ペンギンの飛び方

本を読んだりニュースを見たりして考えたことを、自由に書いていきたいと思います。

J.S.ミル先生によるネットでの議論のための心構え

 

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最近、インターネットがもたらす社会の分断について注目が集まっていますが、なんとなく読み返していたJ.S.ミルの『自由論』に、この問題を考えるヒントというか、分断の時代における議論の心構えとして有用そうな記述がいくつかあったので、今回はそれを取り上げてみたいと思います。

この著作が発表されたのは今から約160年も前ですが、ネット時代の21世紀でも通用するどころか、発表当時よりもむしろ現代の方がその指摘が当てはまるようにも感じられ、とても面白いです。

では、以下にいくつか紹介します。

 

1 各々が自分の主義・主張を表明する自由と、それによる対立した見解を持つ人々の歩み寄りについて

 ミルはこれについて次のように述べます。

どんな意見でも発表できる自由が無制限に行使されたら、宗教や思想におけるセクト主義の弊害が弊害がなくなるかといえば、私はそうは思わない。…

セクト主義は議論が最大限に自由に行われれば解消されるものではない。むしろ自由な議論はセクト主義を逆にしばしば強め、悪質化させる。 

 (引用 J.S.ミル (1859=2012)斉藤 悦則訳『自由論』光文社古典新訳文庫 pp.126‐127)

これの理由として、ミルは論敵が自分たちの側が見つけられなかった真理を主張したとき、それを否定せざるをえないからだと指摘します。というのも、

狭量な人間が真理とやらに熱中すると、もうこの世のほかの真理は存在しないかのように、あるいは少なくとも、自分たちの真理を制限したり修正できるものは存在しないかのように、それを主張し、説教し、いろんな実践方法をくりだすにちがいない。(同上 p127)

からです。ようするに、自分と異なる主張を受け入れる姿勢のない人間同士による議論は、むしろ分断を深めることにつながるというわけです。

しかしミルは、こうした意見の衝突それ自体は、それを傍観する人々にとっては良い影響があると考えます。なぜなら部分的な真理を持つ主張がぶつかり合う場合にのみ、真理はよりすぐれたものになる可能性があるからです。

したがって自らの意見を自由に主張することが許された社会において、危惧すべきは次のようなことになります。

 両方の意見をいやでも聞かされること、これには絶対に希望がある。問題は、一方の意見のみに耳を傾けるようになるときだ。そのとき、誤った意見が定着して偏見となり、真理そのものも誇張されて虚偽と化し、真理としての効力を持たなくなる。(同上 pp.127-28)

サイバーカスケードという言葉もあるように、このような事態に陥る危険性はネット時代において高まっているように思えます。自分も含め、これについては気をつけたいものです。

 

2 議論の際の禁じ手について

 これについて、ミルはまず次のように述べます。

 われわれが論争をするとき犯すかもしれない罪のうちで、最悪なものは、反対意見のひとびとを不道徳な悪者と決めつけることである。(同上 p132)

耳が痛いです(笑)。みなさんも、ネットでよく見かけると思います。

しかしミルの面白いところは、こうした本筋の議論以外での論敵への中傷は、世の中における支配的な意見を持つ側が、特に自制しなければならないと考えている点です。

なぜなら、多数派がこうしたことをやると、反対派は自らの意見を言う気が失せ、反対意見が実際に表に出ることが少なくなってしまうからです。

異なる意見の衝突が、よりよい真理の発見にとって不可欠と考えるミルにとっては、こうした衝突そのものがなくなる事態はなんとしても避けたいもの、というわけです。

さらにミルは、このようなことも述べます。

論争のどちらの側に立つ人であれ、主張のしかたが公平さを欠き、悪意や偏見や心の狭さを露わにしている人は、誰であろうと非難される。ただし、その人がわれわれと反対の立場である場合、彼のそうした欠陥をその立場のせいにしてはならない。(同上 p133)

