ノルベルト・エリアスと「互助会ブコメ」
ここ1年ほど、ブログ間でブックマークを付け合ういわゆる「互助会」という組織?が話題になっていますね。
調べたところどうやらこの「互助会」は、より多くのPV数、あるいはそこから派生するブログ収入を稼ぐために、お互いにブックマークを融通しあってホットエントリーに互いのブログを乗せることを活動の目的としているそうです。
さらにここ数日、互助会ともくされているらしいブログが炎上したらしく、新たに「なぜ互助会のブコメは賛同しかないのか、内容に批判点があるなら諌めるべきではないか」という話題が持ち上がっています。
僕自身、互助会の是非やそのあり方等の話題についてはさして興味は無かったのですが、この「なぜ互助会のブコメは賛同しかしないのか」という議論についてはかなり大きな興味を持ちました。
なぜなら当疑問に、以前このブログで「インターネットにおける言葉の暴力」について考えたときに扱った、社会学者ノルベルト・エリアスのある議論が当てはまるかもしれないと感じたからです。
ある議論とは、過去から現在にかけて、暴力の減少や人間の振る舞いが洗練された要因とは何であるのか、という議論です。
よって今回は、そのエリアスの議論の中でも中心となる「相互依存の編み合わせ」というワードから、「互助会ブコメ」について考えていきたいと思います。
まず「相互依存の編み合わせ」の言葉の意味について説明します。過去記事を見ていただければ分かるのですが、エリアスは、人類の歴史において暴力が減少し人間ひとりひとりが自身の情感を抑制し、振る舞いを洗練させていった要因をいくつかのタームを使って解明しています。
「相互依存の編み合わせ」とはその中のひとつで、強力な中央権力による暴力の独占に生まれた暴力の空白地帯で可能となった、契約(これには貨幣経済の発達も関わる)や分業化によって生ずる人間ひとりひとりの「相互に依存する」関係構造をさしています。
エリアスはこの相互依存の編み合わせが、中世から近代にかけて国家の誕生などと伴って複雑化したことが、人類の暴力の減少や情感の抑制につながった要因のひとつであるとしています。
以前「インターネットにおける言葉の暴力」について論じたとき、僕はインターネットが「リアル」よりも言葉の暴力であふれ、過激な言葉が多いのは、この「相互依存の編み合わせ」がネットに存在しないからではないか(そしてそこでの発言が現実の編み合わせに影響しないから)、と考えました。
そして今回の件、僕は話題の発端となったブログのホットエントリ入りの原動力となったいくつかのブコメを改めて見直してみました。
率直に、これらのブコメ(の内容)は、どうもネットではなく「現実の人間関係」の中においてなされたものに近い感じがしました。
まるで突然センシティブな政治の話題を上司から振られ、何とかその場をごまかそうとする部下のような反応でした。
そこで僕は、もしかするとネットの中ではあっても、彼らの間には例外的に「相互依存の編み合わせ」が存在しているのではないかと思ったのです。
そして同時に、いわゆる「互助会」が「相互依存の編み合わせ」そのものなのではないかという考えが浮かんできました。
彼らは互いにPV数やブログ収入のためのブックマークの融通をしていると言う点で、相互に依存関係にあります。
この依存関係は、PCの電源を落とせば消えてなくなるようなものではなく、(ブログを続けてさえいれば)持続性があり、結果的に金銭的な「現実の利益」を生むと言う点では「リアル」と高度にリンクした関係であるともいえます。
そのような関係の中で、ブログの内容を批判することは、ブックマークの融通という本来の組織の目的からは逸脱したもので、そもそも必要なものではありません。
それどころか、これからも続いていくであろう「編み合わせ」にいらぬ傷をつけてしまう可能性だってあるわけです。
例えば今回の炎上したブログ、この記事を書く上で改めて僕が詳しく見たのはいわゆる歴史認識問題にかかわることでしたが、最初のいくつかのブコメは一見筆者の記事での主張に賛同しているかのように見えます。
しかしよく見ると、これらのブコメは記事の中での主張について自分がどう思うか、反対は勿論ですが、実は明確な賛成もしていないのです。
最も賛同しているかのように見えるブコメも、結局自分以外のところにその論拠を投げてしまっています。
これは実に不思議です。なぜならゲームや趣味に関しての個人の感想のような記事ではなく、歴史上の事件についてAかBかについて主張している、意見がはっきりと分かれやすい話題であったからです。
