「抑圧された不満の表出に対する怒り」の最も古い指摘?
僕は数年前、このブログで「デモはなぜ冷めるのか」という疑問について考えたことがあります。
当時は保育園の待機児童問題への不満を赤裸々に語った匿名の投稿が話題になっていた時期であり、当初はネット上でもその投稿に賛同を示すものが多かったように思います。しかしその不満がデモという形をとり、国会でも議論されるようになると、「冷める」という感情を示す人が多くなりました。
僕はこの変化の原因を、いくつかの原因に分けて考えてみましたが(1,2)、その際非常に参考になったのがアンカテさんの「冷たい怒り」という記事でした。
「冷たい怒り」の詳細については上の記事を見てもらうことにして、この現象について近い指摘をした記述を、イギリスの哲学者J.S.ミルの著作からも確認できました。
時代も国も異なりますが、それだけに、これがある意味人間の普遍的な傾向の一つなのではないかと思われたので、とりあえず備忘録として紹介したいと思います。
それらの害悪を匡正できないものとして容認する習慣は、きわめて長いあいだ持続していたので、多くの人びとはそれらの害悪を、できるならば喜んで匡正したいことがらだと考える能力を、失ってしまったように思われる。
治療ができないという絶望から、その病気の否認にいたるまでの距離は、あまりにもしばしば、ほんの一歩にすぎないのであり、このことから、匡正が提案されることを、まるでその提案者が、害悪からの解放を提案するのではなくて害悪をつくりだしているかのように、嫌悪する気持ちが出てくる。
国民は、それらの害悪に全く慣れてしまっているので、それらについて不満をのべることを、まちがってはいないにしても不合理なことであるかのように感じる。*1
問題は本当に人間にこのような傾向があったとして、だから(課題が解決できなくても)しょうがないとするのではなく、これを自覚しつつ、だからこそ物事を変えるためには一層の努力が必要であると考え、行動していくことができるかどうかなのだと、(月並みながら)思います。