非常に耳が痛いです(笑)。これもネットで(以下略)。

上にリンクを張った記事中の荻上チキさんの「セレクティブ・エネミー」という概念にも、このミルの指摘は通じるところがあります。

論争中の相手側の主張の中から、極端なもの、明らかにおかしいものを選択し、その原因を彼らの立場に還元し、それでもって論敵全体を攻撃する。

こうしたことは、ネット時代において、より簡単に、大規模に行うことができるようになっていると思います。

 

3 議論における道徳

最後に、ミルの考える、議論の際にそれに参加する人々が守るべき道徳を引用したいと思います。

どういう意見の持ち主であれ、反対意見やその持ち主について冷静に観察し、誠実に説明し、相手の不利な部分をけっして誇張せず、相手の有利な部分、あるいは有利と思われる部分をけっして隠さない人には、当然の賞賛を与える。

これこそが、公の場での議論における真の道徳である。(同上 pp.133-134)

なんとも素朴で当たり前のような感じがしますが、実はこれには次のような文章が続きます。

この道徳が守られないこともしばしばあるが、多くの論者たちはかなりよくこの道徳を守っている。また、さらに多くのひとびとが、この道徳を守ろうとまじめに努めている。これはほんとうに幸せなことだと思う。(同上 p134)

ミルが21世紀のネット上の議論を見て同じことを言えるかどうかはわかりません。

しかし、ネットによって、ミルの考えるよりよい真理の構築、発見のために必要な条件であった、多様な意見(の衝突)がどこでも簡単に見られるようになったことも事実です(それをさせない誘惑も同時にあるにせよ)。

したがって上述のような議論における禁じ手、そしてその際に必要な道徳を理解しそれを守ることで、ネットがもたらす益の部分を、より効果的に引き出せるのではないかと僕は思います。

 

 

 

怒りと文明化と市民性

 

最近投稿した記事に関連する話題がはてなブックマークでも話題になっていました。

 

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僕は2年半程前に、 ある問題について、「同じ考え、不満を持ち、それに賛同、共感していたのに、それを改善しようと実際に行動を起こすと冷める人が出てくる」 という現象の背景を考てみたことがあります。

 

human921.hatenablog.com

 

そして直近では、怒りに対する忌避観とは別の角度から、ネット時代において、ネットから生じた世論の現状への怒りの高まりとそれから生まれる一体感や共感は、「継続的で組織的」な団体や運動になるプロセスの中で、しぼんでしまうのではないかという仮説を記事にしてみました。

 

human921.hatenablog.com

 

 さて、引用元の記事に戻り、「怒り」について考えてみると、確かに怒りを表出すること、あるいはそれを目撃することは以前と比べて忌避の感情をもってとらえられているように思います。

「デモと他人の怒りを見ることの困難さ」の最後のあたりでも少しだけ述べましたが、これには社会学ノルベルト・エリアスの言う「文明化」が関係しているのではないかと、僕はずっと考えています。

暴力が非合法になり、またそれを独占した強力な中央権力が誕生すると、それまでとは違い直接的な暴力ではなく、感情をコントロールしたふるまいの洗練度が、社会でうまく生きていくには重要になる。

そうした規律あるふるまいを続けていくうちに、いつしかその規範は内面化され、演技ではなく心から、つまり抑制された情感を表出することそのものに忌避感を覚えるようになる。

これが、エリアスが主著『文明化の過程』で描いた、文明が暴力を減少させ、さまざまなマナーや作法を生み出すに至ったプロセスの簡単な要約です。

僕は現代の怒りのタブー視の流れが、この「文明化」の一種の延長なのではないか、もしくはその一端を多少とも担っているのではないかという考えを長く持っています。

仮に僕のこの考えが多少ともあっているとして、なぜこの文明化がここにきて、このような方向でまた進んでいる(ように見える)のか、というのも面白いテーマですが、僕はなんとなくサービス業の従事者の増大と、それに付随する感情労働における提供する「感情」の「質」の過激な競争が影響を与えているのではないか、と考えているところです。