これらの微妙な反応の真意は、上でも少し触れたように、この主張が例えば突然会社の上司や商談相手からなされたものであったとき自分ならどうするかと考えると分かりやすいと思います。
このような状況では、たとえブコメで明確に反対意見を述べた人であっても、ブコメと同じようにはっきりと主張できる人は少ないのではないのでしょうか。
なぜなら、彼らと自分にはその先も続いていくであろう「編み合わせ」があるからです。そしてその編み合わせは、自分の「リアル」と密接に関係しています。
これらのブコメも同じです。自分は良く知らない、すんなり首を縦にふれない主張でも、まず相手とのこれからの関係を考える必要があります。
したがってそれとなく記事に賛同しつつ、かつ内容には深く立ち入らないようなコメント(内容に深く立ち入るのも、またいらぬリスクを生みます)をするのは、本来の目的を果たし、さらに編み合わせを守る上で非常に重要なことであるといえるわけです。
ただ、あまりに編み合わせの強固な関係、例えば家族であれば、自分と異なる主張に対して、逆にはっきり自分の意見を言う、あるいは言わなければならないこともあるように思えます。
なぜなら関係の密接さのあまり、センシティブな話題での意見の相違は当人たちの日常生活に実害が及ぶ可能性があり、そして簡単に関係を断ち切れるわけでもないので、それを解消する、少なくとも意見を交換し合うことにはメリットがあるからです。
これは、家族の(普通想像される程度の)信頼関係があれば、それなりに可能です。
その点、ブックマークを付け合う程度の依存関係において、そのような意見の相違はまるで問題にはなりません。
なぜなら彼らの「契約関係」の中で唯一最も重大なことは、ブックマークを付け合うことであって、当初から記事の内容を読み、それについて自身の意見を述べ、筆者とコミュニケーションをすることは主たる目的ではないからです。*1
あくまで「属人的ブックマーク」であり、記事に書かれていることは大きな問題ではないのです。
したがって契約相手の記事内容について自分の考えと異なる箇所があってもそれは無視され、仮に炎上の危険性があった場合はブコメをしないという選択肢がとられます。
これはある意味では「契約違反」にあたりますが、それでもわざわざ反対意見を述べるよりは今後の関係に傷が付かないという当事者の判断でしょう。*2
よって結局、普段相互にブックマークを付け合う(ことを主とした)関係においてなされるコメントは、どんな記事の内容でも必然的に当たり障りのない、それでいてふわっとした賛同を示すようなものとなる傾向にあるのです。
この構造の中で生まれる(自身の意見の主張による)炎上は、一時期話題となった犯罪・迷惑行為の画像のツイッターへの投稿によって生じたそれなどとは成り立ちが大きく異なると思われます。
ツイッターでの炎上は、その投稿者が、ツイッターのようなSNSが「自分たち」の領域と万人が存在する公共の世界が地続きで存在している、あるいはその一部であることを考えなかったために生まれたものでした。
しかし相互ブックマークによってホットエントリに上り、注目が集まった結果生じた炎上は、その発端の当事者が自分たちの領域と公共の世界の連続性を明確に意識しています。むしろ意識しているからこそ、相互にブックマークをしているわけです。
それではなぜ炎上してしまうのでしょうか。そして予期したとしてもそれを止めないのでしょうか。
やはりそれは当初の目的が違うからだと言えるでしょう。ツイッターの彼ら彼女らは、犯罪・迷惑行為の画像を投稿することを、あくまで仲間とのコミュニケーションの手段、話の種のように捉えていて、世間の注目を集め炎上することまでは望んでいません。
しかしその点、相互にブックマークしている人々は、その先にあるPVの増加やブログの知名度の上昇などを目的としています。
したがって仮に炎上したとしても、当初の目的は達成され、さらに(犯罪行為などでなければ)ツイッターのそれのように現実の編み合わせに傷を付けることは無いのです。
補記
もしかするとネットの暴力性と相手に自分の意見をはっきりと言えることは表裏一体の関係にあると言えるのかもしれません。
つまりネットにおいては、「編み合わせ」がなく相互に依存していない赤の他人だからこそ、簡単に暴力的な言葉を吐き出すことが出来る一方で、全く同じ理由によって、異なる主張に対して自分の意見をはっきりぶつけることが出来ている(よって議論が熱くなりやすい)のではないでしょうか。
その点、本来編み合わせの無いはずのネットに、軽めの(それでいて金銭的なものが関わる)相互依存関係が持ち込まれる事は比較的新しい事態であるのかもしれません。