ペンギンの飛び方

本を読んだりニュースを見たりして考えたことを、自由に書いていきたいと思います。

消費主義は専制を防げない、ではどうすればよいか

 

民主主義国家において参政権を持つ私たちは、(方法さえ間違わなければ)ある程度の正しい情報を入手し、そこから国家の政策の変更、自らの代理人の決定を、平和裏に、選挙やその他意思表示の手段を通じて、自らの自由な判断で何度も行うことができる。

しかし、政府からもたらされる情報が改ざんされたり、意思表示の手段が法的に制限されたりすると、私たちは、政治的判断の基準を失い、合法的かつ平和裏に政策や政府の変更を行うことができなくなる。

ところで民主主義国家においては、多数派の意志には理論上なんの制約も課されていない。自らの自由を奪う立法、さらには憲法の制定も可能である。

したがってもし多数派が、これらの自由を放棄し、政府にすべてをゆだねるという政治的判断をするのならば、合法的に「専制国家」が誕生することになる。

その場合、その最初の「すべてをゆだねる」という判断は、確かに各個人の自由な選択ではあるが、それ以降、国民は、自らの意志では(暴力的な革命に訴えるか、君主の慈悲以外では)元の状態には戻ることができない。

つまり民主主義国家においては、専制」という全く民主主義的ではない、非常に不可逆性の高い体制へとつながるルートが常に開かれているということになる。

それでも民主主義が専制を防ぐ防波堤だと一般的に考えられているのは、多数派が自らの自由を大幅に制限することに同意する可能性は、通常とても低いという事実に依る。

しかし歴史上、この想定を覆した例はいくつか存在している。

そこで仮に私たちが、これからもこの自由を行使したいと考えているのならば、特定の人物や党派の意志に、自らの運命をすべてゆだねるという決断をする勇気を持ち合わせていないのならば、この民主主義体制を守るために、重要な政治的判断をしなければならないときがある。

そこで投票という行為について考えてみる。

投票の際、スーパーやネットショッピングなどのように、商品を選ぶような感覚で投票先を決める人も多いように思われる。

例えば、自分の考えにあった政策や主張を掲げる政党や、実行力のありそうな候補者に投票する、という判断がまずは考えられる。また、そのようなお目当ての「商品」がなければその中でも「マシ」なものを選んだり、そもそも何も買わない(誰にも投票しない)という選択肢もありうる。

このような投票における消費主義は、「平和な時代」にはあまり問題にはならない。しかし閉塞した時代状況になると、人々の自由を奪い、民主主義的土台を切り崩すような主張を掲げる勢力が出現することがある。

残念ながら消費主義はこのような場面に対処できない。

例えばこのような勢力は、私たちの選好にあう、魅力的な政策を展開するかもしれない。また、ほかの集団よりも一見すると実行力があるように映るかもしれない。

したがって消費主義的観点からは彼らに投票するという判断が導かれうる。もちろんここでも投票をしないという方向性もある。が、それは結局、状況を追認することと同義である。

なぜ投票という政治的判断において、消費主義は専制を防げないのか。

それは消費主義が、政治権力の網羅性と至高性を見落とすからだと考えられる。

政治権力はスーパーで買う商品とは異なり、購買した個人の生活をよりよくする一要素にとどまることはない。それは、個人のライフスタイル、時々の選択、つまりは生活全般に対して多大な影響を与え、制限し、それを方向づける。

究極的には、政治権力とは、個人の生命に直接作用し、それを奪うことができる権力である。

そして個人は、それから逃れることはできない。「商品」を買った後、それを消費してしまえばそれで終わりというわけでもなければ、使わなければ(無関心で)いいというわけでもない。たとえ当該商品を買わなかった人々も、多数派がそれを選択したのであれば、その決定に応じざるをえない(影響は同じように受ける

