ペンギンの飛び方

本を読んだりニュースを見たりして考えたことを、自由に書いていきたいと思います。

ネットは個人間の意見の相違を強調する?

 

最近ネット(Twitter)で、おおむねの意見の方向性は一致している(と思われる。普段のツイートからして)のに、ある問題に対しての些細な意見の相違で、互いをきつく言い合っている(さらに自らのフォロワーに相手への攻撃を遠回しにけしかけていた)のを目にした。

研究者同士の学問上の論争ならまだしも、そうでない一般の個人が、互いに実際に面識のない相手に対してたった140字でそのような「論争」をするのは、当人たちからすれば重要な見解の相違なのかもしれないが、外部の立場から見ると当人自身も、そのフォロワーも必要以上の消耗をしているように思えた。

僕の観測範囲では、このようなネットの光景は頻繁に目にする。そしてそのたびに、かつての「仲間」は袂を分かつ。その断絶はときに、最初から「仲間」とは認識されていない相手とのそれよりも深くなっているように思われる。

なるほど確かに、自由で多様な議論の中からより良い「真理」が生まれるとする知識論からすれば、この事態は歓迎すべきかもしれない。しかし、ネットはある点では、必要以上に個人間の意見の相違を強調し、もともとあった分断をより強く、さらには生まれるはずのなかったそれを作り出しているように僕には思われる。

その要因はとりあえず二つほど挙げられる。

一つは、ネットが非常に大きな公開性を持つことに起因する。場や相手に合わせて、多少の意見の方向付けや強調点を変えることは、意識しているかしていないかによらず、ついついやってしまうことだが、ネットでは基本的に発言は全世界に公開されているので、そのような「小細工」はできない。よって、例えばTwitterであればフォロワーの7割が賛同するつぶやきであっても、残りの3割は異なる見解を持っている可能性がある。そしてその3割はフォローしていた相手との意見の相違を、140字という大いに誤解を生みだしがちな文字数で(文字というメディアのみによるコミュニケーションという状況そのものも、見解の相違を強調するように思われる)、まざまざと見せつけられることになる。

二つ目は、ネットの匿名性である。面と向かっての「リアル」でのコミュニケ―ション、それも特に相手との交流が継続的に存在しているような場合には、多少の意見の相違はめったに表面化しない。したとしても、日常のコミュニケーションには通常影響しない。もし万一、その相違が何らかの大きな衝突につながることがあっても、その後は互いに落としどころを見つけ、再びいつもの日常に戻る。たとえばそれは、夫婦などの家族関係において顕著である。

ところがネットではそうではない。継続的な面と向かっての交流など、後にも先にもないのだから、意見の相違を相手に率直に伝えるデメリットがあまりない。少なくとも、心理的抵抗は格段に少ない。さらに言えば、妥協点を探るメリットもない。そういうわけで、目に入る140字以内の文字列に対して、私たちはたくさんの反対意見を、こちらも140字以内で送ることができるし、それを言いっぱなしにできる。

さて、このような状況で、個人はどのような行動をとるだろうか。Twitterの例で言えば、フォローするアカウントをその都度調整(意見の異なることが判明したアカウントのフォローを逐一外す)するという行動がまずは考えられる。

しかし、完全に意見の一致する自分以外の人格など存在しないのだから、この籠城作戦は徒労に終わる。だがその事実を分かっていても、毎日「発見」される差異を前に、それをやめることはできない。そうしてあるアカウントとそのフォロワーは、よりその意見の方向性を「純化」させていく。一方で、その外側にいる集団とは交流も少なくなり、見解の相違も(感覚的に)大きくなっていく。

このような流れの中で、ネット上のいたるところで分断が生まれるとどのような事態が引き起こされるのか。

テーマは異なるが哲学者のJ.S.ミルの著作の中で、異なった言語を持つ異なった諸民族間での代議制統治は可能かという疑問に対しての見解に、はっとさせられる部分があったので引用して、終わりにしたいと思う。(引用文中の「地方」を「あるアカウントとそのフォロワー」などというように適宜読み替えてみるとよみやすい)

 

同一の書物・新聞・パンフレット・演説が、それらの地方に達しない。ある地方は、他の地方でどのような世論、どのような論議が行われているかを知らない。同一の事件、同一の行為、同一の統治組織が、違ったやり方でそれぞれの地方に影響を及ぼすのであり、おのおのは、共通の裁決者である国家から加えられる侵害よりも、他の諸民族からの侵害をおそれている。かれら相互の反感は、概して、政府への嫌悪よりもはるかに強い。かれらのうちどれか一つが、共通の支配者の政策によってしいたげられていると感じれば、そのことは別のものに、その政策への支持を決定させるのに十分なのである。すべてがしいたげられているとしても、共同して抵抗するさいに他の忠誠を頼みにできるとはだれも思っていない。どのひとつの力も、単独で抵抗するのには十分ではなく、おのおのは、他をおしのけて政府の愛顧をえることが、自己の利益を最大限にはかることになると当然考えるだろう。*1 J.S.ミル (1861=1997)水田 洋訳『代議制統治論』岩波文庫 p.377

 

 

 

*1:この引用の意図は世論の分断が引き起こす諸問題を挙げることにあり、(異なる言語を持つ)多様な民族が同一政府の統治下に入り諸制度を維持できるかという疑問について、何か回答を与える意味合いはない。なおミル自身は、それが「ほとんど」不可能と述べているが今日の世界を見るとその指摘が正しかったとは言えないように思われる。