ペンギンの飛び方

本を読んだりニュースを見たりして考えたことを、自由に書いていきたいと思います。

「駆け引き報道」と「抱負報道」

 

前回の記事では、僕は報道における「アクター中心主義」という概念を提起しました。

「アクター中心主義」とは、「対象の『人物』が現在、何を言ったのか、しているのかについてを中心に報道(ニュース)番組を構成すること」を意味し、換言すれば、「ニュースの焦点が「人物」から離れない」という点にその特徴があります。

この種の報道形態は、その内容が「誰が何をした、言った」から先へ進まず、人物から離れた言動それ自体の検証(例えば発言の真偽性や過去のそれとの整合性の検証)をしなかった場合に、問題となります(この問題が実際に起きてしまっているものを、特に「アクター中心主義」と呼ぶ、と前回の記事で僕は述べました)。

以下では、この報道における「アクター中心主義」が、実際に(悪い意味で)表出した例を、「駆け引き報道」「抱負報道」という2つの区分を元に示したいと思います。

(なお、今回の記事も含めこの「アクター中心主義」とは、報道の中でも特に政治に関するそれを念頭に置いたものです)

 

「駆け引き報道」

この報道形態は、一つのニュースの結末を、全て集団間の対立や攻防、つまり「駆け引き」に収斂させてしまうことにその特徴があります。

これは、「アクター中心主義」報道の根幹、「ニュースの焦点が『人物』から離れない」、を突き詰めていけば必然的に起こるものであると僕は考えていますが、以下に最近の例を示したいと思います。

ここ数ヶ月ニュース番組をにぎわせている「共謀罪(改正組織犯罪処罰法)」ですが、6月14日、与党はいわゆる「中間報告」という手法に打って出、15日の朝に当法案は可決成立しました。

いまだ国会での与野党の「駆け引き」が続いていた14日夜のあるニュース番組では、政治部記者を招き入れ、番組冒頭から約20分間、共謀罪に関して報道・解説していました。

僕はその番組を見ていて、不思議な感覚に包まれました。

共謀罪が、いつまで経っても議論の対象にならないのです。

番組の開始15分まで、記者やキャスターが熱心に語っていたのは、「中間報告」の意味と、その手法を与党がとった思惑、そしてそれに対する野党の反応でした。

彼らは、共謀罪そのものを論じるのではなく、共謀罪の採決を巡ってのアクターの「駆け引き」を長い時間をかけて「解説」していたのです。

そして残りの5分間は、共謀罪の争点を与野党など主要なアクターの主張を交互に紹介し、共謀罪のコーナーは終わりました(もちろん、その主張に対する「検証」などはありませんでした)。

今回のような重要な法案が、今まさに採決されるという段になって、このような「駆け引き」に焦点を当てるというのは僕は問題であると思います。

それは、報道から「法案とはどういったものなのか」という情報が欠落することで、視聴者の間で法案への理解が深まらないから、という理由だけではありません。

前回の記事でも述べましたが、法案をそのものが、国民には関係のない「政治ゲーム」(政局)の一要素としてしか見られないという傾向を助長するものであると考えられるからです(これは、政治不信とか政治的無関心が広がっていると言われて久しい現在においては、より切実です)。

「(与野党の)攻防が続いています」あるいは、「駆け引きが続いています」 で終わるニュースは多いですが、こういった報道には多くの問題があるように僕は思います。

 

「抱負報道」

前回の記事では、 僕は「対象となった人物が公共性の高い立場にいるとすれば、その人物の言動は自然とニュース性を帯びる」と述べましたが、その性質上、他より高いニュース性を持つと考えられるのが、アクターの発する「抱負」です。

「アクター中心主義」の特徴の一つ、というより特別にそのように呼ばれる条件として、「『誰が何をした、言った』から先へ進まず、人物から離れた言動それ自体の検証(例えば発言の真偽性や過去のそれとの整合性の検証)をしない」というものがありました。

したがって「アクター中心主義」が染み付いた報道においては、アクターが高らかに主張する抱負も検証されることがありません。

つまり、抱負に対しての現状はどうであるとか、過去の抱負を受け、実際それは達成されたのかなどが報道されることがないのです。換言すれば、「言いっぱなし」になるのです。

例を挙げます。

毎日のように宿題を忘れる(というよりやってない)小学生がいたとします。頭を悩ませる先生に、その小学生は毎回次のように言います。

「これからも、義務教育を受ける者としての務めを果たすべく、しっかりと宿題を提出していきたい」

明らかにこれは虚偽です。抱負と実際が伴っていないからです。ところが「アクター中心主義」報道では、アクターの言動の検証をしないので、抱負と矛盾する「毎日のように宿題を忘れる」という事実が掘り起こされることはありません。

したがって、この小学生の例は次のように報道されます。

 

小学生Aは、学生生活の中でも重要な要素の一つといわれる宿題提出について次のように述べました・・・。

これからも、義務教育を受ける者としての務めを果たすべく、しっかりと宿題を提出していきたい

小学生Aは、このように述べ、かねてからのスローガン「お手本となる小学生に」を目指すべく、最大限努力する方針です・・・。

 

 これに上述した「駆け引き報道」が組み合わさると、次のように報道は続きます。

 

これに対し先生Bは、「A君は十分に宿題を提出していない」と反発し、小学生と先生の駆け引きは続いています・・・。

次のニュースです。

 

報道する側は、その気になれば独自に、A君が宿題を全くやっていないという事実を明らかにすることが出来ます。 

しかし「アクター中心主義」の報道において、それはなされません。抱負は検証されずいいっ放し、つまり「抱負報道」となり、よくて「駆け引き報道」へと収斂していきます。

おそらくこのような状況では、意図的に抱負を連発するアクターが登場するでしょう。現状や実際がどうあれ、ひたすら未来に向けたきれいなメッセージを宣言するのです。

メディアはそれをニュースとして扱ってくれますし、内容の検証もしないのでアクターにとっては効果的なメディア戦略となるわけです。

さらに言えば、現実はこの小学生の宿題の例のように、わかりやすく白黒つくことばかりではありません。

例えば「丁寧に真摯に説明していく」という発言に対しての反発は、「あなたは丁寧に真摯に説明していない」ということにしかならず、このやり取りの真偽をはかるためには、実際に映像を使って検証するしかないのです(話し合いの場そのものを拒否することもありますが、その場合はその事実をかつての抱負と共に取り上げることで検証は可能です)。