また多数派の支持を得た専制的な政治権力は、そもそも公正な「商品」の競争を阻害するかもしれない。

つまり、自らの「成分表示」やそれの効能について虚偽の情報を提示したり、他の商品が商品棚に並ぶことを禁止したりする可能性があるということだ。

こうしたことは、一般的な競争市場であれば、それを監督する第三者の機関によって法的に抑制され、発覚すれば罰は免れない。

ところが、政治権力においてはそうしたルール(法)を決めるのが多数者の意志によって代表された「商品」自身なのだから、(専制においては)そうしたことは期待しえない。

市場では各商品が(一応)公正で平等なルールのもと自らの魅力を発信し、商品棚に一様に並んで消費者の前に提示されている。

ところが政治の世界は違う。強大な専制権力のもとでは、むしろ彼らが消費者(国民)に対して主導権を握る。

消費主義はこれら重大な点を見逃す。よって専制の誕生を防げない。

したがって、正しい情報のもと、自らの判断で平和裏に政策や代表の変更を行うという機構を維持したいのならば、スーパーやネットショッピングでするように、多様な商品の中から自らの選好を満たす商品を購買する自由をこれからも享受したいのであれば、わたしたちはこの機構を破壊するような主張や立法を行う勢力を立法機関から排除しなければならない

消費主義はこれまでの議論で示した通りその方法を教えてはくれない。よって別の思考でもって対応する必要がある。

具体的に言えば、私たちは、投票の際に、こうした民主的諸制度や政治的自由を否定する政党(商品)とは異なる、数的に競合する他の政党(商品)に、投票をしなければならない(購入しなければならない)

たとえ支持する政党がなく、さらにいえば、その競合する政党の提示するマニフェストが、自分が選好するものとは異なるものであったとしても。

これは、そうした危険な政党に対する世論の支持が高くなるにつれてその緊急性は高くなる。

上記の通り、絶対に避けなければならないのは、専制、つまり正しい開かれた情報と公正なルールのもとで、自由に自らの代表や政策を変更、交代できなくなる事態である。よって切迫した状況では、よりそうした苦渋の決断が迫られる。

そしてその際、専制的な傾向を示す人物や勢力を見分けることは、自らの望む政策を展開する候補者を探すよりも、はるかに簡単で、(結果の面で)確実である

なぜならば、私たちは彼らが発するいくつかの重要なキーワード(例えば「自由」)や、異なる意見や政治上の論敵に対する態度や言動に、多少の注意を向けていればよいからだ。

そして、自らの国家の政治体制が幸運にも専制的でない状態であるうちは、私たちは時々の政治上の判断のミスを、何度でも修正することができるのである。

 

【補記】

もちろんそもそも民衆に政治的自由など必要ないとする考えもあるかもしれないが、この議論はそのような考えを変えるために書かれたものではない。

集団主義的な利己主義について

 

前の記事でも取り上げたポパーは、プラトンを批判する文脈で、次のような分類を提示します。

(A)個人主義 は (A)´集団主義に対する。

(B)利己主義 は (B)´利他主義に対する。

 ポパーは、こうした分類から、プラトンが(本来違うものであるはずの)個人主義と利己主義を同一視して、その反映として、集団主義利他主義をセットにすることで、個人主義の価値を不当に貶め、集団主義を擁護したと批判しています。

さて、これだけでは話が分かりづらいので、もう少し詳細に考えてみます。

まず、ポパーの分類からすると、このカテゴリーの内部では人間は次の4つのタイプに分けることができるといえそうです(もちろん傾向としてそうであるというだけですが、ここでは議論上、単純化して話を進めます)。

 

個人主義的利己主義 ②個人主義利他主義

集団主義的利己主義 ④集団主義利他主義

 

①に関しては言うまでもないでしょう。「自らが属する共同体のことにはなんら関心なく、己の利益のみを追求する」という文脈での個人主義批判はプラトンの時代から現代に至るまで、様々な場面で見ることができます。

次にとばして④ですが、これもなじみ深いものでしょう。「集団に自己を依拠させ、自集団に対する愛着から、そうした共同体のため、あるいはその成員のために自らを犠牲にする」という人物像はあらゆるフィクションで、(肯定的に)登場してきます。

