公共の場における「萌え絵」と「文明化」
ここ最近再び公共の場におけるいわゆる「萌え絵」の存在についていろんな議論が交わされてますね。
今回は何か個別の問題に対して何か解決策を考えてみるというわけではなく、一つの観点から見た「萌え絵」問題の枠組みを一度俯瞰してみたいと思います。
僕が見ている限り、公共の場における萌え絵が問題となる場合、何か1つだけの限定された観点からの非難ではなく、いくつかの方面からの非難があるように思えます。
今回の記事では、便宜上、「公共の場に過度に性的な表現のある萌え絵を置くのはどうなのか、許容されるラインを超えているのではないか」という非難の1形態から、「公的空間における性的表現」について考えてみたいと思います。
この問題を考える上でまずはっきりさせなければならないのは、「そもそもなぜ公的な空間では性的表現は排除、あるいは抑制されなければならないのか(されるようになったのか)」、という点です。
ここではこのブログに何度も登場している社会学者ノルベルト・エリアスの議論に従って、この疑問についての解答を探ってみたいと思います。
エリアスによれば、近代以降のような強力な中央集権による国家が生まれる以前の段階の中世ヨーロッパでは、今ほど私的領域と公的領域の区別がなされておらず、人々も自らの様々な欲望や衝動を抑制することは少なかったと言います。
というのも、当時は暴力の独占が未達成でそれを背景とした法体系を執行する主体がおらず、人々は常日頃から自分の身を自分で守る必要があったからです。そのような環境では自身の衝動の抑制は無意味どころか有害ですらあります。
また、貨幣経済やそれに伴う産業の発達、そして「分業」が進んでいなかったために、人々の関係構造は実に単純で、彼らは自らの生を他人に依存することなく暮らしていました。このような場合、関係のこれからを見据えた感情のコントロールというようなものは不必要ですから、人々はそのコントロールの技法も学びません。
しかしこのような状態は強大な権力を備えた絶対主義国家、あるいはその先の近代国家が誕生する過程で変化していきます。
中央政府による暴力の独占を背景に厳格に法が行使されるようになり、また、それによる治安の安定から産業の発展と分業体制が生まれ、人々の関係はそれまでより格段に強固・複雑になり、彼らは自身の生を相互に依存しあうようになります。
その結果、人々はかつてのように自らの欲望や衝動に正直ではいられなくなり、最初は(警察権力などの)外的強制によって、その次は「自己抑制」によって、自らのふるまいを洗練させ、感情コントロールの技法を学んでいくのです。
そのような中で、今度は上流階級を発端として、「礼儀作法」や「マナー」と呼ばれるようなものが発明されます。というのも、暴力の独占が達成された(宮廷)社会では、すでに他者との競争の中で暴力が手段として使用されることはなく、他者の感情を見極め、自身の感情をコントロールする技術が重要となるからです。「礼儀作法」や「マナー」とは、そのような穏やかな競争の中で生まれた技法であり、他者との違いを作るうえでの画期的な発明品だったのです。
これら礼儀作法やマナーが示した規範は多岐にわたりますが、性的表現の公的領域からの排除もその一つでした。というのも、その発生過程からすれば当然ですが、これらの発明品が志向する傾向の一つに、人間の動物的な部分や瞬間(人間が動物であることを思い起こさせる部分や瞬間)の公的空間からの排除があったからです。*1
性や排泄、食事作法にいたるまで、動物的で粗暴なふるまいが次々と「発見」され公的空間から排除されていく。その中で人々はそのようなものに対しての感受性を高め、自らふるまいを洗練させていく。これをエリアスは「文明化」と呼び、現代を生きる人々はこのような歴史を経て、衝動・感情の(自己)抑制をほぼ無意識に当然のように行っているのです。
これが公的領域における性表現の抑制や排除の、エリアス的観点から見た一要因ですが、これだけでは「萌え絵と性的表現」について考えるには材料が足りないように思われます。
というわけで、「文明化」後の20世紀ごろから見られ始め、現在でも続いていると思われるある現象について説明します。僕はこの現象が、今回の議論を考えていく上で重要な示唆を与えてくれると考えます。
「文明化」によって人々は衝動を自己抑制し、ふるまいを洗練させてきたと先ほど述べました。しかし20世紀頃から、性の解放や道徳基準の弛緩など、一見「文明化」と逆行するような現象が世界各地(の先進国)で見られるようになったのです。*2