ところで、元の引用記事では、怒りのタブー視を弱者を益するものとして好意的に見ています。

この見方は基本的には正しいと僕も思います。

怒りがほとんど全くタブー視されることのなかった時代、例えばエリアスの議論でいえば暴力を独占する権力が誕生する前の封建時代の中世ヨーロッパでは、文字通り腕力がすべてを決めていました。

そういう意味でいえば、文明化やそれに付随する様々な潮流は、腕力や権力を持たない人々に光を与えたということができそうです。

しかし別の観点からみると、全く逆のことも言うことができます。

例えば政治学者のウィル・キムリッカは、「市民性」という名の、私たちが日常生活全般において要求される、たとえ最小限の徳性しか具えていない市民といえども身につけなければならない「徳」の存在を指摘して、(市民性の本来の意義を強調しながら)次のように述べています。

 

たしかに、リベラルな社会において市民性という道徳的義務は「良い作法」という美的な構想と混同されることもある。たとえば、市民性への期待は、激しい抗議のやり方―抑圧された集団にとっては自らの声に耳を傾けさせるために必要なものであるかもしれない―を挫くために用いられることもある。不利益を被っている集団が「派手にやる」ことはしばしば「趣味が悪い」と見なされる。良い作法にたいするこの種のおおげさな強調は、奴隷根性(servility)を促進するのに用いられうる。しかし真の市民性というものは、どんなにひどい扱いを受けていたとしても他者に微笑みかけるーあたかも被抑圧集団は抑圧者に対して行儀よくするのが当たり前であるかのようにー、というようなことを意味しているのではない。そうではなく、他者が自分に同等の承認を与える条件の下で他者を対等者として処遇する、ということを意味しているのである。*1

 

*1:W・キムリッカ 2005年『新版 現代政治理論』p439 日本経済評論社

インターネットは世論の力と継続性を弱めるか

 

新聞、テレビ等、既存のマスメディアの信頼性が年々下がっているようです。

 

www.buzzfeed.com

 

上の記事の池上さんも指摘しているように、すべての個人が参加できるインターネットの発展によって、マスメディアの報道が広く批評の対象となり、またそれを共有できるプラットフォームが出来上がったことが、このトレンドの一つの要因であるように僕も思います。

権威をもつ大メディアの報道が、無数の目によってリアルタイムに批評の対象となる。このこと自体は情報の信頼性を吟味する上でも、あるいは、様々な角度からの意見を摂取するという意味でも、インターネットが初めてその可能性を(これまでにない規模で)開いた事象であって、メディアから情報を受け取る側の私たち市民にとっては、プラスの出来事であるでしょう。

既存のメディアの報道に限らず、インターネットの発展は、公開されたすべての意見や表現を対象化し、それらに対して同意、共感、賛成、反対、あるいは罵詈雑言を述べる場を、私たちに提供しました。

そしてこのテクノロジーが画期的なのは、この対象化の連鎖を、参加者にその気があれば延々と続けさせることを可能にしたという点にあります。

たとえば「はてなブックマーク」というサービスは、ネットに公開されたあらゆる情報を自分たちの庭に持ち込み、批評の対象にしてしまう恐ろしいプラットフォームですが、そうした批評も、コメントに対しスターをつけるシステムによってすぐに対象化されます。さらに個別の意見だけではなく、実際には記事に集まったブックマーク全体すらも、まるごと批評のターゲットになる危険性にさらされているのです(いわゆる「メタブ」)。

 

このようなインターネットが可能にした対象化の無限の連鎖は、冒頭の記事で引用したように、まず既存のマスメディアの信頼性の低下を引き起こすでしょう。

そして次に起こると考えられるのは、Twitterなど、個人からの情報発信や意見や主張が、既存のメディアのそれよりも相対的に共感や同意を得られやすくなる、という事態です。

ちなみに、ここでいう「個人」からの情報発信とは、当該人物が既存のメディアには所属しておらず、また、自らのいる組織や団体、その他様々な属性を公にしないか、あるいは公にしていてもそれが発言とは直接関係していないか、関係しているとしても代表しているとは思わせないような、あくまで個人の体験、視点からの主張や意見、というような特徴を持ちます。