次は②の個人主義利他主義です。プラトンはこのタイプを無視することで個人主義を攻撃したわけですが、こうした種類の人物を想像することはそう難しくはありません。

貧困や紛争に苦しむ人々は世界中に存在しているわけですが、②に属するタイプの人間は、そのような人々の国籍、民族、思想信条にかかわりなく心を痛め、彼らの手助けをしたいと感じることでしょう。なぜなら、どのようなバックグラウンドを持っていようとも、苦しみにあえぐのは同じ人間であり、彼ら一人一人にはそれぞれの幸福を実現するための権利を持っているのだと、②の人々は考えるからです。

もちろんこれは国内での問題についても言えます。国内に貧困や差別などに苦しむ人々がいれば、②に属する人々は、仮にこのような問題が自らの生活とは直接関係がなくとも、問題を解決しようと努めるでしょう(理路は違えど結果の面でいえば、この点で②個人主義利他主義は④集団主義利他主義と重なります)。

注意したいのが②に属する人々であっても国内問題と国外問題では寄せる関心に多少の差はみられるだろうということです。地理や言語などの問題から、私たちの想像力の範囲は残念ながら限られていますし、それは彼らとて例外ではありません。

ただ、彼らの住む国が民主主義国家であれば、自らが主権者として下した政治的判断の結果である法律や政治体制、社会システムが生み出す種々の問題に対して、他国のそれよりは責任を持つということはある意味で当然という考え方もできるように思います。

最後に③集団主義的利己主義です。これは簡潔に言えば「自らの属する集団の利益のみを考える」というタイプです。これも、容易に想像することができる考え方でしょう。

しかしこの思考様式には見逃せないある前提、ー「集団の利益と自らのそれが連動している」ーが存在しています。集団の規模が大きいケース、例えば国家などの場合、そうした「連動」が発生しない状況は簡単に起こりえます。

よって③において普通想定される集団の規模は、階級であったり、特定の職種だったりするわけですが、時代状況によってはこうした「中間集団」の利益を代弁する組織が弱いか、あるいは存在しないために集団の利益を促進する機会がないという場面が出てきます。

また、集団そのものや個人の動きが流動的になっているために、そのような中間集団にあまり帰属意識を持たない、あるいは利益を考えても意味がないという事態も生じてくるでしょう。

こうした状況で③集団主義的利己主義はどうなるのか。これが僕の問題関心ですが、まず一番には、①個人主義的利己主義に思考様式を変えるというルートが存在するでしょう。

「属する集団の利益の向上を介して自分も~」という道が険しいのならば、己の力を信じて努力するほかありません。この道もやはり相当に困難なものですが、前者よりも回りくどくなくある意味わかりやすいといえます。

しかし言うまでもなく、自らの力で道を切り開くということは誰にでもできることではありません。そこで考えられるもう一つのルートが、③集団主義的利己主義にとどまったままで、その方法と認識を変えるというものです。

まず方法についてですが、③本来の、集団の利益から個人のそれも高める、という流れではなく、利己主義的な思考をまず土台に据え、その後集団を考えるというものになります。つまり、己の利益のために集団を使うという道具的な思考でもって集団を考えるということです。

このため、時々で選ばれる集団は状況によって様々です。 己の利益を最大化する集団が数ある選択肢の中から選ばれます。

そして認識についてですが、「利益」とこれまで書いてきましたが、ここでは利益とは、もはや普通考えられるような、実体のあるものではありません。ここでいう利益とは、自らが属すると決めた集団がそれによって自分に与える高揚感、自己肯定感のことを指しています。

仮にこの思考様式を⑤ネオ集団主義的利己主義と呼んでみるとして、これがもたらす思考の結果を例を挙げて考えてみると次のようになります。

例えば国内の貧困問題に関してですが、 ⑤のような考えの傾向を持つ人々にとっては、こうした問題は非常に目障りとなります。というのも、そうした社会問題を生んでいることそれ自体が、自らの依拠する共同体(国家)の価値を貶め、結果的に自らのそれも削いでしまうと彼らは感じるからです。

よって彼等は、貧困問題をなかったことにしたり、あるいは自己責任だとしてそれを処理します。問題に対して無関心なだけの①個人主義的利己主義とはその点が異なります(もちろん①の人々も自己責任論を唱えることがありますが、その理路が⑤とは違います)。

