ペンギンの飛び方

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「共同体の罪」に対する責任と「歴史修正主義」

 

小池都知事の最近の言動や、8月に放送されたNHKスペシャルの影響もあってか、過去の歴史と、現在を生きる私たちとの関係、あるいはそれに対して私たちが持つ責任などの議論に再び注目が集まっています。

今回の記事ではこのような議論に関連して、「共同体の(過去の)罪」に対して私たちは責任を負う必要があるのか(そもそも負うことが「できる」のか)についてのサンデルの見解を見たうえで、昨今メディアでもよく耳にするいわゆる「歴史修正主義」について、考察してみたいと思います。

 

共同体の過去の罪、つまり「先祖の罪」を現在の世代が償うべきか、あるいはそのような義務を生じさせる道徳的責任を我々が持つのかどうかという問題は、非常に根深いものです。

サンデルは著書『これからの「正義」の話をしようーいまを生き延びるための哲学ー』で、こうした責任の存在や、それに基づいて歴史上の罪に対して謝罪することを、原理的に否定するある主張を紹介しています。

それは、「歴史上の不正について謝罪する義務があるのは、あるいはそのような立場をとることができるのは、実際にその不正に関わった人間だけである。したがって自分が生まれる前の共同体の罪に対して、道徳的責任を持つことも、もちろん謝罪する必要もない」という主張です。

サンデルはこうした原理的反対論を退けるのは容易ではないと指摘します。なぜならこの反対論は、「道徳的個人主義という、現代政治や法律の基盤となっているような、魅力的な考え方に因っているからです。

 

道徳的個人主義の原理は…自由であるとは何を意味するかを主張しているのだ。道徳的個人主義者にとって自由であるとは、自らの意志で背負った責務のみを引き受けることである。他人に対して義務があるとすれば、何らかの同意ー暗黙裡であれ公然とであれ、自分がなした選択、約束、協定ーに基づく義務である。

…この考え方は、われわれは道徳行為者として自由で独立した自己であり、従前の道徳的束縛から解き放たれ、みずからの目的をみずから選ぶことができるという前提に立っている。習慣でも伝統でも受け継がれた地位でもなく、一人一人の自由な選択が、われわれを拘束する唯一の道徳的責務の源である

         (マイケル・サンデル 2011年『これからの「正義」の話をしようーいまを生き延びるための哲学ー』p335 ハヤカワ文庫)

 

こうした考え方は、明らかに近代化とともに進行し、また近代化そのものを形作ってきました。身分や伝統、地縁・血縁などの封建的なしがらみから抜け出し、自分の運命を自分で選択し切り拓いていく。こうした自由観は現代では多くの人が共有しています。もちろんこうした自由は、選択する個人に、それに伴う「責任」も、―時に耐えがたいほどの重さで―引き受けさせようとします。しかしだからといって例えば江戸時代のように、生まれた家によって人生がほぼ完全に決まってしまう時代に戻りたいと考える人は少ないでしょう。

このようにしてみると、共同体の過去の罪に対しての原理的反対論は、意外にも、私たちの日常感覚や直観に根ざしたものであると言うことができるように思われます。近代化を推進してきた自由主義リベラリズム)の論理を、純粋な形で敷衍させれば、「連帯責任も、前の世代が犯した歴史的不正の道徳的重荷を背負う義務も、ほとんど入る余地がない」のです。*1

 

サンデルは、こうした原理的反対論の有効性を認めたうえで、この主張の土台となる自由観には欠陥があると指摘します。そして、リベラリズムのいわゆる(しがらみから解き放たれ自由に選択できるという)「負荷なき自己」(unencumbered self)という自己観に対して、共同体の文化や伝統、歴史の中に「位置付けられた」あるいは「埋め込まれた」存在として、「負荷ある自己」(encumbered self)という概念を提起します。

サンデルはこの「負荷ある自己」という前提を基に、共同体の過去の歴史的不正に対しての現在世代の、「世代を超えた集団としてのアイデンティティから生じる道徳的責務」の存在を認めるのです。

 

リベラル派の自由の構想の弱点は、その魅力と表裏一体だ。自分自身を自由で独立した自己として理解し、みずから選ばなかった道徳的束縛にはとらわれないと考えるなら、われわれが一般に認め、重んじてさえいる一連の道徳的・政治的責務の意義がわからなくなる。そうした責務には、連帯と忠誠の責務、歴史的記憶と信仰が含まれる。それらはわれわれのアイデンティティを形づくるコミュニティと伝統から生まれた道徳的要求だ。自分は重荷を負った自己であり、みずから望まない道徳的要求を受け入れる存在であると考えないかぎり、われわれの道徳的・政治的経験のそうした側面を理解するのは難しい。

                              (同上 p346)

 

このような過去の歴史と今の私たちとの関係に関する議論は、戦争責任などのような国家的な問題だけにみられるものではありません。

例えば、最近は下火ですが、数年前中国人観光客のいわゆる「爆買い」がメディアを賑わせたとき、彼らの観光地でのマナーが大々的にメディアで取り上げられました。

雑誌や新聞、テレビやインターネットでも、中国人観光客のマナーは悪いという言説があふれ、それを国民性や民族性と結びつけるような議論もありました。

そんなおり、そのような風潮を戒めるようなものとして、次のような言説も目立ち始めました。それは「日本人も、バブルのころは海外観光地でのマナーはとても悪かった。現地の人からの評判は悪く、顰蹙を買っていた。」というものです。