なぜこういうことが起こるのか、 例えば次の記事をもとに考えてみます。

 

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今ネットで大きく主張されている絶滅が危惧されるウナギを消費することへの反対論ですが、そのような風潮の中でbuzzfeedがこのような記事をアップしたため軽い炎上が起きました。

新興ネットメディアの中では比較的評判の高かったbuzzfeedだけにショックは大きかったようで、記者本人だけでなく、buzzfeedという組織それ自体にも批判の目が向けられています。

buzzfeedというネットメディアが存続する限りは、一度このような記事を掲載したという事実からは逃れることはできません。したがってこの件を批判的に受け取った読者や、この炎上を知ったネットユーザーがこれからbuzzfeedが掲載する記事を読む態度は変わっていきます。

僕が注目するのはまさにこの点です。

こうしたことは、組織が存在し、その名のもと情報発信をする以上、否が応でも蓄積していきます。

これは、炎上を起こすような記事を載せなければいいという単純な話ではなく、全員の意見が一致する言論がない以上、無数の批評の目にさらされ、そこで生まれた不満を共有する場が存在する限りは、防げるものではありません。

したがって、ネット時代において、組織化され、巨大な情報発信力をもち、継続的に多数の目から批評の対象にされる既存のマスメディアをはじめとした、継続的な団体や組織の信頼性は、不可避的に低下していくと同時に、彼等の発する情報は、その共感力や、世論を喚起する力も失っていくと考えられるのです

もちろん、Twitter、あるいははてなブックマークにおいても、個別のある発言が炎上したり、フォロワー数が多いアカウントために継続的な批評の目にさらされている場合は、信頼を徐々に落とす、ということはありえます。

しかし、こうしたことは、個人の情報発信が相対的に高い信頼性や共感性を持つようになる、という全体の傾向を止めるものではありません。

なぜなら、そこで落ちた信頼性とは、Aという特定のアカウントに対してのものであって、ネットに存在する無数の個やつぶやきに対するそれではないからです。

ネットでは日々、大量の意見や主張が無数のアカウントから生産されており、だれか知らない個人が発した情報が、強く共感され、拡散されていくという事象そのものは、これからも続いていきます。

したがって、漠然とした個に対する信頼性や共感性は、失われないのです。

このことは、インターネットのプラットフォームとしての信頼性が低いことにかかわりなく起こり、互いに矛盾することではありません。ネットの個人は、新聞やテレビとは異なり、ネットという特定の組織の看板を背負っているわけではなく、日々情報を見、発信する場がネットであるというにすぎません。そして、そこで私たちは、一つの共通する言語空間に参加している内集団であり、そこでの意見の多様性を知っています。そのため、プラットフォーム全体に対する信頼性の低さと、そこでの個々のつぶやきに対する信頼と強烈な共感は、成立するのです。

 

さて、このような流れは結局、私たちをどのような方向へ導いていくのでしょうか。

肩書や属性、発信者の権威によらない、あくまで発信された意見や主張そのものが評価される世界でしょうか。ある意味ではそれは実際に進行しているものだと思われます。そして、そのこと自体は、僕はよいことだと思います。

次に起こると思われるのは、ーここからが記事のテーマですー世論の風向きで変わるはずだったものが、変わらない、あるいは、そこまで世論が力を持たなくなる、というような現象です。

これはどういうことでしょうか。

それは、既存のメディアがその影響力を失う中で、個人的なつぶやきから生まれた共感や人々の一体感や世論の高まりが、その目的のもと組織化され、固定した属性を持つ、なんらかの継続的な団体や運動となったまさにその瞬間から、しぼんでいってしまう、という事態です。

とういうのも、そうした個人のつぶやきは、人格を持った継続的ななにかに形を変えると同時に、ネットの対象化の連鎖に巻き込まれると考えられるからです。

これは、2年後ほど前の、「保育園落ちた日本死ね」に端を発した一連の出来事でも観察することができます。

 