次に国家間や民族間において生じる問題や論争についてですが、⑤の人々は、自らの属する国家や民族よりもより弱い(と彼らが考えている)相手に対するときは高圧的にふるまう一方で、そうとは考えられない場合は、そうした問題をなかったことにしたり、実際は仲間であるとふるまったり、それも難しいときは、認識上において、自らが相手と同じ集団に属すると判断します。

このように、⑤に属する人々は、集団内部の問題はそれをないものとして処理し、集団間の様々な対立の中では、状況に合わせて、一方よりも(権力や腕力、その他種々のカテゴリーでの「ヒエラルキー」において)より強いと思われる集団に自己を依拠させ常に強者としてふるまうことで、自己の安定を図ります。

この⑤ネオ集団主義的利己主義の厄介なのは、外形的には、集団の利益や価値について熱く語っているという部分において、通常の③集団主義的利己主義、さらには④集団主義利他主義と見分けがつかない点にあります(特に国家間の対立の際それは顕著です)。

しかし、実際には彼らは、自らの集団やその成員の利益や価値、運命について本質的な関心があるわけではなく、それが認識上において自己に何をもたらすかという間接的な関心しか持っていません。

しかもそのような集団すらも、結局、認識上では交換可能な対象であるのです。

ここまで書いてきて、この⑤ネオ集団主義的利己主義は、言ってしまえばいわゆる権威主義なのではないかと感じていますが、それは措くとして、自らの利益の表現をする適切な手段が、個人、集団問わず奪われたとき、あるいは手段としてあっても難しいものであったとき、このような思考が生まれるのではないかと思われます。

 

 参考

 K.R.ポパー(1944=1980)小河原誠 他訳『開かれた社会とその敵 第一部 プラトンの呪文』p.p108‐114 未来社

公文書改ざんと民主主義の危機

 

私は最近、長い間読みたいとは思いつつ敬遠していたK.R.ポパー『開かれた社会とその敵』を読んだ。間違いなく、私がここ数年手にした本の中で、最も衝撃を受けたものの一つであった。

今回は当該本で繰り広げられる議論を用いて、ここ1年半ほどの間世間を賑わせている「公文書改ざん」とそれがもたらす民主主義の危機、そしてなぜ私たちが民主的諸制度を守るべきなのかについて考えてみたいと思う。

 

 

「危機」について考える前に、民主主義と、その対極にある専制の違いをまずは一瞥する。

この区分は基本的にポパーに倣うが、民主主義とはそれが持つ種々の制度や構造からいって、政策の変更や修正、政権の交代などを平和裏に行うことを可能にさせる機構である。

投票権をもつ私たちは、正しい情報がもたらされるのならば、そこから判断して、投票や中間団体による圧力、交渉、その他さまざまな民主的手段によって、間違っている、あるいは失敗している(と思われる)政策や政治家を修正、変更することができる。そして民主主義の制度が維持される限りは、それを繰り返すことができる。

しかし専制国家はそれができない。情報は統制、改ざんされることで、国民は自分の国家が首尾よくいっているのか、政策が効果を上げているのか、はたまた失敗しているのかを知る術を持たない(例えばGDPや失業率が改ざんされた場合のことを考えてほしい)。また、民主的な異議申し立てのルートはあらゆる手段を使って遮断される。

したがってここにおいては、国家の政策やその代表に変更を加えたい場合は、暴力的な革命などの手段か、あるいは慈悲深い君主の心変わりを祈るしかない

 

上記で挙げた区分からすれば、公文書改ざんは、明らかに民主主義の土台を破壊するものであり、専制国家に特徴的なものである。

しかし私は、この点のみをもって現在日本が専制政治の状態にあるとは考えない。というのも、民主的な異議申し立ての手段は今のところ制限されていないからである。

そしてなにより、現状ではこのような不正(のいくつか)は運よく暴かれ、私たちの耳にするところに至っている。情報の統制が完全になされていないために(実際現代社会においてそれはほとんど不可能だが)、日本国民はある程度正しい情報を手にし、政府に働きかけ、さまざまな力を行使し、国家の方針に変更を加えることができる。この点でも、日本はいまだ民主主義国家であるといえるのである。

