ペンギンの飛び方

本を読んだりニュースを見たりして考えたことを、自由に書いていきたいと思います。

「黒人差別的なもの」と「ユダヤ人差別的なもの」の融合

こんにちはhuman921です。

シノドスさんのこの記事を見て、

 

synodos.jp

 

思うことがあったのでこのエントリーを書くことにしました。

シノドスさんのこの記事では、「古いレイシズム」と「新しいレイシズム」という言葉が出てきます。

前者は対象集団の劣等性や犯罪行為に関してのレイシズム

後者は特権や生活保護、逆差別に関するレイシズム

記事の中で高史明さんは、少なくとも日本のネット上のコリアンへのレイシズムはこの両者が共存していると指摘しています。

 

僕はこの指摘を見たとき、この2つのレイシズムの構造はあるものに似ていると感じました。

それは、米国における(古典的な)「黒人差別」と(主に)欧州の「ユダヤ人差別」です。

記事の中でも挙げられている通り、古典的な黒人差別は、黒人は劣等だと言ったり、彼らの犯罪について言及するものでした。

しかしユダヤ人に対してのそれは、彼らが(不当に)特権を得て高い地位にいる、その一方で自分達は不利な立場に追いやられているという言説が特徴的です。

よって古典的な黒人差別は古いレイシズムユダヤ人差別は新しいレイシズムに対応するのではと僕は思ったのです。

 

僕は長らく、日本のインターネットにおける在日コリアンへの差別は、この(古典的な)黒人差別と、ユダヤ人差別の両者の傾向、どちらも保持していると感じていました。

インターネットにおいては在日は劣等だとするものや、道徳性への批判、そして犯罪に関しての差別をよく目にします。

しかしそれと同じくらい頻繁に「在日特権」なるものへの糾弾と、それがまかり通る原因として、政治やメディア、あるいは芸能界が在日によって支配されているからだという言説(もちろんこれも差別)も目にします。

僕はこの共存を不思議に感じていました。

というのも、もし在日の人々が本当に日本人よりも劣っているとするのなら、政治やメディアを日本にたった数十万しかいない彼らが支配できるはずがないからです。

この矛盾は、差別者の中では問題にならないのでしょうか。

 

そこでこの疑問に何かを示唆するかもしれないのが、以前の記事でも紹介したことのある社会学者R.K.マートンの「言葉の錬金術」という概念です。

 彼は社会の多数を占めるマジョリティーが構成する内集団と、それに属さないマイノリティーである外集団という構造の中で見られる差別のレトリックを、次のように述べています。

 

 リンカーンが夜遅くまで働いたことは、彼が勤勉で、不屈の意思を持ち、忍耐心に富み、一生懸命に自己の能力を発揮しようとした事実を証明するものだとされる。ところが外集団のユダヤ人や日本人が同じ時刻まで夜働くと、それは彼らのがむしゃら根性を物語るものであり、また彼らがアメリカ的水準を容赦なく切り崩し、不公正なやり方で競争している証左だとされる。内集団の英雄が倹約家で、つつましく、また貯蓄家であるとすれば、外集団のならず者はけちん坊で、欲張りで、一文惜しみである。内集団のエイブ(リンカーン)はスマートで、敏捷で、才智にあふれているから、1から10まで褒められ、外集団のエイブは同じことながら、すばしこく、ずるく、悪賢くて、あまり目先が利きすぎているから、何から何まで軽蔑される。*1

 

ここで述べられているのは、外集団、つまり自分の属する内集団とは違う特定の属性を持つ対象は、たとえ内集団ではよいとされる徳目を持っていても、それを表す言葉を変えられ(=「言葉の錬金術」)、どうやっても悪徳とされてしまうということです。

つまり、

 

外集団の成員が内集団の徳目を備えている場合でも、そうでない場合でも、ひとしく非難させられる*2

  のであり、

外集団のメンバーは、大体何をしようとそれとは関わりなしに、徹頭徹尾非難される*3

  のです。

 

そして、このような構造の中で、内集団の徳目を身につけていないとされ差別されるのが黒人で、身につけているが差別されるのがユダヤ人なわけです。

この文脈の違いが、上記の黒人とユダヤ人の差別の傾向の違いに表れているのです。

 

しかし、なぜ外集団は、内集団の徳目を備えているにもかかわらずこのような手の込んだレトリックで非難されてしまうのでしょうか。

マートンはそれを次のように説明しています。

 

道徳的徳目は、それらがあくまで本来の内集団に限られ、一般からは羨望されている限りにおいてのみ、徳なのである・・・何故なら、このようにこれらの徳目を自分達で独占する事によってのみ、明らかに勢力家はその優越や威光や勢力を保持することが出来るからである。

社会階層と社会勢力の体制を温存するためには、これ以上に賢明な策はない。*4

 

この指摘は、現代のインターネットにおける在日差別の傾向に対して非常に示唆的だと僕は思います。

戦後から現在にかけて、在日コリアンは徐々に帰化が進み、その数は減ってきました。

さらに文化的・言語的な同化も進んでおり、人種的な観点からいってもほとんど見分けがつきません。 

このことが、現在の在日差別における2つの傾向の奇妙な共存を生み出しているのではと僕は感じています。

 

つまり、これまで日本人の徳(文化や言語を含んだあらゆる日本人の理想像)を持っていないとされ、かつ自分達より下に見ることが出来ていた集団が、帰化と同化、そして日本における格差や貧困の拡大が重なることによって、日本人と対等、もしくは相対的に上の存在(かつどこにいるかわからない不気味な影)として出現し(少なくともこのように考える人が、日本人の中から出てきます)、それによって在日に対する差別の中の、かつての黒人差別的な傾向に、ユダヤ人差別的な要素が加わったのではないでしょうか。

結局、差別の対象にされた外集団は何をしても非難され、そこでは差別の言説の中の矛盾の存在は全く意味を成さないものということになるのです。

 

マートンは、著名なユダヤ人の数々をある「リスト」から引用し書き連ねた上で、次のようにも述べています。

 

一体かくもせわしげにユダヤ人の賛歌をかなでているのは誰であろうか。営々として社会や文化や芸術に顕著な貢献をした何百人のユダヤ人のリストを綴ったのは、一体誰であろうか。

ユダヤ人が世界文化に対して然るべき貢献をしたことを、証明しようとして夢中になっている親ユダヤ主義者なのだろうか。

そうではないこと位はこれまでの話でお分かりの通りだ。

右の完全なリストは人種主義者フリッチが編纂した反ユダヤ・ハンドブックの第36版にある。

内集団の徳を外集団の悪徳にすり替える錬金術的公式にしたがって、彼はこのリストをば、元来アリアンの内集団に帰すべき業績を僭取してしまった災の精神の持ち主たちの点呼表として提示したのである。*5

 

 

*1:ロバート・K・マートン「社会理論と社会構造」P390 みすず書房 1961年

*2:同 P392

*3:同 P389

*4:同 P391

*5:同 P395