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しがらみのない孤立した個人が、例えばTwitterなどであれば共通の話題をハッシュタグなどでつぶやき、それをリツイートして盛り上がっている内は、あるいははてなブックマークであれば、ほとんど誰もがそれと認めるような政治家の失言や、国の制度の不備を紹介した記事に、批判するコメントをしてスターをつけあっている内は、共感や一体感は最高潮に達しています。

しかしそれは、実際に何かを変えるために継続的、組織的化なものとなった瞬間に冷めた目線でみられることが多くなります。

誰かのなにげないつぶやきや匿名による投稿が、ネットの力で共有、拡散されることで草の根から盛り上がった世論が、それが現状を変化させる力を持つというそのときに、そのためのプロセス(組織化・継続化)が原因で、逆説的に力を失ってしまう(しかもネットによって)。*1

例えば最近でいえば、うなぎ、学校のエアコン、五輪、労働問題など、ネットで盛り上がっていて、かつ現状に対して不満の多いと思われる問題は山ほどありますが、それらがデモや署名、実際に政治家への働きかけや団体の設立などへと発展したとき、それまでの賛同や共感は、果たしてどこまで持続するのでしょうか。

もし今回、ここで僕が述べたようなことが本当にあるのだとしたら、こうした隘路から抜け出すことは非常に難しいと、僕は思います。

 

 

 

*1:おそらくこれには、(対象化の連鎖という恐怖から)おそらくネットその一翼を担っているであろうと思われる、何らかの組織や運動に加わることへの忌避感も拍車をかけています。

憎悪と恐怖の世界

 

この前の金曜日、僕が働く職場の上司(30代)が、業務時間中に、近隣諸国の国民全体ををひどく差別するような発言をしました。

これまでも、その人物はその種の発言(すべてが現在インターネットで流布しているもの)を何度も繰り返してきましたが、今回のそれは、あまりに度が過ぎていたため(少なくとも僕はそう感じた)、僕は驚きと悲しみでよくわからない気持ちになりながら、自分の経験から、こういう考えもあるんじゃないかというようなことを口から絞り出し、その会話は終わりました。

その後の業務終了後は、いつものように他愛もない話題で談笑して、別れ、帰宅しました。

ところで、僕の職種は、一般的にほかの多くの職種よりも、高い倫理観を持つべき、とされていて、そのような目で世間からも見られています。また、現在の僕の職場は職員の人数はとても少ないですが、冒頭の上司以外にも、このような発言をする人物が複数います。いずれの人たちも、家庭を持っていて、職務に対しても真面目で、2年目の僕に対しての接し方もいたって普通です。

ところが、彼らがときおり話す内容には、耳を疑うようなものがいくつもあります。「今日はいい天気ですね」くらいの感覚で発せられるそれらの言葉はどれも、僕に向けられたものではありません。しかしそういった発言が飛び出すたび、僕はどうしていいかわからなくなります。

うんうんと相槌をうって同意することは、僕にはできません。でもだからといって、発言に対してはっきりと異を唱えるも、業務上、まだまだ教えを請わなければならない立場である自分と、相手とのこれからを考えれば、それもできません。

 

「社会」に出るってこういうことなのでしょうか?

昔から、このような発言は職場でもどこでも、「社会人の世界」では見られるものだったのでしょうか?

生まれてからこれまで、普段の会話では聞くことのなかった種の差別、憎悪にまみれた発言を、社会人として、働き始めてからたくさん聞いてきました。

僕は以前このブログで、インターネットは「リアル」の社会に対し、「舞台裏」としての機能を担っていて、そこでは「表舞台」では言えない「本音」ーこれには差別的な考えも含まれるーが書き込まれていて、その意味で「本音の領域」である、というような考えを書きました。

その記事では、僕は職場を「表舞台」の例として挙げています。ところが最近の職場の人たちの発言を聞くたびに、それは間違っていたのではないかという思いが強くなります。

記事を書いた当時、僕は大学生でしたが、そのとき表舞台では言えない本音だと考えていた様々な言葉を、職場で、何度も聞いてきたからです。

 