具体的にはファッションにおける肌の露出の増大(ここには水着等も含まれる)、公的空間での性的な話題の増加、コミュニケーション作法の厳格さの消滅等々です。*3
20世紀に始まったこの傾向をどう説明するのかは社会学者の間でも意見が分かれているところですが、見解の1つにこれを文明化の延長であるとするものがあります。
つまり、規範やルールの外的強制から、それらの内面化を経た自己抑制からさらに進んで、これまでの規範の「厳格な運用」を脱して、どこまでなら自己を表現・解放していいのかを自らで決める「新しい自己抑制」が文明化の最先端として生まれた、というのです。
ここではこれまでよりもより強い自己抑制が求められます。 というのも、ただ単に規範を受容し、無意識的に自らの衝動・感情を閉じ込めるだけの「自己抑制」ではなく、他者との関係の中で、どの程度感情のコントロールを緩め、それを表現するかを自己が意識的に決める「自己抑制」が必要になってくるからです。
なぜこのような新しい技法が求められるようになったかについては諸説ありますが、1説に、経済発展による平等化による各階級の交じり合いと接近により、それまで階級間の差別化として有用だった礼儀作法等の厳格な運用が無意味なものとなった結果、「道徳規範から自由な自己」を演出することが、新しい区別の方法として求められたというものがあります(このあたりは現在のコミュニケーション能力と密接にかかわっているように思います)。
さて、ここまで新しい自己抑制について説明してきましたが、今回の議論である「性的表現のある萌え絵の公的空間での存在」に関しては、この「心理化」(ある社会学者はこの新しい自己抑制の形を、抑制から解放までを自らが主体となって決めると言う意味でこの用語を用いています)の観点から考えることが出来るのではないでしょうか。
つまり、「一度公的な場から排除され、私的領域に隠されたものが、再び公的な場へと持ち込まれる」中で、どこまでが許容範囲でどこからがアウトなのか現状ではコンセンサスが得られていない(というより本来それが新しい自己抑制の本質)、というのがこの昨今の「萌え絵」問題を形作る一つの枠組みとしてあるのではないでしょうか。
そして実写や写実的な絵画や彫刻とは異なる「萌え絵」の持つ特殊な文脈で発達してきた比較的新しい記号的表現もまた、ラインを設定することが難しい原因となっているように思います。
ただ歴史を振り返れば、これまでそうした公的領域からの排除などからは特権的な地位を持っていたと考えられる宗教絵画などの、(性的な面からでなく芸術的な観点から鑑賞するという文脈が付着した)一般にいわゆる芸術作品として見なされるものでさえも、ミケランジェロの「最後の審判」の例が示すように、そうした周囲からの視線というものは避けがたいものであるようです。*4
現状をみるにこれからも同じような問題は続くように思われます。
ただ他者や社会との関係の中で表現の許容範囲が流動的に変化することが「新しい自己抑制」≒「心理化」の時代の特徴でもあることから、現在非難されている表現がこれからもそうであり続けるのかは誰にも予測は難しいところでしょう。
規範の自明性や確固たる支配的な価値観が失われ、あらゆる選択が個々の判断に委ねられるという傾向は、「再帰的近代」とか「リキッド・モダニティ」などと呼ばれるような現代ではある意味普遍的なものであり、その意味ではこの「萌え絵」の問題も、そのような時代背景から必然的に生じた衝突の一つである、と言うことができるのかもしれません。
この件で最近話題になった記事
追記
たまたま同じ例(ミケランジェロの「最後の審判」)を挙げられた方の記事がありました(語られている文脈は違いますが)。
参考論文
奥村隆 文明化と暴力の社会理論ーノルベルト・エリアスの問いをめぐってー
*1:面白い例の一つに料理における「丸焼き」の排除があります。動物の「丸焼き」は、食事をする人々に自らの動物性を思い起こさせる粗暴なものだと考えられたようです。
*2:この現象が最もラディカルな形で進行したのがオランダでした。オランダは今でも、性に開放的な国で知られています。
*3:ここで重要なのは肌の露出の再増大などは、文明化の発展の中で人々の高度の自己抑制が達成されて初めて可能となるということです。このような強い自己表現は、他者の自己抑制によってその安全性が担保されています。
*4:とはいいつつ作品が芸術と見なされることによって公的空間に存在する例も数多くあるでしょう。ただここでも性的な表現とのバランスがファクターになるように思います。
「本音」の場としてのインターネット
