「民族差別」と「容姿差別」 中
こんにちはhuman921です。
今回は前記事の続きです。
前記事において僕は、ネット上で広範に見られる朝鮮民族への差別の中に、多くの「容姿差別」が含まれていること関して疑問を持ったと書きました。(この記事への導入のためですのでできれば読んでいただけるとうれしいです。)
読む時間が無い人のために書くと、その疑問と言うのが、
- なぜ容姿差別なのか
- なぜ他の民族への差別には見られないのか の2点です。
今回はこの2点についての自分なりの解釈を試みたいと思います。
( これからの文章はかなりセンシティブな問題を取り上げており、もしかすると気分を害される方もいるかもしれないのでここで注意書きをしておきます。)
似ている民族
前記事で述べたとおり、日本人と世界中でもっとも(容姿の)形質が似ている民族のひとつである朝鮮民族を、容姿の観点から差別することは、自らの民族の自己否定に繋がりかねない「リスキーな差別」であると言わざるを得ません。
なぜこのようなリスキーな差別をしているのでしょうか?僕はその点について、理由として2つの可能性を考えました。それと言うのが、
- リスキーさを超える(心理的)効果を差別する本人にもたらすから
- そもそも容姿であることに意味があるから というものです。
1つ目の「リスキーさを超える(心理的)効果を差別する本人にもたらす」というのはそのままの意味で、リスキーであることは分かっているけれどもそれ以上に差別する本人への心理的作用が大きいと言うものです。
そして、2つ目の「そもそも容姿であることに意味がある」ですが、詳しく言えば「容姿」の前に言葉を付け加えなければなりません。
それは「似ている」です。
容姿は人種や住む環境によって、さまざまであることは周知の通りです。
もし差別する人々が、他集団への容姿への差別によって何かしらの心理的作用を得ているのなら、それは朝鮮民族以外の別の人種、別の民族でもいいわけです(差別を容認しているわけではありません)。
そのほうが自己否定に繋がる可能性は低くなります。
しかし現実にそうはなっていません。僕はネット上において彼らに対して以外の容姿差別をほとんど見ることはありません。
このことから可能性として浮上するのは、彼らは、リスキーさとは関係なしに、(差別する)日本人(民族)と容姿が「似ているからこそ」差別されているのではないかと言うことです。
僕はおそらく1つめよりも、2つめの点についてより重大な点があると考えます。
なぜなら1つ目の説では、朝鮮民族のみに容姿差別が集中している理由が説明できないからです。
よってこの記事では2つ目の「そもそも(似ている)容姿であることに意味があるから」と言う点から、疑問点への解釈をしてみたいと思います。
「影」と「投影」
さて、上記の観点から朝鮮民族への容姿差別を考えるとき、重要となるのが、スイスの心理学者カール・グスタフ・ユングの「影」と「投影」の理論です。
ここで言う「影」とは、ある人間の無意識の中に存在する「抑圧された傾向」や、(自分の持つ)自らの「認めたくない側面」のことを指しています。
そして「投影」とは、この「影」を自分ではない誰かに投影することです。
つまり、自らの認めたくない側面や傾向=影を、他者に投影し、他者(だけ)がそれ一方的にを持っているとすることで、まるで自分が持っていないということにして心の安定を図るのです。
自分の認めたくない側面や、嫌っている傾向を、自分が持っていると認めることは、非常に苦難を伴いますから、そのため投影が必要なわけです(だから普段は抑圧しています)。
そしてこの投影をすれば確かに、自己の安定は図られるのですが、それは本来自分の持つ嫌な面ですから、投影された相手への非難、攻撃は凄まじいものになる傾向があります。
これで「影」と「投影」の概論は終わりです。そしてこれをこの記事が扱う問題に引き寄せて考えて見ましょう。
文明開化と人種
話は文明開花から始まります。文明開化ではあらゆる西欧の進んだ技術、学問、政治体制のモデルが取り入れられましたが、それだけにはとどまらず西欧の文化も模倣の対象となりました。
その文化には、服装はもちろん化粧や髪型など、西欧人の容姿を形作るものも含まれていました。
その意味で、日本は、技術だけでなく、精神的な面、ここでは特に美的価値観やそれに関しての文化の面でも、「脱亜」を図ったともいえるのです。