哲学者のラッセルは、彼がケンブリッジ大学に入ったとき、知性や明晰な思考が評価される世界に自分が置かれていると気づき、感動を覚えたと語っています。

僕は職場が、必ずしもそのような場所でなければならないとは考えません。でも働く前は、そういう方向とは別に、高い倫理観と、責任感と、公平な視点をもって全体のために仕事に取り組む、そういう姿勢がよいとされるこの仕事を、自分もこれから携わるということに、一種の期待のようなものを感じていました。

この期待は、ある面ではかなえられています。職務に対しての姿勢や、後輩に対しての指導、あるいは仕事上の「客」への対応は、彼らにも、尊敬する部分が多くあるからです。

でも、根本のところで、おかしいのです。

僕が彼らの意図する攻撃の対象ではないことを当然視して、彼らはこれからも、差別と憎悪のにまみれた話題をぼくに振ってくるでしょう。

他集団に向けられる彼らの残酷さ、それを知ってしまった僕は、本当ならもう彼らと一緒に仕事をしたくはありません。でも、僕はこのことで、仕事を辞めたいと考えるほど悩んでいるわけでも、正直ないのです。率直に言うならそれは、現状、僕自身にこれらの発言の矛先が向けられてはいないからです。

もちろん、僕のような態度は、状況を悪化させるだけであるとは、僕自身もわかっています。

でも、世の中全体が、そうした発言を許容する雰囲気になっているのならば、つまり、職場が表舞台ではなく、実は本音の領域である裏舞台だったなどということではなく、実際のところ、あの種の考えが、もはや隠すべきものとしてみられなくなっているのだとすれば、あのような会話に遭遇した一人の人間に、できることはほとんどないようにも感じてしまうのです。

下記に続くナチ時代を過ごした言語学者の告白が、最近、僕の頭の片隅に常にあります。

 

「気がついてみると、自分の住んでいる世界はー自分の国と自分の国民はーかつて自分が生れた世界とは似ても似つかぬものとなっている。いろいろな形はそっくりそのままあるんです。家々も、店も、仕事も、食事の時間も、訪問客も、音楽会も、映画も、休日も…。けれども、精神はすっかり変っている。にもかかわらず精神をかたちと同視する誤りを生涯ずっと続けてきているから、それには気付かない。いまや自分の住んでいるのは憎悪と恐怖の世界だ。しかも憎悪し恐怖する国民は、自分では憎悪し恐怖していることさえ知らないのです。誰も彼もが変って行く場合には誰も変っていないのです」*1

 

 

*1:丸山眞男「現代における人間と政治」杉田敦編 2010『丸山眞男コレクション』平凡社ライブラリー p.405 ミルトン・メイヤー『彼等は自由だと思っていた』より

ある種の寄付の呼びかけに対する違和感

 

「あの時○○人は私たちにたくさんの寄付をしてくれた。だから今度は私たち××人が、その恩返しをする番だ」

このような言説を、(特定の)諸外国で災害が起きた際に見聞きしたこと、みなさんはあるでしょうか。

この種の寄付の呼びかけには、時に「義務」を迫るようなものも存在しますが、僕はそういったものを見聞きするたびに、いつもどこか心にひっかかるものがありました。が、それがなぜなのかはよくわかりませんでした。

ところが最近この違和感は、僕の中の「道徳的個人主義」からくるものだと気づき少し納得したというか、自分の価値観の、ひとつの方向性を発見して、少し驚いています。

 

以下にこのような言説に対する、道徳的個人主義の観点から見た違和感を、いくつか挙げてみたいと思います。

なお、今回の記述は、だから上記のような寄付の呼び掛けはやめるべきだ、と主張するものでも、また、そうした結論を導くものでもないないということを、はじめに断っておきます。

さらに、最終的な寄付の多寡を重視する結果主義、功利主義を視野にいれたものでもないことも同時に断っておきます(もちろん、これらの原理からの批判は可能だとは思いますが…)

では、いくつか挙げてみます。

 

1.その寄付は○○人として行われたのか

まず一つ目は、これです。 外国で起きた災害に対して寄付するという行為は、寄付する側の国籍という社会的アイデンティティが、直接的に作用した結果なのでしょうか?寄付した人間は、自らの国籍を念頭において、○○人という属性を根拠として、○○人として寄付を決断したのでしょうか?

