ペンギンの飛び方

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「日本スゴイ」の時代比較

 

過去の記事では、近年のいわゆる「日本スゴイ」言説を、社会心理学(的な)観点から論じてみました。

それによれば、「日本スゴイ」という言説には、「内集団バイアス」と「黒い羊効果」という一見矛盾するようなロジックが内包されていたのでした。

詳しいことは当該記事を見てもらうとして、今回の記事では「日本スゴイ」の時代比較をー特に戦前から近年のそれの2地点に絞ってー試みたいと思います。

僕がこのようなことをやってみたいと考えたのは、今現在みられる「日本スゴイ」に対する論評や評価の中に、戦前行われていたそれと今のそれを同一視するものが多くみられたからです。

僕はこのような同一視に、何か心にひっかるものがありました。

というのも、「日本スゴイ」という帰結は一緒でも、そこへ向かう回路には全く異なるものが潜んでいるのではないかと感じていたからです。

今回は僕の心のとっかかりを、前回と同じく社会心理学的な観点から文章に起こしてみたいと思います。

 
2つの視点の導入ー「差異化」と「同一化」ー

 前回の記事では、「日本スゴイ」を論じるうえで、社会的アイデンティティの理論を用いましたが、今回の記事も土台は一緒です。

しかし、前回出た視点だけでは戦前と現在のそれを比較することは難しいと僕は考えました。そこで、「差異化」「同一化」という視点を新たに加えます。

 

まず「差異化」ですが、これは内集団と外集団の差異を故意に、そして時に根拠もなく大げさに作り出すことを指します。

この現象は、「内集団バイアス」の性質上、必然的に起こると考えられるものです。

なぜなら、そもそも集団間の「差異」がなければ、内集団と外集団の比較の中で内集団を肯定的に認知し、その成員である自らの自尊心を高揚させるというプロセスが成立しないからです。

したがって集団間の性質が似ているほど、「差異化」への欲求は高まると考えられます。

次に「同一化」ですが、これは自(内)集団を、より(潜在的に)優位だと考えられている集団と同一視することを指します。

この現象は、内集団が相対的に劣位な状況に置かれ、所属集団から得られるアイデンティティが否定的な場合に起こる現象です。

内集団への評価が低い場合、それによって成員の自尊心を高めることは難しくなります。そこで、より優位な地位を持ち、そこへの仲間入りを果たすべきだと考えられる集団(準拠集団)と自らを同一視することで、肯定的なアイデンティティを得ることの必要性が高まるわけです。

 

ところで、この 「差異化」「同一化」は、互いに矛盾するものではありません。異なる対象を相手に、同時進行で行われることもあり得ます。

例を挙げます。

僕は東北地方の出身ですが、何らかの理由、例えば「田舎である」、などの理由で東北地方の出身であることや、その中のある県で生まれ育ったことに負の感情を抱いているとします。

この場合、僕が出身地から得られる社会的アイデンティティは否定的で、当然そこから得られる自尊心も低いものにとどまります。

僕のこの感情は、東北地方全体の性質(≒「田舎」)から生じるものであるので、このようなケースにおいては、東北地方という大きな集団から自らを離脱させるような(認知を与える)論理を構築しなければなりません。

したがってここで差異化は、自分の出身県と東北地方の他の県の差異を作り出す方向に、そして同一化は、その出身県を他の優位な地方(この例でいえば関東地方)と同化させる方向に向きます。

それにより「自分の県は東北の他の県が田舎な一方で、都会が多く、そのことは関東地方の人々も認めていて、彼らは我々を仲間だと思っている」、というような物語を作り上げるのです。

 

導入が長くなりましたが、これまでの議論を踏まえたうえで、ここから本題の「日本スゴイ」の時代比較をしてみたいと思います。

 
「戦争」と同一化の不存在

まず最初に戦前の「日本スゴイ」を考えてみたいと思いますが、それには考慮しなければならない重要な前提があります。

それは「戦争」、それも特に太平洋戦争と、それに付随する日本と欧米列強の対立です。僕はこの特異な時代状況が、明らかに当時の「日本スゴイ」にも影響を与えていると感じます。

まず差異化についてみてみます。

僕は早川タダノリさんの『「日本すごい」のディストピア』(青弓社)をはじめ、その他著作をいくつか読みましたが、この時代、もちろん例外はあれど差異化の対象にされている外集団は、多くが米英をはじめとした欧米列強です(独・伊はここでは措きます)。