前回の記事では、インターネットが「表舞台」の「リアル」に対して、「舞台裏」(陰口の領域)的な役割を担っているのではないかと書きました。
そしてインターネットを舞台裏とした場合、表舞台よりも舞台裏のほうが多くの人の目に触れ、露出度が高いという逆転現象が起きているのではないかとも書きました。
これについて最近のニュースなどから僕自身少し考えることがあったので少し付け足しておきたいと思います。
ここ1週間ほど、ある元アナウンサーの方のブログ記事が注目を集めています。
内容ついてはここでは詳しく述べませんが、僕が気になったのはそのブログのタイトルでした。
というのも、そのタイトルが、僕が前回記事で主張したような考えを補強するようなものに思えたからです。
恐らく件のブログの著者である元アナウンサーの方は、自らが普段主に活動するメディア、つまり「テレビ」などの表舞台に対し、そこでは言えない自分の「本音」を主張する場としてインターネットを選択し、その意思もあってかあのようなブログタイトルを掲げたのでしょう。
前回記事に書いたとおり、インターネットを舞台裏として使う人は多くいますし、そのこと自体は全く責められることではありません。
しかしここで1つの疑問が僕の頭に浮かびました。
それは、「テレビなどの既存のメディアを『表』とした場合、インターネットは『裏』と言えるのか」というものです。
既に何度も書いているように、インターネットを裏の領域として使っている人は多くいます。そこで書かれている「本音」は実に様々ですが、ここでは例として仕事の愚痴、特に職場での人間関係の愚痴を考えてみます。
インターネットで綴られる職場の人間関係の愚痴、例えば上司や後輩に対してのそれは、職場という表舞台が想定されており、そこでは言うことがはばかられるからこそ舞台裏に持ち込まれたものです。
冒頭で触れたように、確かにインターネットの方が職場に比べてはるかに大規模ですが(というよりも全世界に公開されています)、その書き込みが自分のものであると職場の人間にばれたりさえしなければ、職場の秩序には影響がありません。
つまり、舞台裏の利用はそれが表舞台と厳密に分離され、それが観客からは見えない(分からない)ことで初めて、安全で有効なものとなるのです(この場合観客は職場の同僚)。
翻って今回の件はどうでしょうか。「テレビ」を表舞台と設定した場合、「インターネット」はその裏の領域として適切なのでしょうか。
テレビが表舞台だとすると、それは前述の職場の例のように、本音を聞かれてはまずい特定の人間関係が存在するわけではありませんから、表と裏を分かつのは「大衆性の高さ」となるのでしょうか。
しかし媒体としての情報拡散能力、そしてその受け手の人数という点では、インターネットはテレビと比較して劣るようにも思えませんし、そもそもテレビを視聴する人とインターネットを使う人は特に分離されてはいません。
結局、今回の場合この2つを決定的に分かつのは、関わる人の多さということなのではないかと思います。テレビは多種多様な人々が力を合わせて番組を制作しています。そこにはもちろん多くの人々の生活がかかっていて、何かあったときの悪影響は自分以外の多くの人間に及びます。このことが、テレビを初めとした既存メディアの、一定の信頼性やモラルを維持することに役立っているのでしょう。
とはいえ、元アナウンサーの方が、テレビでは言えないと彼自身が考えていた「本音」を自身のブログで綴ったことは間違いないでしょう。
さてそこで「本音」について少し考えてみます。
修学旅行の夜に仲間内で好きな人を言い合うのが盛り上がるように、「本音」「秘密」「真実」を伝え、知ること、あるいはそれを共有することは非常に楽しいものです。
「本音」で語り合うことによって生まれる深い理解は、人間関係や集団を結束させたり、それらをより良い道へと導く「前進」だとされています。
しかし今回の件のような政治的な話題の場合はどうでしょうか。
本音のようなものは私的領域に留め、多くの市民の視線が飛び交う公共領域においては、政治は各々が「仮面」を付けた上で、(理性的な)善き市民としての役割を演じる中で執り行われるべきだとしたのは思想家のハンナ・アーレントでした。
誰かが発信した膨大な「本音」が嫌でも目に入ってしまうこのネット社会で、アーレントのこの主張は現代の私たちにとってより重要な意味を持っているのかもしれません。
Twitterにおけるコミュニケーションについて
先日Twitterで、このようなハッシュタグがトレンドに上っていました。
「#オブラートにブスと伝えよう」
