ペンギンの飛び方

本を読んだりニュースを見たりして考えたことを、自由に書いていきたいと思います。

保育園の騒音問題と米軍基地問題

こんにちはhuman921です。

今回は下記事とそれについたコメントを読み、考えたことを少し書きたいと思います。

 

mainichi.jp

 

普段のこのブログであれば、昔は保育園の騒音は問題にならなかったのか、そうであるならばなぜ今は問題となるのかという疑問についてその背景を考えたいところなのですが、今回はそれよりも気になる点があったので、それについて考えてみたいと思います。

 

 

ブコメでも書いた通り、もしかするとこの保育園の「騒音」問題は、沖縄の米軍基地問題と少し似ているのかもしれない、と僕は感じました。

他の方々のブコメを見ると、そこにある意見は僕の予想していたよりは分かれていたのですが、僕の目に付いたのは、「次の世代(のため)」とか、「住民は我慢するべき」といったワードでした。

僕は、市川市の住民でもないですし、保育園のそばに住んだこともないので、この件に関してはいまだはっきりとした自分の考えを持つことはできません。

しかし上に挙げたような、「(公の利益のために)我慢をするべき」というような意見にはなにかもやもやとしたものを感じました。

そしてこの批判の論理を、僕は以前にも見たことがあるような気がしたのです。それというのが、沖縄県住民の米軍基地(移設)反対運動を報じるニュースに対して、それに反発する人達のコメントでした。

 

もちろんこの二つの問題には多くの相違点があります。それは僕も承知しています。

それに、少子化は大変な問題であるし、国防だっておろそかにしてはならないものです。そんなことは言われるまでもないことだと思います。

ただ、そこで発生する負担を特定の人々だけに押し付けるのは、僕は少し違和感があります。

誰かの「犠牲」がなければ成り立たないシステムというのは、果たして健全なのだろうかと僕は思うのです。

ブコメの中には、実際に保育園のそばに住んだ上で、この住民の反対に苦言を呈されている方もいるのかもしれません。

ただ、だからといって保育園の「騒音」がなくなるわけではないですし、それに対して不満を抱く人がいなくなるなるわけではないのです(今回はまだ保育園は設置されたわけはありませんが、いざ完成して、やはり音が凄まじかったでは遅いと僕は思います)。

ましてや、「お前だって子供のころは」で割り切れるものであるとも僕は思えないのです。*1

 

もしかすると日本社会はこれまで、無数の声を挙げない誰かの「犠牲」の元に成り立ってきていたのかもしれません。

子育てや雇用・労働にしても、あるいは原発にしても、その犠牲のひずみが、現在浮き彫りになっているのではないでしょうか。

確かに日本はかつてほどの経済的余裕もなければ、国際的な状況も変化しています。このような状況では、なにかしらのシステム維持の為の負担は、特定の誰と言わずこれからは国民すべてに、これまで以上にのしかかるものであるようにも思えます。

そうであるならば、保育園の騒音も、国民に課せられた負担の範疇に入るのかもしれません。

しかしそれにしたって、今回のニュースに関して、他の情報もなしに反射的に住民を批判するのはおかしいと僕は思うのです。負担を受け入れるのは、行政などが相応の方策を講じてからではないでしょうか。

逆に、社会とか日本とか次世代の為という論理で反対意見を封じ込めるロジックが簡単に用いられるこの状況は、個人的には怖くも感じます。

先日、「女性にとって最も大切なことは子どもを2人以上産むこと」と全校集会で発言した校長が話題になりました。

そのニュースのブコメは、大方校長に批判的で、「女性の価値観を勝手に決めるな」とか、「なぜ(負担が)女性限定なのか」といったものが多く見られました。

発言の是非は措いておくとしても、全文を見るに彼の発言は、基本的に少子化への危機感から発せられたものであることが分かります。

僕は、今回の件に関して「我慢しろ」という意見と、この校長の発言との間に、大きな違いを感じることが出来ないのです。

 

これからも、今回のケースのように負担の分配についての対立(今回は子育ての負担と保育園の近隣住民の負担)は多く起こると思います。

しかしここで考えなければならないのは、一般の国民同士がその負担を巡って言い争うのはどうなのかということです。

その負担を事前に公平に分配し、その前提としてまず極力軽減し、対立する国民の仲介をするのが国の役割なのではないでしょうか。

少なくとも、一方が、あるいは直接の当事者ではない人間がもう一方に罵詈雑言を浴びせる状況は、健全ではないと僕は思います。

 

 

*1:ただ、この種の反発はあまり表立って出てくることはありません(インターネットによって多少可視化されたようにも思えますが)。あくまで社会からの無言の圧力として行使されるものであるように僕は思います。だからこそ、それに対して反対しづらいのです。