ネットはなぜ言葉の暴力で溢れているのか 完結編
こんにちはhuman921です。
前回はネットの暴力性の話の前に、そもそもなぜリアルは暴力に満ち溢れていないのかということを、社会学者ノルベルト・エリアスの文明化というキーワードから紐解いていきました。(前回の記事を読まないと恐らく今回の記事はちんぷんかんぷんだと思うのでぜひ読むことをお勧めします)
今回はついに本題に入りますが、この記事はあくまでもネットにおける言葉の暴力の氾濫について、ひとつの観点から解釈を試みているだけですので、これがすべて正解だとは僕自身思っていませんし、この記事を見た皆さんも、そのようには受け取らないようにしてください。
では始めます。
揺るがない中央による暴力の独占
さて、エリアスの議論をネットの暴力性に当てはめようとしたとき、「文明化」におけるキーワードの内、何がふさわしいでしょうか?
前記事で出たキーワードは大きく分けて二つありました。
「暴力の独占」と「相互依存の編み合わせ」ですね。
そこで最初に、「暴力の独占」について考えます。
実際、「暴力の独占」と「相互依存の編み合わせ」は切っても切り離せない関係にあるのですが、ここでは議論の内容上、分けて考えてみましょう。
前記事で、中央権力の暴力の独占が、あらゆる階層の人々の情感の自己抑制を強いたと説明しましたが、これによってネットの暴力性を説明できるでしょうか?
つまり、ネット空間において国家による暴力の独占は達成されていないのでしょうか?
すぐに結論を言ってしまいますがおそらくそれは無いでしょう。インターネットが一般に普及してから20年弱(厳密に言えばもっと短い)経ち、あらゆるネット犯罪が認知されるようになって来ました。
当初、ネットによる犯罪は警察のほうも立件の境界線などで迷っていたのか、そこまで具体的対策がとられることも無く、若干野放し状態のようになっていました。
しかし最近ではそのようなことも無くなり、そのような状況は改善されつつあります。
そもそもいくらネット上とは言っても、そこが日本であることは変わりないのですから、国家による、中央権力による暴力の独占という事実にはやはり揺るぎが無いわけです(だからこそ、ネット上の行為で、検挙されたり、逮捕されたりする)。
問題は、罪に問われるかと言えば現時点ではそうではない、しかし現実の社会=リアルではめったに聞くことの無いような暴言、心無い言葉がなぜネット上でこれほどまで見られるのかと言うことです。
編み合わせの空白地帯
暴力の独占が関係ないとすると、キーワードはあとひとつしかありません。それが「相互依存の編み合わせ」です。
さて、ネット上に現実世界に相当するような「相互に依存しあう」編み合わせ、互いの「生」を他人に依存する、分業化された構造は存在するでしょうか?
これもまたすぐに結論を出しますが、それはほぼないに等しいと言っていいと思われます。
たとえばオンラインショッピングなどの非常に限られた場合においては、編み合わせは存在するかもしれません。
しかしそれはネット上で独自に作られる編み合わせではなく、現実の売買などの契約関係に付随してあらわれる編み合わせでしかありません。
したがってそこでは、一般にある程度の情感抑制が働いており、ネット上においては標準を超える秩序が保たれています。
しかしそれ以外の、相手の顔も名前も分からない、仮に分かったとしてもIDだけのようなSNSや掲示板やニュースサイトやブログのコメント欄などのネットの大部分を占める領域では、編み合わせは存在しません。
そこでは暴言を書き込んだ場合、一時的には何かしらの批判はあってもそれは現実の自分の編み合わせに傷をつけることはありません。
電源を切ったり、画面をオフにしたりすれば、そこでネットの世界からは断絶することができます。
そう考えると、科学技術とそれによって実現したインターネットは、中世から徐々に人々の間に築かれてきた、複雑で密な編み合わせの中に、ひとつの巨大な「編み合わせの空白地帯」を出現させたと言えるのではないでしょうか。
そこではリアルと同じように大勢の人がコミュニケーションをとることができますが、編み合わせが存在しません。
したがって、人々はそこでは自分の暴力的な衝動や情感を自己抑制させる必要性が無いのです。
細かな自身の態度や情感の抑制は、相互依存の編み合わせによって初めて必要となったものでした。
ネットはその必要性を取り払い、中世の封建時代のころのような人と人との関係を、現代に作り上げたのかもしれません。
まとめ
これはおそらく人類史上画期的なことであると思います。
人類は、(一般にネットが広まった時期やSNSの普及も考えて)この10数年の間に極度に情感を抑制しなければならない編み合わせの密な世界と、そうでない自由奔放に振舞える編み合わせの存在しない世界を行ったり来たりするようになりました。
近代スポーツが、文明化の進んだ高度な情感の自己抑制が求められる社会において、抑制された情感の発散を目的として作られたという議論があります。
そのような機能をネットも果たしているとするのは考えすぎかもしれませんが、もしそのような一面があるのなら、ネット上の暴力性の氾濫は、おそらくこれからも続いていくことでしょう。
追記
なお、ここではあえてフェイスブック問題には触れていません。
実名を基本とするフェイスブックは、ネットと現実の編み合わせを濃密にリンクさせる点で、他のサービスとは異なり、他のネット上の領域とは異なる空間を生み出します。
しかしここでもかなりきつい言葉の暴力が見られることがあります。
この点については、おいおい考えがまとまり次第、新しい記事を書くかもしれません。
では。