ペンギンの飛び方

本を読んだりニュースを見たりして考えたことを、自由に書いていきたいと思います。

怒りと文明化と市民性

 

最近投稿した記事に関連する話題がはてなブックマークでも話題になっていました。

 

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

僕は2年半程前に、 ある問題について、「同じ考え、不満を持ち、それに賛同、共感していたのに、それを改善しようと実際に行動を起こすと冷める人が出てくる」 という現象の背景を考てみたことがあります。

 

human921.hatenablog.com

 

そして直近では、怒りに対する忌避観とは別の角度から、ネット時代において、ネットから生じた世論の現状への怒りの高まりとそれから生まれる一体感や共感は、「継続的で組織的」な団体や運動になるプロセスの中で、しぼんでしまうのではないかという仮説を記事にしてみました。

 

human921.hatenablog.com

 

 さて、引用元の記事に戻り、「怒り」について考えてみると、確かに怒りを表出すること、あるいはそれを目撃することは以前と比べて忌避の感情をもってとらえられているように思います。

「デモと他人の怒りを見ることの困難さ」の最後のあたりでも少しだけ述べましたが、これには社会学ノルベルト・エリアスの言う「文明化」が関係しているのではないかと、僕はずっと考えています。

暴力が非合法になり、またそれを独占した強力な中央権力が誕生すると、それまでとは違い直接的な暴力ではなく、感情をコントロールしたふるまいの洗練度が、社会でうまく生きていくには重要になる。

そうした規律あるふるまいを続けていくうちに、いつしかその規範は内面化され、演技ではなく心から、つまり抑制された情感を表出することそのものに忌避感を覚えるようになる。

これが、エリアスが主著『文明化の過程』で描いた、文明が暴力を減少させ、さまざまなマナーや作法を生み出すに至ったプロセスの簡単な要約です。

僕は現代の怒りのタブー視の流れが、この「文明化」の一種の延長なのではないか、もしくはその一端を多少とも担っているのではないかという考えを長く持っています。

仮に僕のこの考えが多少ともあっているとして、なぜこの文明化がここにきて、このような方向でまた進んでいる(ように見える)のか、というのも面白いテーマですが、僕はなんとなくサービス業の従事者の増大と、それに付随する感情労働における提供する「感情」の「質」の過激な競争が影響を与えているのではないか、と考えているところです。

ところで、元の引用記事では、怒りのタブー視を弱者を益するものとして好意的に見ています。

この見方は基本的には正しいと僕も思います。

怒りがほとんど全くタブー視されることのなかった時代、例えばエリアスの議論でいえば暴力を独占する権力が誕生する前の封建時代の中世ヨーロッパでは、文字通り腕力がすべてを決めていました。

そういう意味でいえば、文明化やそれに付随する様々な潮流は、腕力や権力を持たない人々に光を与えたということができそうです。

しかし別の観点からみると、全く逆のことも言うことができます。

例えば政治学者のウィル・キムリッカは、「市民性」という名の、私たちが日常生活全般において要求される、たとえ最小限の徳性しか具えていない市民といえども身につけなければならない「徳」の存在を指摘して、(市民性の本来の意義を強調しながら)次のように述べています。

 

たしかに、リベラルな社会において市民性という道徳的義務は「良い作法」という美的な構想と混同されることもある。たとえば、市民性への期待は、激しい抗議のやり方―抑圧された集団にとっては自らの声に耳を傾けさせるために必要なものであるかもしれない―を挫くために用いられることもある。不利益を被っている集団が「派手にやる」ことはしばしば「趣味が悪い」と見なされる。良い作法にたいするこの種のおおげさな強調は、奴隷根性(servility)を促進するのに用いられうる。しかし真の市民性というものは、どんなにひどい扱いを受けていたとしても他者に微笑みかけるーあたかも被抑圧集団は抑圧者に対して行儀よくするのが当たり前であるかのようにー、というようなことを意味しているのではない。そうではなく、他者が自分に同等の承認を与える条件の下で他者を対等者として処遇する、ということを意味しているのである。*1

 

*1:W・キムリッカ 2005年『新版 現代政治理論』p439 日本経済評論社