戦時中のスローガン「鬼畜米英」が示すように、集団間の比較のため差異化され、貶めれられ、内集団である日本の価値向上の踏み台にされる外集団は、多くが欧米なのです。

しかしこの事態は、それまでの文明開化以降の日本を特徴づける言葉脱亜入欧とは全く一線を画しているように思えます。

明治期以降、その制度や文化を取り入れ、同一化の対象だった欧米が、なぜ差異化の対象になったのでしょうか。

そこに戦争と、それに前後する国家間の対立が関係しています。

一般的に言って、ある集団の別集団への同一化は、そもそも同一化の可能性がなければ、つまり、準拠集団への仲間入りを果たすことができると希望が持てる程度の、集団間の流動性がなければ、その実現は難しくなります。

あまりに差異のある、そして仲間であると承認される可能性もない外集団を、自集団と同一化することは非常に困難が伴うのです。

したがって戦争というこの時代特有の状況は、明治以降の日本の欧米との同一視の流れを、一時的に停止させていたと考えられるのです。

続けて同一化です

上の早川さんのものを始め、いくつかの文献を見る限り、この時代、同一化のための特定の外集団はありません。「日本スゴイ」の論拠は、多くの場合、日本人自らの手で構築した理論が基になっています。

つまり、「なぜ自分たちが優れているのか」を、他集団への同一化によらず、「自分たちの言葉と論理」で説明しているのです。

これには、かつて同一化の対象だった欧米が差異化の対象になったことや、植民地主義のこの時代に、同一化することで内集団の価値が向上すると考えられる、欧米以外の他集団が存在しなかったことが理由として考えられます。

しかし最も大きいのは、戦争遂行の正当化のためであると僕は考えます。

欧米列強の覇権を崩し、今まさに八紘一宇のもと世界の統治者とならんとするという目的のためには、その論拠を、日本以外の他集団との同一化による内集団の価値の向上に頼ることはできません。それでは論拠が弱すぎます。

このような壮大な目的においては、日本が唯一無二の絶対的な価値を持った優秀な国家であり民族である、と説かなくては手段の正当化は果たされないのです。

 

これまでの議論を踏まえれば、この時代の「日本スゴイ」は、戦争という特異な状況のもと出現した、特殊なものだったと言うことができます。

つまり、近年の「日本スゴイ」に関して参照される戦前のそれは、明治期以降の大きな時代の流れの中では、特定の時代背景をもとに、限られた期間の間にのみ有効であった、一種の突然変異であったと考えられるのです。

 
「同一化」の復活と切実な「差異化」

ここから時代を現代へと移します。まず差異化についてです。

端的に言って、近年の差異化の対象は、主に近隣のアジア諸国となっています。

それも特に、日本と文化的にも歴史的にも交流が深く、民族や人種上の形質も近い中国や韓国の二国に、「内集団バイアス」における自集団の価値向上のための外集団が設定されています。

では、かつての差異化の対象であった、英米をはじめとした欧米諸国はどうなっているのでしょうか。

僕が見る限り、これらの国々は現在では、明治期の「脱亜入欧」のように、再び「同一化」の対象となっています。

テレビや雑誌など、さまざまなメディアで展開されている「日本スゴイ」の言説の中で大きな比重を占めるのものに、外国人、それも特に欧米の人々が日本を褒めるというモチーフがあります。

この「褒める-褒められる」の関係は、既に挙げた東北地方の例の「自分の県は都会が多く、そのことは関東地方の人々も認めていて、彼らは我々を仲間だと思っている」、というものと非常によく似ています。

ここで展開されるのは、劣位にある集団が、より優位な集団、準拠集団から承認(≒褒められる)され、そのことをもって優位な集団との同一化を図るという構造です。

ここにおいては、もはや戦前のように内集団の優秀性を、自らが作り出した言葉と論理で説明する、というようなことはありませんし、そのような労力も無駄です。

戦争という極端な状況でもなければ、八紘一宇のような大きな目的もないからです。

ただひたすら、他のアジア諸国と自国との差異を作り出しながら、そのような国々とは「本質的に」異なる日本が、その優越性を欧米諸国に承認されるという言説を生産させ続ければ、日本の価値は向上(したように認知され)、その成員の自尊心も高揚するのです。

この論理を徹底させた書籍が、今年出版されたケント・ギルバート儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇 』(講談社+α新書)だと僕は考えます。

アメリカ人の彼が、日本と中国、韓国の差異を強調し、これら二国にはない日本の価値を「褒める」という構図が繰り返されるこの書籍は、内集団バイアスにおける「差異化」と「同一化」のプロセスを一冊の中で完結させた、ある意味で非常に合理的な書物なのです。

 

