的に行動する、カント主義的な道徳観を基に、これらの難しい決断を実行に移していたのではないか、ということです。

 

カントが定式化した道徳法則「定言命法」では、人間は、自らで定めた法則(格率)に義務の形で従う場合のみ、理性的な「人格」としての自由な存在となることができるとしています。

というのもカントは、本能や衝動を契機として、条件が常に伴う「仮言命法」(XのためにYする)によって行動するのであれば、人間は本能の奴隷に過ぎず、その意味で他律的で自由を持たない動物と変わらないと考えていたからです。

主人公デズモンドの「これを破ったら、自分が自分じゃなくなる」というセリフからは、戒律がいつの間にかアイデンティティとして自らの内に入り込み、それを遵守することが自分を自分たらしめている、つまり一個の人格として成り立たせているのだという確信が(その具体的な理路の自覚の有無は抜きにしても)垣間見えます。

捕虜の殺害を拒否した渡部良三はその点、刺突訓練で次が自分の番だと予感し、祈る中で神の声(「汝、キリストを着よ。すべてキリストに依らざるは罪なり。虐殺を拒め、生命を賭けよ!」)を聞き、それが最終的な決断の後押しとなるのです。

 

僕は『ハクソーリッジ』を見て、「人を殺せ」と命令される場面において、「殺さない」という道徳的な行動に至るには実に様々な回路があるのだということに改めて気づかされました。それがたとえ、信仰心によるものだとしても、その内実には、多くの要素が絡んでいるのです。

もちろん、極限状態において人間を道徳的な行動に導く宗教の力というのも見過ごせません。デズモンドと渡部の二者の根底には、やはりキリスト教への帰依がありました。

ところで、政治哲学者のハンナ・アーレントは、「汝、殺すべし」と命令されていたナチス体制下において、ユダヤ人を助けたドイツ人の行動について、道徳や良心の観点から考察しています。

彼女によれば、これらの人々は、必ずしも宗教的な人ではなく(それどころかアレントは、宗教的な信念はあまり役に立たなかったとも述べています)、さらには命令や法に従うか反抗するかについて葛藤もなく、ただ「わたしにはできない、死んだほうがましだ。もしもわたしがそんなことをしたら、生きる意味がなくなってしまう」と考える人々であったそうです。

このような分析からすると、デズモンドと渡部は、法を無視しユダヤ人を助けたドイツ人とは別の道徳観を持っていたようにも思えます。というのも、両者ともまず宗教がその道徳的な判断の基礎となっていますし、決断までの葛藤も非常に激しいものだったからです(特に渡部は刺突拒否の宣言のその直前までどうするか悩んでいます)。

とは言え、アーレントはまた別の重大な指摘もしています。それは、ユダヤ人を助けた人々は、「孤独」の中で「自己との間で無言の対話を続ける『思考』」を続け、立ち止まって考え、判断することを止めなかった者たちである、という指摘です。

『ハクソーリッジ』では、主人公デズモンドが、孤独に聖書を読むシーンが多くあります。そして、『小さな抵抗』の渡部良三は、厳しい軍隊生活の中で700首の歌を詠みました。このような創作活動は、多くの場合、自分と向き合う孤独な時間がなければ成しえないことです。

その意味で両者に共通して言えるのは、戦場での軍隊生活という凝集性の非常に高い共同体の中で、周囲とのコミュニケーションを断絶し、独りで自分と向き合うことのできる私的な時間・空間を持ち得ていた、ということではないでしょうか。

先ほど道徳的な決断までには様々な回路がある、と述べましたが、集団の支配的な規範が「汝、殺すべし」と命じるような極限の状況では、この「孤独」とは、そのような規範に立ち向かう勇気を生み出す必須の要素なのかもしれません。

 

 

 

 参考文献

渡部良三 2011年『歌集 小さな抵抗――殺戮を拒んだ日本兵岩波現代文庫

ハンナ・アレント 2016年『責任と判断』ちくま学芸文庫