(このタグの文法上のおかしさはとりあえず措いておきます。)
このような文言がTwitterというネットサービスの中では大衆性の高い領域で数多く言及され、それがたくさんの人々の目に入ることそれ自体については、様々な意見があると思います。
しかしここではこのタグの是非については論じません。
僕はこれを見てまず最初に、「まるで(男子)中学生の内緒話のようだ」と感じました。
中学生がクラス内の異性に聞かれたらまずいと考えて仲間内だけでヒソヒソと話すような、そんな光景をこのタグを見て僕は連想したのです。
そういう流れで僕は、いつまにか自身の中学生時代の記憶を辿っていましたが、ふいにある一つの疑問が浮かんできました。
それは、「このタグで大喜利をしている人にとって、インターネットはどういう存在なのか」というものです。
社会学者のアーヴィング・ゴフマンによれば、人間は、自身が他者から期待されている役割を演ずるパフォーマーとして振る舞い、自己の印象を操作し、同時に場の秩序を保つ「表舞台」と、本音や陰口を言うことで表舞台とのバランスを図る「舞台裏」を行ったり来たりする存在だとしています。(同じく社会学者の奥村隆は、この表舞台を「思いやり」の領域、舞台裏を「陰口」の領域と捉えています。)
そして彼は、この舞台の2つの領域はその性格上厳密に分離されなければならないと言います。というのも、この分離がうまく行かなければ、表舞台における演技は一挙に空虚なものとなり、舞台の秩序は崩壊してしまうからです。(ゴフマンは例としてホテルの従業員達の行動を挙げています。彼らは宿泊客の前では従業員としての役割を完璧に一方で、控室では客を戯画化し、徹底的にこき下ろすのです。)
通常、社会と呼ばれるような(大衆性の高い)場では、「表舞台」の論理によってそこでの秩序は保たれ、人々は安全に自身の「面子」を保つことができています。
これまでの議論からすると、このハッシュタグは、通常舞台裏でなされる種の話題であることは間違いないように思われます。
というよりこのタグは「オブラート」の語が示すように、これからの表舞台での「演技」を想定した打ち合わせのような雰囲気さえ漂わせています。
では、ここで当初の疑問に戻りたいと思います。このタグで大喜利をしている人々は、このように通常舞台裏に持ち込まれるような話をTwitterで話題にしていますが、彼らはこのTwitterなどインターネットをどのような存在として捉えているのでしょうか。
率直に、彼らは「舞台裏=陰口」の領域として捉えていると僕は考えています。
それは何に対しての「裏」なのでしょうか。おそらく、ネットとの対照においていわゆる「現実」とか「リアル」と呼ばれるものに対してのものだろうと推察されますが、ここで面白いのが、この舞台裏は、裏と言いつつ実際には「全世界に」公開されているという点です。
つまりここでは、表舞台よりも舞台裏の方が大規模で露出度が高いという逆転現象が起きているのです。
もちろんインターネットを使いコミュニケーションをする人が、全員そこを舞台裏とみなしているわけではないであろうことは確かです。
例えばTwitterのプロフィールに実名や職業を書いているような人は、インターネットを表舞台として扱い、求められる役割演技をしている傾向が(他よりは)強いような印象を受けます。
このように考えるとインターネットは、その場が表か裏かコンセンサスが得られないままに、様々な目的を持った人々が同居している混沌とした空間であると言えるのかもしれません。
もしかするとインターネットは、そこを表舞台とする人々にとって不利な場であると言えるのかもしれません。
なぜなら場の秩序などお構いなしに自由気ままに発言する人々と、同じ舞台に立たなくてはならないからです…
…と言いたいところですが実は事態はそんなに単純ではないようです。
なぜなら上述のホテルの従業員のように、場が舞台裏であることによる陰口の「共犯関係」がここでは成立しないからです。
従業員の控室での陰口は、そのメンバー内においてそれを咎める人はいませんが、Twitterなどでは、その大衆性の高さゆえにメンバーの外部からそれを咎める人が出現する可能性が常に存在しています。
したがってこの舞台裏は、ここが表舞台だと考える真面目で(彼らにとっては)厄介な同僚がいつでも侵入する危険性のある、気の休まらない控え室であると言うこともできるのかもしれません。
続きです。
色々な「Make America Great Again」の派生系
アメリカ大統領選の共和党候補ドナルド・トランプ氏の掲げる公式スローガン