このような物言いは、明らかにサンデルの言う「負荷ある自己」という自己観を下敷きにしています。

中国人観光客のマナーについて悪く言う人が、過去に海外の観光地で同じことをしていたなら別ですが、もしそうでないのなら「日本人だって」という指摘は、どれほど妥当性のあるものなのでしょうか。少なくとも、バブル以降に生を受けた日本人や、その時期小さい子供だった世代には理不尽な物言いであると、「道徳的個人主義者」は言うでしょう。*2

(とは言え、この例での「日本人も」という応答は、共同体の過去の罪に対する「責任」に関してのものというよりも、マナーの悪さを国籍とか民族と結び付けがちな当時の言説に対して、相対的なものの見方を提示して、そのような差別的な推論を防ぐために提示されたものであると考えられます。しかしそれでもこの「日本人も」という指摘が、日本という共同体への帰属を基にしたものであるということには変わりありません。)

 

ここまで、共同体の過去の不正に対する道徳的責任に関してのいくつかの議論を見てきました。これらをふまえた上でここからようやく、「歴史修正主義」について考えてみたいと思います。

まず「歴史修正主義」は、共同体の過去の不正に対する道徳的責任を拒否するという点では、上記の自由主義(「負荷なき自己」)をバックボーンとした道徳的個人主義者と同じです。

しかしその「拒否」という結論までの理路は異なります。

道徳的個人主義者は既にみたように、共同体の歴史上の不正について謝罪する責務があるのは、その不正に関わったものだけであるとする立場から、現在世代の道徳的責任の存在を否定するのでした。

一方「歴史修正主義」者は、そのような立場をとりません。彼らが現在世代の道徳的責任を拒否するのは、共同体の過去の罪に自身が関わっていないからではなく、そのような罪がそもそも存在しなかったと、彼らが考えているからです。

罪がもとよりなければ、それを償う義務は初めから存在しません。したがって彼らにとってみれば、現代世代だけではなくそのような「不正」を行ったとされる時代を過ごした先祖にも、責任はないのです。

こうした理路の違いからは、この二者の自己観に大きな相違があることが推察されます。

というのも、道徳的個人主義の考え方からすれば、過去の罪に対する現在世代の責任の拒否はしても、長年の学問的研究によって定説となっている歴史までも(明らかな嘘まで取り入れて)修正し、その罪の存在自体を否定する動機がないからです。

むしろ、道徳的個人主義者の立場からすれば、自己は共同体から独立しているのだから、共同体の過去の罪を認めることに、おそらく躊躇はありません。罪を認めたうえで、それでも自分に責任はないと主張することができます。

このように考えると歴史修正主義」者は、道徳的個人主義の前提となっている「負荷なき自己」という自己観ではなく、逆に「負荷ある自己」という自己観を持っているということが予想されます。

道徳的責任だけでなく、罪の存在までも否定するのは、共同体に「埋め込まれすぎている」、あるいは「位置付けられすぎている」*3がゆえに、その共同体の歴史が個人に課す責任、重荷(burden)に耐えられないからです。*4

しかし、もし仮に「歴史修正主義」者が共同体に「埋め込まれすぎている」ほど「負荷ある自己」なら、共同体の過去の不正も、責任をもって受け入れる方向もあるのではないでしょうか。

サンデルはまさにその論理で先祖の罪に対する道徳的責任の存在を認めているのです。同じ「負荷ある自己」という前提から、なぜ異なる結論が導かれるのでしょうか。

ここでそれについて詳しく論じることはしないですが、こうしたことの背景には、共同体への帰属という社会的アイデンティティの、自尊心高揚のための道具的利用があるのではないか、と僕は感じています。

ようするに、共同体の文化や歴史などが、その共同体の一員としての自分に名誉と誇りを与えるものである場合のみ、彼らはそれを受け入れるのです。しかしそうではない場合、つまり「不名誉」なものと感じられるときには彼らはそれを拒絶します。

それはおそらく、彼らが共同体を、サンデルをはじめとしたコミュニタリアンのように、自己を解釈し、発見するための場として、ある種運命的にとらえているわけではないからだと思われます。つまり彼らは共同体を、自身の名誉や自尊心を高めるための装置のようなものに過ぎないと考えているのです。*5

 

 

 

*1:とは言え現代のリベラリズムは、このような連帯責任や過去の罪に対する道徳的責任などを完全に否定するわけではありません。国民統合の手段として、共同体への帰属に根差したアイデンティティを形成することの重大性は認識しており、その中には歴史意識や相互義務の意識の共有も含まれます(リベラル・ナショナリズム)。そして何より、そうした歴史上の不正の多くはリベラリズムの考える「正義」と、全く相容れるものではないことがほとんどです(人種差別等)。したがってこのような罪を無視したり、あるいはなかったことにしたりすることは、リベラリズムの立場からは許すことができないものなのです。

*2:このような議論は、いわゆる「パクリ」問題についても言えます。

*3:このことを「国家と自分を一体視している」とか、「国籍に対する社会的アイデンティティが強い」などというふうに言えるかと思います。

*4:このような重荷に耐えられるかそうでないかは、他には経済状況や、社会関係資本など、さまざまな要素が絡んでいるのではないかと僕は感じています。

*5:これは、過去の記事で取り上げた「内集団バイアス」と「黒い羊効果」の議論にも関係していると思われます。