ペンギンの飛び方

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ネットはなぜ言葉の暴力で溢れているのか 導入編

 

こんにちはhuman921です。

みなさんは今日ネットを閲覧している中で何回暴言や心無い言葉を見たでしょうか。

ネチケット」という言葉が流行ったのは10数年ほど前で、今や死語と化しています。暴言を見たらスルーして、無駄に反応するべきでないという暗黙のルール(ある意味新しいネチケットか)さえできているような雰囲気です。

この記事ではなぜネットにおいてこれほどまで言葉の暴力が見られるのか、あるいは攻撃的なのかについて、社会学的観点からその背景を見ていきたいと思います。

 

 

そもそもなぜ「リアル」では暴言が飛び交っていないのか

まずネットの攻撃性の背景を考える前に、なぜ現実に生きている社会=「リアル」ではネットほど言葉の暴力が飛び交ってないのかを考える必要があります。もしかしたら実はネットの攻撃性は人間のありのままの姿で、むしろリアルの方が異常である可能性もあるからです(もしかするとリアルだって言葉の暴力にあふれてると言う人がいるかもしれませが、ネットのように見ず知らずの人に突然暴言を吐かれるようなことはめったにないはずです。)

さてこのことを考えるときに重要な視点を与えてくれるのが社会学ノルベルト・エリアスの「文明化」論です。

 エリアスは暴力は中世やそれ以前はもっとありふれたものだったとして、それが時代を経るにつれて減っていく過程を「文明化」というワードを使って説明します。

エリアスは(西欧における)中世以前から現在までの暴力の減少など、人間の全体的な情感の抑制の増大という「文明化」の過程をいくつかのキーワードを使って論じています。

今日はその中から、「暴力の独占」と「相互依存の編み合わせ」という2つのタームを用い、本テーマについて考えていきたいと思います。

 

まず始めに「相互依存の編み合わせ」という言葉の意味ですが、これは簡単に言えば分業化によって一人の人間が関わらざるを得ない人間の数が増え、互いに依存しあう関係構造を示したもので、この編み合わせの複雑化が、人間にあらゆる情感の表出を「自己抑制」させたとエリアスは述べています。

この「編み合わせ」はなぜ複雑化したのでしょうか?そしてそれはなぜ人々に情感の抑制を強いるのでしょうか?

 

封建社会の状況

まず西欧中世の封建社会から物語は始まります。

この時代、現在のような国家と呼べる体制は存在しません。ここでは農奴を従え、少数の家臣と領地を持つ封建領主が乱立しており、それぞれ自給自足の生活をしています。ここでは各領主間に力の差は無く、常に他の同規模領主との領土を巡る争いに備える必要性があります。

この状況では、領主に仕える戦士は、暴力衝動やその他の情感を抑制することは無意味であるし、不可能です。

なぜなら彼らは常に直接的な暴力に身をさらされており、そのような情感を抑制することは=死を意味するからです

よってこの時代の戦士や同じ階層にいる人々は今よりもはるかに自らの情感や暴力性の発散を自由にする可能性を持ち、破壊や殺戮という行動に喜びを見出している節もあります。

 

強奪・掠奪・殺人は一般に当時の騎士社会の基準に属していた。・・・他人が苦しめられたり殺されたりするのを見る喜びは大きかった。しかもそれは、社会的に公認された喜びであった。*1

 

なおここでの相互依存の編み合わせは、それぞれの小さな領地内の少数の家臣間という限定された範囲にとどまり、その密度も非常に小さいものとなっています。

 

「宮廷社会」の誕生

しかしこのような状況も永遠に続くわけではありません。同規模領主間の領地を巡る争いの中で、争いに勝った領主が徐々にその領地と軍事力を拡大し、ある地域の権力を独占するようになります。

この流れは他の地域でも起き、それは大きな領主間の争いへとつながっていきます。そこでもやはり勝者は敗者のあらゆる財産を吸収し、やがて広大な土地と財力と軍事力を持つようになります。

このような状況になると、他の既存の勢力は軍事力によってその支配を脅かすのはもはや不可能となります。

したがってここからの権力や財を巡る争いは、軍事力によって相手のすべてを奪うような「1か0か」の争いではなく、巨大な権力を持った王(かつての領主)の支配の中で、資源配分を巡るものへと変わっていきます

この争いではもはやかつて見られたような情感の奔放な発散や暴力は影を潜め、王の信頼をいかに勝ち得るかという、非常に洗練された上品なものとなります。

 