とは言え公文書改ざんや、政策の根拠となるデータのねつ造という行為は、投票権を持つ私たちに正しい政治的判断を困難にさせる、民主主義にとって致命的なものであることに変わりはない。そういった情報の改ざんはその性質上、往々にして時の政権に有利なように仕向けられ、私たちは事実に即した政治的な働きかけを行うことができなくなる。

そして、異議申し立ての手段が憲法や法律などによって制限された暁には、平和裏に自らの手で政策や政権を変えることができなくなり、ついには専制国家の状態と同じ状態におちいってしまう。

現在日本では、民主主義の土台を破壊し、専制国家への端緒を開くような不正を行った政権が、大した責任をとることもなくその座に位置したままでいる。

 

民主主義国家においては、自らの代表者を誰にするのかを決定する権限は、基本的に国民が握っている。したがって、不正を行った政府がそのまま政権の座に居続けていられるのは、ひとえに国民の多くがその状況を許しているからである。

私はここで、なぜ多くの国民がそのような状況を許しているのかという点については、深くは立ち入らない。しかし二点だけ、それでも現政権を支持する人々の考えに応答する形で、自分の考え(かなりポパーに触発されている部分はあるが)を述べたいと思う。

 

まず一点目。世論調査でたびたびトップになる「他よりよさそうだから」現政権を支持するという意見について。

これに対して私は、政治はこのような消費主義のアナロジーで考えるべきではないと主張する。

よりよく、より高い満足を与える商品、あるいは、他より何かをやってくれそうな、何か期待の持てる商品を選ぶ(あるいは選ばない)よりも、もっともリスクのある、もっとも安全性に問題のある商品を、そもそも商品棚から除外することに私たちは取り組んだほうがよいと私は考える。

つまり、最も危険な政治体制である専制国家を生まないことを念頭に、私たちは政治的な行動をすべきである

これにはそう考えるべき合理的根拠が、これまで挙げた論点とは別に存在する。

それは、「よりよいもの」を探すよりも、リスク排除の観点からの政治的判断のほうが、簡単で確実であるという点である。

確かに、ある政治的ビジョンや、それを達成するためのアイデア(政策)を持つ有権者にとっては、完全とは言わないまでも、意見の似た政党、政治家を探すこと、また他より「マシな」それを選択することが、合理的な政治的判断だと考えられるだろう。

実際、(あまり考えられないことだが)何を選んでも専制の危険性が全くない状況下にあったなら、そのようにして判断することが賢明であると思われる。

しかし、ここにこそ困難が存在する。

現代のような複雑な社会にあっては、何が政治的目標に実際に寄与するかは判断が難しい。ある目標に対する方策を考える中で、研究者であっても意見が分かれている問題に対して、普段の忙しい生活に追われている現代人が「より良い」「正しい」選択をすることは、実際ほとんど不可能に近い

ところがそれにくらべて、専制的な傾向を示す人物を候補者の中から見分けることは、はるかに簡単である。なぜならば、私たちは彼が発するいくつかの重要なキーワード(例えば「自由」)や、異なる意見や政治上の論敵に対する態度や言動に、多少の注意を向けていればよいからである。

そしてなにより、自らの国家の政治体制が幸運にも専制的でない状態であるうちは、私たちは時々の政治上の判断のミスを、何度でも修正することができるのである。

 

 

二点目。多少強引なところはあっても、結局大筋の政策の方向が自分の望むそれと合致している、望む結果を出しているから支持するという意見に対して。

(公文書やデータを改ざんする政府に対して、何を根拠に合致しているのか、結果を出しているのかを判断するのかはかなり疑問だが)、これに対して私は、それでも専制国家よりも、民主主義のほうがより望ましいと主張する。

実際には、ポパーの指摘する通り、民主主義下での政治的判断が、いつも正しいとは限らない。時々の多数派の意見が、国民の生活をより良いものにするという保証はどこにもない。むしろ、善意の開明的な専制君主の採った政策のほうが、日常に追われる大衆に決めさせたよりも、より良いものになる可能性も大いにある

