ペンギンの飛び方

本を読んだりニュースを見たりして考えたことを、自由に書いていきたいと思います。

インターネットは世論の力と継続性を弱めるか

 

新聞、テレビ等、既存のマスメディアの信頼性が年々下がっているようです。

 

www.buzzfeed.com

 

上の記事の池上さんも指摘しているように、すべての個人が参加できるインターネットの発展によって、マスメディアの報道が広く批評の対象となり、またそれを共有できるプラットフォームが出来上がったことが、このトレンドの一つの要因であるように僕も思います。

権威をもつ大メディアの報道が、無数の目によってリアルタイムに批評の対象となる。このこと自体は情報の信頼性を吟味する上でも、あるいは、様々な角度からの意見を摂取するという意味でも、インターネットが初めてその可能性を(これまでにない規模で)開いた事象であって、メディアから情報を受け取る側の私たち市民にとっては、プラスの出来事であるでしょう。

既存のメディアの報道に限らず、インターネットの発展は、公開されたすべての意見や表現を対象化し、それらに対して同意、共感、賛成、反対、あるいは罵詈雑言を述べる場を、私たちに提供しました。

そしてこのテクノロジーが画期的なのは、この対象化の連鎖を、参加者にその気があれば延々と続けさせることを可能にしたという点にあります。

たとえば「はてなブックマーク」というサービスは、ネットに公開されたあらゆる情報を自分たちの庭に持ち込み、批評の対象にしてしまう恐ろしいプラットフォームですが、そうした批評も、コメントに対しスターをつけるシステムによってすぐに対象化されます。さらに個別の意見だけではなく、実際には記事に集まったブックマーク全体すらも、まるごと批評のターゲットになる危険性にさらされているのです(いわゆる「メタブ」)。

 

このようなインターネットが可能にした対象化の無限の連鎖は、冒頭の記事で引用したように、まず既存のマスメディアの信頼性の低下を引き起こすでしょう。

そして次に起こると考えられるのは、Twitterなど、個人からの情報発信や意見や主張が、既存のメディアのそれよりも相対的に共感や同意を得られやすくなる、という事態です。

ちなみに、ここでいう「個人」からの情報発信とは、当該人物が既存のメディアには所属しておらず、また、自らのいる組織や団体、その他様々な属性を公にしないか、あるいは公にしていてもそれが発言とは直接関係していないか、関係しているとしても代表しているとは思わせないような、あくまで個人の体験、視点からの主張や意見、というような特徴を持ちます。

なぜこういうことが起こるのか、 例えば次の記事をもとに考えてみます。

 

www.buzzfeed.com

 

今ネットで大きく主張されている絶滅が危惧されるウナギを消費することへの反対論ですが、そのような風潮の中でbuzzfeedがこのような記事をアップしたため軽い炎上が起きました。

新興ネットメディアの中では比較的評判の高かったbuzzfeedだけにショックは大きかったようで、記者本人だけでなく、buzzfeedという組織それ自体にも批判の目が向けられています。

buzzfeedというネットメディアが存続する限りは、一度このような記事を掲載したという事実からは逃れることはできません。したがってこの件を批判的に受け取った読者や、この炎上を知ったネットユーザーがこれからbuzzfeedが掲載する記事を読む態度は変わっていきます。

僕が注目するのはまさにこの点です。

こうしたことは、組織が存在し、その名のもと情報発信をする以上、否が応でも蓄積していきます。

これは、炎上を起こすような記事を載せなければいいという単純な話ではなく、全員の意見が一致する言論がない以上、無数の批評の目にさらされ、そこで生まれた不満を共有する場が存在する限りは、防げるものではありません。

したがって、ネット時代において、組織化され、巨大な情報発信力をもち、継続的に多数の目から批評の対象にされる既存のマスメディアをはじめとした、継続的な団体や組織の信頼性は、不可避的に低下していくと同時に、彼等の発する情報は、その共感力や、世論を喚起する力も失っていくと考えられるのです