これまでの議論からすれば、現在の「日本スゴイ」は、差異化と同一化という観点からは、明治期以降の大きな流れに戻ったという一面もあるように思われます。

戦前のある時期に、人種や民族、文化的にも明らかに異なる欧米の国々を、わざわざ差異化の対象とすることは、そもそも不自然なことだったのです。

自集団に近い集団を差異化のための比較対象とし、準拠集団と自らを同一化させる…。こちらのほうが自然だし、準拠集団を欠くために同一化の対象を見失うこともありません。

よって自分たちの優秀性を説く論理を自分たちの言葉で調達しない分、客観的で公正であるようにも感じます。戦前の「偏狭」「独りよがり」の「日本スゴイ」は、結局、日本を破滅的な戦争に追いやったではないか…。

しかし、僕はこのような考えに(完全には)賛同できません。

なぜなら前述の通り、「差異化」やそれに伴う差別は、集団間の差異が小さくなり、ほとんど見えなくなるまさにその時に、より苛烈なものになるからです。

そもそも他のアジア諸国と日本を差異化し、欧米と自らを同一化することが明治以降の大きな流れなら、なぜ今になって「日本スゴイ」という言説がメディアを大きく賑わせ、それに注目が集まっているのでしょうか。

それはおそらく、他のアジア諸国が、経済発展し文化も欧化することで、日本とこれらの国々との差異が、自明のものではなくなったからだと考えられます。

社会的アイデンティティの観点から見れば、日本の優越性は、他のアジア諸国との差異の大きさと、それと表裏の欧米への近接性(という物語)によって担保されていましが、そのような構造は現在、大きく崩れています。

したがって現在の差異化は、戦前のそれより、ある意味では、切実なものとなっていると考えられるのです。

 

 

訪ねてまわったどこの土地でも、自己確認の対象として敵対するグループ同士、似ていれば似ているほどナショナリズムは暴力的だ。両者の違いが大きければ大きいほど対立は暴力を呼ぶというのが、理にかなった説明ではあるだろう。だが、少なくとも部外者には、セルビア人とクロアチア人の区別がつかぬのと同様に、アルスター人は見た感じも話しぶりもアイルランド人と変わらない。ところがその類似こそが、彼らをして、われらは対極にある者同士、と定義させてしまうのだ。*1

  

このようなアイデンティティの危機は、男らしさ、コミュニティ、国籍、宗教のいずれが焦点化されるにしても、アイデンティティを強化し明確化する要求を喚起する。文化のグローバル化の時代にあって、かつては異なっていた文化が国内的にも国際的にも似てきたということを考えると、これは困難になり、また切迫性を帯びるようになっている。

…差異は能動的に構築されなければならないものである。フロイトの用語でいえば、「小異にこだわるナルシシズム」は激しく強烈な紛争状態を生み出す。伝統は創造され、差異は即興的につくりだされる。*2

 

一般に信じられているところとは違い、ユダヤ人が集団虐殺の犠牲になったのは、彼らが同化の努力をしたにもかかわらず、虐殺政策から逃れられなかったのではない。そうではなくて、この同化の努力自体に対する反動として虐殺が行われたのだ。ユダヤ人が非ユダヤ化すればするほど、彼らはより恐怖の対象にされた。彼らの出身がばれないようになればなるほど、反ユダヤ主義の世論が彼らに投げかける呪いは激しさを増した。非ユダヤ化して他の住民の中に溶け込んでゆくことが、これほど激しい憎悪につながるなどと、啓蒙主義に育まれたユダヤ人にどうして想像できただろうか。彼らの敵が攻撃するのは、彼らの中に残存するユダヤ性だとばかり彼らは思いこんでいた。しかし実は非ユダヤ人というこの新しい身分こそが、まさに敵の恐怖と怒りを煽ったのだった。*3

 

 

参考文献

M.A.ホッグ/D.アブラムス 吉森護、野村泰代訳 1995年『社会的アイデンティティ理論ー新しい社会心理学体系化のための一般理論ー』 北大路書房

垂澤由美子/広瀬幸雄「集団成員の流動性が劣位集団における内集団共同行為と成員のアイデンティティに及ぼす影響」『社会心理学研究 第22巻第1号』pp.12-18 2006年

 

*1:マイケル・イグナティエフ 幸田 敦子訳 1996年『民族はなぜ殺しあうのか』p.346 河出書房新社 

*2:ジョック・ヤング 木下ちがや、中村好孝、丸山真男訳 2008年『後期近代の眩暈―排除から過剰包摂へ』p.82 青土社

*3:小坂井 敏晶『社会心理学講義〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉 』pp.206-207 筑摩選書(原文:Finkielkraut,A.(1980) Le Juif imaginaire,p.88,Seuil)