しかしそのような慈悲深い「独裁者」に期待することは、あまりに楽天的であると私には思われる

何より、彼の死後、あるいは引退後はどうするのか。その座を継いだ人物が、前任者の作った専制的な政治制度を悪用した場合、私たちはすでに対抗する術を抑えられているので、それを受け入れざるを得ない。

また、専制的な種々の仕組みが君主の慈悲深さを減じてしまうこともあり得る。ホブハウスの指摘する通り、「他の人びとに対して無責任な権力を行使するというテストに永久に耐えることができるほど、他の人びとより優れ、賢明である人びとはほとんどいない」。*1

これらのことを考慮するならば、専制に対する民主主義という体制は、人類の英知の結晶だとか、最後にたどり着いた理想であるというようなものではない。

民主主義体制が持つ、(開かれた正しい情報のもと)国民が政府の政策、さらには国民自身の選択も修正、変更を可能にさせるというこのトライ&エラーの機構が、他の政治制度とは決定的に異なる点であり、またおそらくは優れた点である。

ポパーは次のように言う。

この観点でみると、民主主義の理論は多数派が支配すべきという原則に基づくのではない。…民主的抑制のための様々な平等主義的方法は、…専制政治に対する制度上の安全装置にすぎず、常に改良の可能性をもち、また自己改良の方法さえも用意している安全装置と見なされるべきである。

この意味での民主主義の原則を受け入れる人は、それゆえ、民主的投票の結果を何が正しいことかについての権威ある表現と見なす義務はない。彼は民主的制度を働かせるために多数派の決定を受け入れるではあろうが、民主的手段によってそれと闘い、またその修正のために働くことは自由だと思うであろう。そして万一多数票が民主的制度を破壊する日を見るまで生きたとすれば、この悲しい経験は専制政治を避けるための絶対安全な方法は存在しないということを彼に教えるだけのことであろう。だがそれでも専制政治と闘う彼の決定を弱める必要はないし、また彼の理論が不整合であることを暴露するものでもない。

*2

 

私たちは失敗する。しかし同時に、それを反省しまたやり直すことができる。

そのためには、専制国家の出現を防ぎ、民主主義を守るための政治的判断をしなければならない。

 

 

 

*1:ホブハウス (1911=2010) 吉崎祥司他『自由主義福祉国家への思想的転換』p170 大月書店

*2:K.R.ポパー(1944=1980)小河原誠他『開かれた社会とその敵 第一部 プラトンの呪文』p130 未来社

J.S.ミル先生によるネットでの議論のための心構え

 

blogos.com

 

b.hatena.ne.jp

 

最近、インターネットがもたらす社会の分断について注目が集まっていますが、なんとなく読み返していたJ.S.ミルの『自由論』に、この問題を考えるヒントというか、分断の時代における議論の心構えとして有用そうな記述がいくつかあったので、今回はそれを取り上げてみたいと思います。

この著作が発表されたのは今から約160年も前ですが、ネット時代の21世紀でも通用するどころか、発表当時よりもむしろ現代の方がその指摘が当てはまるようにも感じられ、とても面白いです。

では、以下にいくつか紹介します。

 

1 各々が自分の主義・主張を表明する自由と、それによる対立した見解を持つ人々の歩み寄りについて

 ミルはこれについて次のように述べます。

どんな意見でも発表できる自由が無制限に行使されたら、宗教や思想におけるセクト主義の弊害が弊害がなくなるかといえば、私はそうは思わない。…

セクト主義は議論が最大限に自由に行われれば解消されるものではない。むしろ自由な議論はセクト主義を逆にしばしば強め、悪質化させる。 

 (引用 J.S.ミル (1859=2012)斉藤 悦則訳『自由論』光文社古典新訳文庫 pp.126‐127)