同じく例えば国内で災害が起きた際、それに寄付する国民は多いと思われますが、それは国籍を意識した結果、「同じ国民だから」という理由でなされるものなのでしょうか。

むしろ、国籍という条件が「結果的」にもたらす、社会的、心理的、地理的距離、または実際に被害にあっている家族、親類がいるという事実、あるいはその災害に関する情報の膨大さ、そして寄付の窓口の多さ、しやすさが影響しているのではないでしょうか。

これは、中東におけるテロと、欧米先進国でのテロに対しての、人々の関心度の違いを生む構造と少し似ています。

人が自分以外の人々の苦難に心を痛め、その悲しみを共感できるのかは、国籍そのものというよりも、国籍やその他の諸条件が結果的にもたらす、上記のような要因によって、自己とその集団の近接性が本人にとってどう感じられるかにかかっています。

寄付という行為は、そのような意味で感情的なものです。したがって寄付する際、「○○人として」、というある種の義務論的な要素は多くの場合入ってきません。そのような属性は、結果的に寄付という行為を生じさせるかもしれませんが、その作用は上記のように、間接的なものにとどまるように思われるのです。

したがって個人的には、外国からの寄付を国籍で括り、それを「恩返し」の根拠として持ち出すのは、寄付した人々を単純化する、寄付を受けとる側の理屈だと感じます。

 

 2.その寄付は××人として受け取ったのか

1.と同じ理由で、この疑問も生まれます。その寄付は、○○人が、災害が起き、困難な状況にあるのが××人であるということを直接の根拠として、行ったものなのでしょうか?

そして寄付を受け取る側は、災害に苦しむ人としてではなく、××人として、それを受け取るのでしょうか。

1.の議論からすると、このような考えも同様にしっくりこないような感じがします。

 

 3.××人として寄付の恩返しする義務はあるのか

1.2.の議論から必然的に導かれるのが、この疑問です。○○人が、自らの国籍と、災害の起きたのが××という国であるということを直接の根拠として寄付をしたのでなければ、××人の方も、××人として恩返しする義務はないということになります。

そもそも寄付という行為の考え方からすると、義務的な寄付の呼びかけは少しずれているような感じがするのですが、社会における「返報性」(『影響力の武器』参照)の原理からすると、過去に受け取った寄付に対しての義務論的な考え方は多くの人が持っているものだと思われます(僕も持っています)。

しかしそれでも、これまでの議論から考えると、たまたま○○人が多くの寄付をしたからといって、寄付を受けた被災者の住む××という国の××人全員が、その国籍を根拠として、○○人という抽象的な属性に対して、「恩返し」という義務を背負うわけではありません。

返報性の原理からの、このような国籍という属性でくくるような寄付の呼びかけには、間に大きな飛躍があるように思われるのです。

 

 4.○○人以外の国はどうなるのか

結果主義的な話は視野に入れないと最初に断っておいてあれですが、この種の寄付の呼びかけと、それに伴う寄付の考え方がもたらすと思われることを一つだけ書いておきます。

それは、○○人以外、それも例えば貧困国の人々はどうなるのか、という問題です。

というのも、このような寄付の呼びかけには、多くの場合、過去の災害時の○○人からの寄付金の具体的な額が、恩返しという義務の発生要因として使われているからです。

この論理によって寄付が行われるとするならば、そもそも多くの寄付ができない経済的に苦しい人々が多く住む国やそこに住む人々は、いつまでたっても手厚い「恩返し」が期待できないということになります。

しかし実際には、一番寄付を必要としているのは、そのような国の人々なのです。

もちろん、こうした論理で寄付が行われていなくとも、寄付が近接性という感情的な要因で行われているとするならば、この種の問題は生じえます。

しかし、寄付金の多寡を国籍という属性で括り、そして同時にその属性によって受け取るならば、このような隘路から抜け出すことは非常に困難であると思われるのです。