もちろん、Twitter、あるいははてなブックマークにおいても、個別のある発言が炎上したり、フォロワー数が多いアカウントために継続的な批評の目にさらされている場合は、信頼を徐々に落とす、ということはありえます。

しかし、こうしたことは、個人の情報発信が相対的に高い信頼性や共感性を持つようになる、という全体の傾向を止めるものではありません。

なぜなら、そこで落ちた信頼性とは、Aという特定のアカウントに対してのものであって、ネットに存在する無数の個やつぶやきに対するそれではないからです。

ネットでは日々、大量の意見や主張が無数のアカウントから生産されており、だれか知らない個人が発した情報が、強く共感され、拡散されていくという事象そのものは、これからも続いていきます。

したがって、漠然とした個に対する信頼性や共感性は、失われないのです。

このことは、インターネットのプラットフォームとしての信頼性が低いことにかかわりなく起こり、互いに矛盾することではありません。ネットの個人は、新聞やテレビとは異なり、ネットという特定の組織の看板を背負っているわけではなく、日々情報を見、発信する場がネットであるというにすぎません。そして、そこで私たちは、一つの共通する言語空間に参加している内集団であり、そこでの意見の多様性を知っています。そのため、プラットフォーム全体に対する信頼性の低さと、そこでの個々のつぶやきに対する信頼と強烈な共感は、成立するのです。

 

さて、このような流れは結局、私たちをどのような方向へ導いていくのでしょうか。

肩書や属性、発信者の権威によらない、あくまで発信された意見や主張そのものが評価される世界でしょうか。ある意味ではそれは実際に進行しているものだと思われます。そして、そのこと自体は、僕はよいことだと思います。

次に起こると思われるのは、ーここからが記事のテーマですー世論の風向きで変わるはずだったものが、変わらない、あるいは、そこまで世論が力を持たなくなる、というような現象です。

これはどういうことでしょうか。

それは、既存のメディアがその影響力を失う中で、個人的なつぶやきから生まれた共感や人々の一体感や世論の高まりが、その目的のもと組織化され、固定した属性を持つ、なんらかの継続的な団体や運動となったまさにその瞬間から、しぼんでいってしまう、という事態です。

とういうのも、そうした個人のつぶやきは、人格を持った継続的ななにかに形を変えると同時に、ネットの対象化の連鎖に巻き込まれると考えられるからです。

これは、2年後ほど前の、「保育園落ちた日本死ね」に端を発した一連の出来事でも観察することができます。

 

b.hatena.ne.jp

 

しがらみのない孤立した個人が、例えばTwitterなどであれば共通の話題をハッシュタグなどでつぶやき、それをリツイートして盛り上がっている内は、あるいははてなブックマークであれば、ほとんど誰もがそれと認めるような政治家の失言や、国の制度の不備を紹介した記事に、批判するコメントをしてスターをつけあっている内は、共感や一体感は最高潮に達しています。

しかしそれは、実際に何かを変えるために継続的、組織的化なものとなった瞬間に冷めた目線でみられることが多くなります。

誰かのなにげないつぶやきや匿名による投稿が、ネットの力で共有、拡散されることで草の根から盛り上がった世論が、それが現状を変化させる力を持つというそのときに、そのためのプロセス(組織化・継続化)が原因で、逆説的に力を失ってしまう(しかもネットによって)。*1

例えば最近でいえば、うなぎ、学校のエアコン、五輪、労働問題など、ネットで盛り上がっていて、かつ現状に対して不満の多いと思われる問題は山ほどありますが、それらがデモや署名、実際に政治家への働きかけや団体の設立などへと発展したとき、それまでの賛同や共感は、果たしてどこまで持続するのでしょうか。

もし今回、ここで僕が述べたようなことが本当にあるのだとしたら、こうした隘路から抜け出すことは非常に難しいと、僕は思います。

 

 

 

*1:おそらくこれには、(対象化の連鎖という恐怖から)おそらくネットその一翼を担っているであろうと思われる、何らかの組織や運動に加わることへの忌避感も拍車をかけています。