ペンギンの飛び方

本を読んだりニュースを見たりして考えたことを、自由に書いていきたいと思います。

報道における「アクター中心主義」

 

現在、環境が変わり日常的にテレビのニュースを見ることができる状態にあります。そこで自分が気になったある報道の形態を、ここで備忘録的に書いておきたいと思います。

その報道形態というのが、タイトルにある「アクター中心主義」です。僕はメディア関係に詳しくないのでこのような概念がメディア論にすでにあるのかどうかはわかりませんが、ここではこれを、「対象の『人物』が現在、何を言ったのか、しているのかについてを中心に報道(ニュース)番組を構成すること」と定義したいと思います。

対象となった人物が公共性の高い立場にいるとすれば、その人物の言動は自然とニュース性を帯びることになります。したがって、ニュース番組は「誰が何をした」「何を言った」という情報が多くなる傾向にあります。

したがって僕自身、人物の言動に注目が集まることそのものについては、自然な現象であると考えていますし、今回問題にするのもその点ではありません。

この種の報道が問題となるのは、報道の内容が「誰が何をした、言った」から先へ進まず、人物から離れた言動それ自体の検証(例えば発言の真偽性や過去のそれとの整合性の検証)をしなかった場合です。

タイトルにある「アクター中心主義」とは、このような問題が実際に起きてしまっている報道について指したものであり、僕が最近テレビのニュース番組を見ていて感じたのも、この報道形態だったのです。

 

ところで、この「アクター中心主義」は、言い方を変えればニュースの焦点が「人物」から離れない、という点でも特徴付けられます。

このような傾向のある報道においては、次のような問題が生じます。

例えば現在、国の行く末を左右する法案Xが国会の審議にかけられているとします。与党Aはこの法案が国家の将来のためになるとして、法案の可決を目指しています。一方、野党Bはこの法案Xに多数の不備があるとして、可決を阻止しようとしています。

さて、このような場合、「アクター中心主義」的報道はこの法案Xを巡り、何をニュースとして報じるのでしょうか。

簡潔に言えば、「アクター中心主義」は、その報道において法案Xそれ自体を対象とすることはありません。つまり、法案Xは焦点にはなりません。

重要法案Xは常に、「(A党の)首相がその有効性を述べた」とか、「B党の○○議員は法案には危険性があると主張した」 などのように、ある「人物」がそれについて何を言ったのかという形でニュースに登場することになります。

つまり、この法案はニュース番組において、人物の発言の中にしか出てきません。公共性の高い政治家というアクターの発言に媒介され、初めてニュース性を獲得するのです。

このような報道にあっては、法案Xの理解が視聴者の間に深まることは非常に困難であると思われます。

それは、番組が法案Xを対象に法案そのものの検証を独自にしないから、と言う理由だけではありません。法案Xを巡るやり取りが、国民には関係のない政治ゲームの一コマとしてしか見られないという傾向を助長するものであると考えられるからです(これは、政治不信とか政治的無関心が広がっていると言われて久しい現在においては、より切実です)。

 

おそらく、池上彰さん司会の「解説番組」は、このような「アクター中心主義」の中で、「そもそも法案Xとは何なのか?」というような疑問や、「法案Xについて知りたい」などのニーズが人々の間で高まった結果、登場したものだと思われます。

しかし、池上さんの番組は毎日やっているものではありませんし、他の解説番組も深夜の短い時間に放送されるという状況にとどまっています。

スポットニュースのようなストレートニュースでは時間の都合上、 ニュースがアクター中心で構成されることは避けられないでしょうし、そもそも複数のニュースを手短にかつ簡潔に伝えることが目的です。したがってやはりこのような解説や検証は、まとまった時間の取れるニュース番組の中で行われるべきだと思います。

もちろん、このような役割を担うのはテレビだけではありません。むしろ、新聞や書籍の方がメディアとしての形態的には、より対象についての解説や検証には向いていると思われます(し、実際にそのような記事は多いです)。

ところが、昨今これらのメディアは力を失っていますし、そもそも仕事で疲れた体で何かをゆっくり読む、というのは非常に骨の折れる作業だと思います(僕自身もそうです)。

最近になってアクター中心主義が強まっている、ということは正直僕には判断できません。テレビというメディアは昔からこうだったという意見もあるかもしれません。

しかしやはりテレビといえども報道では、人物から離れた対象もニュースとしてもっと積極的に取り扱うべきなのではないか、と僕は考えています。