しかし、いくら美的価値観が西欧のそれに近くなっても、(東)アジア人の人種的特徴は変えることができませんでした。
それは日露戦争に勝ち、第一次世界大戦でも戦勝国となり、列強の仲間入りができたと考えた矢先の、アメリカの排日移民法によって強く自覚されます。
当時はまだ人種的偏見は根強く、技術的に進み対等の関係になれたとしても、(主に)人種の違いと言う理由で、移民が禁止されたのです。
このようなことが起きると、日本人の間に、自らの人種的特徴を認めたくない側面(=影)であると考える空気が広まっても不思議ではありません。
はるかに一般的だったのは、日本人がアジアの「より色の黒い」国民を、物理的に遠ざけようとする傾向があったことである。...「ルポタージュ」版画の最後の10年間に生まれた錦絵の中で、日本人の戦闘員はー将校から下士官兵まで一様にー本質的に白人として描かれていた。*1
つまり、自らの人種的特徴(容姿)が影となり、そこで最も似ている民族のひとつである朝鮮民族へ投影がなされる土壌が、このとき生まれたと考えることもできるのです。
それは併合をし、多数の朝鮮民族の人々が日本に住んでいたことによって加速されます。
事実、戦前(から戦後20年ほど)の日本における朝鮮人差別は、現在のそれとは比較にならないほどひどいものでした。
現在のネット上の容姿差別は、過去の経験によってできた影と投影の再現が起きていると考えることもできるかもしれません。
・・・しかしこれでは中国人への容姿差別が少ないことを説明するのには弱すぎますし、何より現在の状況に即した説明に欠けています。
そこで次は中国人と朝鮮民族の違いに着目して、詳細に迫っていきたいと思います。
西欧的美的価値観の受容
中国と、ここではあえて韓国としますが、この2国の決定的違いはおそらく、西欧的美的価値観の受容の程度の違いだと考えています。
それは化粧品市場の規模の違いを考えても明らかだろうと思われます。
今は中国も国民が豊かになり迫ってきていますが、中国よりも韓国のほうが、より早くこの美的基準を受け入れ、服装や化粧、髪型(髪色)などをかつての日本がそうしたように西欧的に変化させていきました。
そしてその結果、韓流のアイドルや俳優は、日本の中でもブームとなりました。
僕はここに重要なポイントがあると思います。
結論を言うと、ここでの「影」は「西欧(米)の美的基準にならい、西欧(白人)的美へ近づく行為そのもの」です。
なぜならこの行為は、自らの人種的特徴とはかけ離れた基準へと近づくものであり、その意味では、自らの人種的特徴を否定する行為ともいえるからです。
生まれながらの自らの特徴を覆い隠すことは、やはり自分の認めたくない側面となりえます。
この影を、おそらく(東)アジアで最もはやく日本と同じ発展のコースを歩んできた韓国は、非常に刺激します。
ネット上の容姿差別は、その「西欧的美に近づき、自分の人種的特徴を覆い隠す」という「影」を、彼らに「投影」しているのではないでしょうか。
これが、僕が考える中国と韓国への容姿差別の程度の違いを生む現代的要因です。
僕は、差別する人は極々少数であるということはもちろん認識していますが、個人的には、この「影」自体は、実際に差別をしている以外の人も抱えている可能性があるのではないかと感じています。
なぜなら、特に戦後において、美的基準を西欧米(白人)のそれにして、近づくことはあまりに「国民的風潮」だったからです。
投影の機制は非常によく用いられるが、これが集団で行われるときは、その成員はその影を自覚することが、ますます難しくなる。集団の成員のすべてが同一方向、それも陽のあたる場所に向かっているとき、その背後にある大きい影について誰も気づかないのは当然である。*2
次回予告
申し訳ありません。本当はここで終わる予定だったのですが、書いている内にもうひとつ新しいこの問題についての解釈が浮かんできて、それもおそらくこの記事くらい文字数を使ってしまうので、それは次回にしたいと思います...
予告まで書いたのに、、、
とりあえずさようなら~
(なお、この記事はひとつの観点から問題に対しての解釈を試みただけであり、これが唯一の正解だとは僕自身も思っていませんし、皆さんもそのようには考えないようにしていただけるとありがたいです。)
ただし次回はいつ書くか未定です!
参考文献
ジョン・ダワー著「人種偏見 太平洋戦争における日米摩擦の底流」TBSブリタニカ 1987年