「Make America Great Again」は、彼の高いメディア露出もあいまって、非常に有名なフレーズとなりました。(ただ、最初に使用したのはレーガン大統領だそうですが)
今回はそこで、僕がこんなのもあるかもしれないとツイッターのハッシュタグなどを調べた結果、実際に存在し、かつある程度の規模があったものをいくつか紹介したいと思います。(かぎ括弧は見やすいように僕が付けてます)
国・地域系
#make「germany」greatagain
#make「britain」greatagain・#make「uk」greatagain
#make「england」greatagain
#make「russia」greatagain
#make「france」greatagain
#make「sweden」greatagain
#make「mexico」greatagain
#make「australia」greatagain
#make「europe」greatagain
#make「rome」greatagain
#make「earth」greatagain
文化系
#make「music」greatagain
#make「hollywood」greatagain
#make「disney」greatagain
#make「anime」greatagain
#make「pokemon」greatagain
企業系
#make「apple」greatagain
#make「nintendo」greatagain
#make「twitter」greatagain
スポーツ系(サッカー)
#make「manu」greatagain(manchester manutd)
#make「chelsea」greatagain
#make「liverpool」greatagain
#make「arsenal」greatagain
使われた文脈が分からないので何ともいえませんが、思った以上に種類がありました。特に国なんかはどこの国名を入れてもある程度はヒットしました。
調べ方や言語の問題もあるので、実際はもっと色々な使われ方をしていると思います。
よく考えるとこのフレーズ、何かの威光を取り戻したいときのスローガンとしてはとても分かりやすく汎用性が高いので、皆さんも機会があれば使ってみるといいかもしれません。
「好きでいてほしい国」と「嫌いでいてほしい国」
今回は過去の記事で扱ったYouTubeのサジェスト比較について自分なりの考察を加えてみたいと思います。
考察対象として、当記事では過去記事で挙げたサジェストの中でも「日中韓露」に的を絞ってみたいと思います。
というわけで過去記事から一部を貼り付けます。(すべて2016年4月5日の検索結果です)
各国のサジェストにおける相違点
まずこのサジェストを見てすぐ目に付くのは、中国、特に韓国に対するそれの異常さであると思います。
これら二国のサジェストにおいては、ナショナリズムの非常に悪い面が発露しているように思われます。
確かに国同士での関係が良好ではない現在、このような結果になってしまうのはすんなり受け入れるとまでは行かないまでも、容易に考えられる事態であるのかも知れません。
が、とりあえす日本のYouTubeには、国家にアイデンティティを依拠し、そこでの「快感」の為に情報を集める人々が、少なくともサジェストにはっきりと影響を与える程度にはいる、ということは厳然とした事実であるように思います。
しかしそのように考えるとあるひとつの疑問が生まれます。
それは、なぜ中国や韓国と同じく日本と対立のあるロシアのサジェストには中韓と同じ傾向が見られないのかというものです。
むしろそれどころか「ロシア人 日本好き」というワードすらあります。(さらに言うなら「○○人」と入力して「日本好き」と出てくるのは僕がいくつか調べたところロシアだけでした)
中国や韓国と程度の違いはあれどロシアも日本とは領土問題や歴史的な点で(去年はシベリア抑留の記憶遺産の件でひと悶着ありました)問題を抱えています。
そのような背景から世論調査では、日本人のロシアへの親近感は中国と同程度に低いということが明らかになっています。
このようなことを踏まえると、中韓のサジェストとロシアのそれとの違いは、やはり不可解であるように思えます。
YouTubeで中韓が崩壊する、嫌われているという情報を集めるほど悪い意味でナショナル・アイデンティティが高揚した人々は、なぜ同じく日本と対立を抱えるロシアに対しては、その憎悪を向けないのでしょうか?