これの理由として、ミルは論敵が自分たちの側が見つけられなかった真理を主張したとき、それを否定せざるをえないからだと指摘します。というのも、

狭量な人間が真理とやらに熱中すると、もうこの世のほかの真理は存在しないかのように、あるいは少なくとも、自分たちの真理を制限したり修正できるものは存在しないかのように、それを主張し、説教し、いろんな実践方法をくりだすにちがいない。(同上 p127)

からです。ようするに、自分と異なる主張を受け入れる姿勢のない人間同士による議論は、むしろ分断を深めることにつながるというわけです。

しかしミルは、こうした意見の衝突それ自体は、それを傍観する人々にとっては良い影響があると考えます。なぜなら部分的な真理を持つ主張がぶつかり合う場合にのみ、真理はよりすぐれたものになる可能性があるからです。

したがって自らの意見を自由に主張することが許された社会において、危惧すべきは次のようなことになります。

 両方の意見をいやでも聞かされること、これには絶対に希望がある。問題は、一方の意見のみに耳を傾けるようになるときだ。そのとき、誤った意見が定着して偏見となり、真理そのものも誇張されて虚偽と化し、真理としての効力を持たなくなる。(同上 pp.127-28)

サイバーカスケードという言葉もあるように、このような事態に陥る危険性はネット時代において高まっているように思えます。自分も含め、これについては気をつけたいものです。

 

2 議論の際の禁じ手について

 これについて、ミルはまず次のように述べます。

 われわれが論争をするとき犯すかもしれない罪のうちで、最悪なものは、反対意見のひとびとを不道徳な悪者と決めつけることである。(同上 p132)

耳が痛いです(笑)。みなさんも、ネットでよく見かけると思います。

しかしミルの面白いところは、こうした本筋の議論以外での論敵への中傷は、世の中における支配的な意見を持つ側が、特に自制しなければならないと考えている点です。

なぜなら、多数派がこうしたことをやると、反対派は自らの意見を言う気が失せ、反対意見が実際に表に出ることが少なくなってしまうからです。

異なる意見の衝突が、よりよい真理の発見にとって不可欠と考えるミルにとっては、こうした衝突そのものがなくなる事態はなんとしても避けたいもの、というわけです。

さらにミルは、このようなことも述べます。

論争のどちらの側に立つ人であれ、主張のしかたが公平さを欠き、悪意や偏見や心の狭さを露わにしている人は、誰であろうと非難される。ただし、その人がわれわれと反対の立場である場合、彼のそうした欠陥をその立場のせいにしてはならない。(同上 p133)

非常に耳が痛いです(笑)。これもネットで(以下略)。

上にリンクを張った記事中の荻上チキさんの「セレクティブ・エネミー」という概念にも、このミルの指摘は通じるところがあります。

論争中の相手側の主張の中から、極端なもの、明らかにおかしいものを選択し、その原因を彼らの立場に還元し、それでもって論敵全体を攻撃する。

こうしたことは、ネット時代において、より簡単に、大規模に行うことができるようになっていると思います。

 

3 議論における道徳

最後に、ミルの考える、議論の際にそれに参加する人々が守るべき道徳を引用したいと思います。

どういう意見の持ち主であれ、反対意見やその持ち主について冷静に観察し、誠実に説明し、相手の不利な部分をけっして誇張せず、相手の有利な部分、あるいは有利と思われる部分をけっして隠さない人には、当然の賞賛を与える。

これこそが、公の場での議論における真の道徳である。(同上 pp.133-134)

なんとも素朴で当たり前のような感じがしますが、実はこれには次のような文章が続きます。

この道徳が守られないこともしばしばあるが、多くの論者たちはかなりよくこの道徳を守っている。また、さらに多くのひとびとが、この道徳を守ろうとまじめに努めている。これはほんとうに幸せなことだと思う。(同上 p134)

ミルが21世紀のネット上の議論を見て同じことを言えるかどうかはわかりません。

しかし、ネットによって、ミルの考えるよりよい真理の構築、発見のために必要な条件であった、多様な意見(の衝突)がどこでも簡単に見られるようになったことも事実です(それをさせない誘惑も同時にあるにせよ)。

したがって上述のような議論における禁じ手、そしてその際に必要な道徳を理解しそれを守ることで、ネットがもたらす益の部分を、より効果的に引き出せるのではないかと僕は思います。