宮廷を心得ている人とは、身振りも目の色も顔の表情も自由に使い分ける人である。深遠で、何を考えているのか心の奥底を他人には見せない。というのもかれは自分にとって不都合なことも見て見ぬふりをし、自分の敵にも微笑みかけ、自分の不機嫌を押し殺し、情熱を隠し、本心を否定し、自分の感情に逆らって行動するからである*2

 

さらにここでは資源を争いあう競争相手は、互いに王の独占を支える機能を分担しつつ、限られた資源を奪い合うので、「みな王の独占、支配を前提に」生きており、その意味では競争相手でありながら、「相互に依存する味方」でもあるわけです。

かくして、権力、資源、財を巡る争いは、大空の下に広がる原野から、王が支配し運営する「宮廷」へと移っていきます

このようにして宮廷社会は誕生しますが、それは相互依存の編み合わせの複雑化が前提にあり、上流階級においては、それは自らの情感や暴力性の自己抑制を強いるものだったのです。

 

「暴力の独占」

ここで問題になるのが上流階級ではない中流、下流階層はどうなったかと言うことです。

現在では、どの階層に所属していようと、暴力性が発露されることは少なくとも先進国においてはめったにありません。

なぜ彼らにも、情感抑制が働くようになったのでしょうか?

それを説明するのがエリアスの文明化論のもうひとつのキーワードである「暴力の独占」です。

上述したように領主間の争いの中で、あらゆる権力は一人の王の手の中に集約されていきました。この権力の中には、戦士など、軍事力も含まれています。

このような状況では、戦士は王の許可が無ければ暴力を行使することができません。

そして中央権力は国内の安定した統治のため、あらゆる暴力手段を人々の手から奪い、それが勝手に行使されることの無いように監視の目を光らせ、肉体的暴力の行使は中央権力直属の軍隊ないしはそれに相当する治安維持組織のものなります

すると、それまで各個人が外部からの直接的な暴力に対処していたのが、中央権力によってそれが委託され人々は暴力から広範囲に守られることになります。

しかしそれと同時に、今度は守られる側の人々も、自らの暴力衝動や激しい情感を押さえつけなければなりません。

なぜなら、それを破れば今度は中央権力によって「合法的」に、肉体的暴力の罰にさらされることとなるからです。

これが上流以下の一般市民階層が情感を抑制するにいたった原因ですが、中央権力の暴力の独占は、実は一般市民の相互依存の編み合わせの複雑化にも繋がっていきました。

 

貨幣経済と編み合わせ

ひとつの体制へと権力が集中する過程の中には当然、財(貨幣)も含まれています。

これはすでに始まっていた貨幣経済の発展に貢献しましたが、それは中央権力の暴力の独占によってさらに加速していきます。

なぜなら、中央権力の暴力の独占は、その領域内においては「暴力の空白地帯、安全な場所」を作り出し、これによって、貨幣を用いた交渉、つまりあらゆる製品の売買や契約が担保され、信頼できるものとなるからです*3

その結果、活発な商取引によって産業が発達し、あらゆる分野で分業化が進み、市民間の相互依存の編み合わせは複雑化します。

そこではかつての戦士のような情感の奔放な発散をする人物は他人から信頼されず、安定した社会生活を営むことが出来ません。そしてそのことは貨幣経済においては致命的なものになります。

さらに、貨幣経済の発達によって力をつけた中流階級は、中央権力への食い込みを狙うために、宮廷社会で編み出された上流階級の持つあらゆる情感抑制の方法=「礼儀作法」を模倣していきます。

これはやがてあらゆる階層へと広がりますが、自分たちとそれ以下の階層とを区別したい上流階級はさらに洗練された礼儀作法を発明し、それを中流以下の階層が模倣し…という過程を通じて、その領域内では人々が高度に情感を自己抑制して(ゆく方法を身につけて)いきます。

 

これまでが現実社会において暴力や攻撃性が減少していった原因であり、このような情感を「自己抑制」していく過程が「文明化」と呼ばれるものです。

 

次回への予告

さて、今回も前回の「道徳的連帯感とネット炎上」に続いて一回の記事で終えることができず、長引いてしまい、次回へと持ち越されることになってしまいました。

 

  次回は今回の議論をネットの暴力性に当てはめて考えていくのですが、はっきり言ってこんなに長引くとは思っていなかったので、次回の記事が今回に比べて内容的にも長さ的にもしょぼいものになるかもしれませんが、その辺はご容赦ください。

では。

 

参考文献

ノルベルト・エリアス著 「文明化の過程 上・下」叢書ウニベルシタス 1978年

奥村隆著 「エリアス・暴力への問い」 勁草書房 2001年

*1:ノルベルトエリアス「文明化の過程 上」p376

*2:同 p394

*3:中央権力はその見返りに民衆から援助金を徴収し、それによって「租税の独占」も達成されます