今回はこれら三国のサジェストの傾向の違いが生まれる要因を、「社会的アイデンティティ理論」と「下方比較」という面から論じてみたいと思います。
社会的アイデンティティと自尊心
まず「社会的アイデンティティ」という用語の意味について説明します。
この理論では、人間は自分独自の性格や記憶が構成要素である個人的アイデンティティに対して、ある集団(カテゴリー)の一員としての自己を定義するとされています。
この集団には、たとえば、男性や女性、日本人とかアメリカ人とか○○県民など、様々なものが当てはまります。
そしてこの「社会的アイデンティティ理論」によると、自尊心の高揚は、この「社会的アイデンティティ」を通じて行われるとされています。*1
この議論をふまえると「日本」・「日本人」のサジェストのいくつかは説明が可能ですが、さらにこの理論を応用して、ロシアにだけ「ロシア人 日本好き」というサジェストが出てくる疑問にも考察を加えてみたいと思います。
僕が考えたのは、もしかするとロシア人は、日本にアイデンティティを依拠し、それによって自尊心を高揚させようとする人々にとって、自集団を好きでいてくれると自尊心が特に高まる人々であって、同時に嫌ってほしくない国民なのかもしれない、というものです。
社会的アイデンティティ理論においては、自集団が高く評価されている、あるいは好かれているという情報は、当該集団にアイデンティティを依拠する個人にとって多分に自尊心の高揚につながります。
そのような背景がある中、国同士の対立が存在し、ともすれば自然と相手国民に嫌われている、国民同士憎しみあっている、というような認識が出来上がってしまうのは、その国民に好かれたい人々にとって死活問題であるわけです。
したがってそのような場合は、あえて好かれているという情報を積極的に集めざるを得ません。
国同士で対立がある。でも嫌ってほしくない、好きでいてほしい。だからそれを覆すために彼らは、ロシア人は日本が好きという情報を集めることに躍起になっているのかもしれません。
もちろんこれだけではこれら三国の違いを説明するには弱すぎます。
そこで次に「下方比較 」という観点から論じてみたいと思います。
下方比較のしやすい相手・しにくい相手
「下方比較」とは、自分より下(と認識できる対象)を見つけ、あるいは自ら作り出した上で、自身とその対象を比較し自尊心を高めることを言います。
これを上記の「社会的アイデンティティの理論」と組み合わせると次のようなことが言えます。
それは、人間は自分の所属する内集団と対象の外集団を比較し(≒下方比較)、自集団を肯定的に認知することで、自尊心を高めることができる、ということです。
なるほどこの観点から見れば、「すごい・感動的な愛される日本」 と「崩壊し、嫌われている中国・韓国」という「対比」は、ナショナルな括りにアイデンティティを依拠する人々にとって、自尊心を高める上で最高の組み合わせであると言えます。
しかしここで重要なのは、一体どういった集団が下方比較での比較対象に選ばれるのか、という点です。
まず、集団同士が「対立」を抱えているというのは不可欠な要素であると思われます。
これは下方比較が本来持つ性質から来るものですが、この「比較」の上ではどうしても対象となった外集団を貶める、あるいは否定的な認知の出来る情報を集めるというプロセスが必要です。
なぜなら、そうしなければ「下方」比較が出来ないからです。そしてそれは相手集団がより自集団と似ている場合、より一層求められることになります。
しかし、仮に対象集団が自集団と友好な関係であった場合、そのような集団を貶め、否定的な情報を集めることは本人に強い抵抗感をもたらします。
自分を好きでいてくれる相手を貶すことは誰にとっても難しいことだと思います。
したがって下方比較の対象は自集団と対立を抱える集団となる可能性が高いと考えられるのです。