 

 

 

怒りと文明化と市民性

 

最近投稿した記事に関連する話題がはてなブックマークでも話題になっていました。

 

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

僕は2年半程前に、 ある問題について、「同じ考え、不満を持ち、それに賛同、共感していたのに、それを改善しようと実際に行動を起こすと冷める人が出てくる」 という現象の背景を考てみたことがあります。

 

human921.hatenablog.com

 

そして直近では、怒りに対する忌避観とは別の角度から、ネット時代において、ネットから生じた世論の現状への怒りの高まりとそれから生まれる一体感や共感は、「継続的で組織的」な団体や運動になるプロセスの中で、しぼんでしまうのではないかという仮説を記事にしてみました。

 

human921.hatenablog.com

 

 さて、引用元の記事に戻り、「怒り」について考えてみると、確かに怒りを表出すること、あるいはそれを目撃することは以前と比べて忌避の感情をもってとらえられているように思います。

「デモと他人の怒りを見ることの困難さ」の最後のあたりでも少しだけ述べましたが、これには社会学ノルベルト・エリアスの言う「文明化」が関係しているのではないかと、僕はずっと考えています。

暴力が非合法になり、またそれを独占した強力な中央権力が誕生すると、それまでとは違い直接的な暴力ではなく、感情をコントロールしたふるまいの洗練度が、社会でうまく生きていくには重要になる。

そうした規律あるふるまいを続けていくうちに、いつしかその規範は内面化され、演技ではなく心から、つまり抑制された情感を表出することそのものに忌避感を覚えるようになる。

これが、エリアスが主著『文明化の過程』で描いた、文明が暴力を減少させ、さまざまなマナーや作法を生み出すに至ったプロセスの簡単な要約です。

僕は現代の怒りのタブー視の流れが、この「文明化」の一種の延長なのではないか、もしくはその一端を多少とも担っているのではないかという考えを長く持っています。

仮に僕のこの考えが多少ともあっているとして、なぜこの文明化がここにきて、このような方向でまた進んでいる(ように見える)のか、というのも面白いテーマですが、僕はなんとなくサービス業の従事者の増大と、それに付随する感情労働における提供する「感情」の「質」の過激な競争が影響を与えているのではないか、と考えているところです。

ところで、元の引用記事では、怒りのタブー視を弱者を益するものとして好意的に見ています。

この見方は基本的には正しいと僕も思います。

怒りがほとんど全くタブー視されることのなかった時代、例えばエリアスの議論でいえば暴力を独占する権力が誕生する前の封建時代の中世ヨーロッパでは、文字通り腕力がすべてを決めていました。

そういう意味でいえば、文明化やそれに付随する様々な潮流は、腕力や権力を持たない人々に光を与えたということができそうです。

しかし別の観点からみると、全く逆のことも言うことができます。

例えば政治学者のウィル・キムリッカは、「市民性」という名の、私たちが日常生活全般において要求される、たとえ最小限の徳性しか具えていない市民といえども身につけなければならない「徳」の存在を指摘して、(市民性の本来の意義を強調しながら)次のように述べています。

 

たしかに、リベラルな社会において市民性という道徳的義務は「良い作法」という美的な構想と混同されることもある。たとえば、市民性への期待は、激しい抗議のやり方―抑圧された集団にとっては自らの声に耳を傾けさせるために必要なものであるかもしれない―を挫くために用いられることもある。不利益を被っている集団が「派手にやる」ことはしばしば「趣味が悪い」と見なされる。良い作法にたいするこの種のおおげさな強調は、奴隷根性(servility)を促進するのに用いられうる。しかし真の市民性というものは、どんなにひどい扱いを受けていたとしても他者に微笑みかけるーあたかも被抑圧集団は抑圧者に対して行儀よくするのが当たり前であるかのようにー、というようなことを意味しているのではない。そうではなく、他者が自分に同等の承認を与える条件の下で他者を対等者として処遇する、ということを意味しているのである。*1

 

*1:W・キムリッカ 2005年『新版 現代政治理論』p439 日本経済評論社