このことを踏まえると、ナショナルなアイデンティティで以って自尊心を高揚させる人々にとって、中国、韓国、ロシアは下方比較の対象としては「使える」外集団と言えるのではないでしょうか。
だからこそ、中国や韓国のサジェストは上記のようなものとなっているわけです。
しかしこれまでも言っているように、ロシアからはこれら二国と同じ傾向はうかがえません。むしろ「好き」であるとする情報を集める人々が多いのです。
僕はこの原因は、彼らにとってロシアが下方比較のために必要な、「下に見る(見なす)」ことの出来ない集団であるからではないかと考えていますが、それがなぜなのかは当記事では追いません。
とりあえずここではこのように仮定して議論を進めたいと思います。
建前との矛盾
中韓のサジェストの ナショナリズム的傾向を生み出している人々は、それを日本という社会的カテゴリーを利用した自尊心の高揚のためにやっているということをあけっぴろげに言うわけにはいきません。
なぜならこの行動は、これら二国が日本と対立を抱え、日本の「国益」を害しているから、そしてそれを憂う自身の「愛国心」の発露という建前で初めて、「差別」という批判を退け、客観的な正当性をかろうじて担保できているからです。
つまり相手がこんなことやってるんだからこっちだって~という「目には目を」の論理です。
したがってこの建前を壊すことは、中国や韓国を貶める情報を集めるという自身の行動の正当性を失わせてしまうのです。
しかしこの点から言うと、愛国心や国益などの建前で自身の行動を正当化し、本来の自尊心の高揚という目的をカモフラージュする人間にとって、日本とロシアの対立は非常に厄介な存在です。
なぜならこれまで挙げた要因によって、中韓露に対して行動の一貫性が保てず、建前との矛盾が生じ、「自尊心の高揚」という「愛国心」とは程遠い「利己的な」本来の目的と、自身の中韓への「差別意識」が、客観的に明らかとなってしまうからです。
これを防ぐための最後の手段が、「ロシア人 日本好き 」なのではないかと僕は感じています。
つまり、国同士の対立を抱えているけれども、「実は」相手国民は日本のことが好きなのだから、自分はロシアのことを貶めないのだ、ということにするのです。
まとめ
これまでの議論をまとめてみます。
- YouTubeでサジェストに影響を与えるほどの規模を持ち、中国・韓国のネガティブな情報を集める「彼ら」は、国益や愛国心のためと言うよりは、むしろ社会的アイデンティティ理論の観点で見た場合、アイデンティティである日本国籍を使った自尊心の高揚が目的であり、それが行動の指針となっている。
- その意味で「彼ら」にとって日本は、愛する母国というよりは自尊心の高揚という目的達成のための「道具」でしかなく、その道具が通用しない相手、つまりロシアなどには沈黙せざるを得ない。*2
これらの仮説を踏まえると、国籍に自身のアイデンティティを依拠しそれによって自尊心を高める中で、日中韓露のサジェストのナショナリズム的な傾向を生み出している人々にとって、世界には大きく二つの国が存在していると言えるのかもしれません。
ひとつは、自尊心の高揚と、下方比較の難しさから自国を「好きでいてほしい国」。
ふたつめは下方比較の正当化と抵抗感の軽減の為に自国を「嫌いでいてほしい国」。
補記
これまでの推論は、ある程度の同一視を前提としています。
つまり「ロシア人 日本好き」とか「日本人 すごい」と検索する人々と中韓のネガティブな情報を検索する人々を同一集団であると仮定しているのです。
たしかに簡単に同一視できるものではありませんし、僕自身くわしく調査をしたわけではありません。
しかしこれらの動画に寄せられているコメントのユーザーページ、動画を挙げているチャンネルの他の動画や関連チャンネル、あるいは動画自体の関連動画などを見ると、社会的アイデンティティ論を使ったこの推論は、通低する行動指針の存在を仮定した場合の、これらの国々のサジェスト傾向とその相違点のひとつの説明として、そこまで的外れではないように思うのです。