消費主義は専制を防げない、ではどうすればよいか
民主主義国家において参政権を持つ私たちは、(方法さえ間違わなければ)ある程度の正しい情報を入手し、そこから国家の政策の変更、自らの代理人の決定を、平和裏に、選挙やその他意思表示の手段を通じて、自らの自由な判断で何度も行うことができる。
しかし、政府からもたらされる情報が改ざんされたり、意思表示の手段が法的に制限されたりすると、私たちは、政治的判断の基準を失い、合法的かつ平和裏に政策や政府の変更を行うことができなくなる。
ところで民主主義国家においては、多数派の意志には理論上なんの制約も課されていない。自らの自由を奪う立法、さらには憲法の制定も可能である。
したがってもし多数派が、これらの自由を放棄し、政府にすべてをゆだねるという政治的判断をするのならば、合法的に「専制国家」が誕生することになる。
その場合、その最初の「すべてをゆだねる」という判断は、確かに各個人の自由な選択ではあるが、それ以降、国民は、自らの意志では(暴力的な革命に訴えるか、君主の慈悲以外では)元の状態には戻ることができない。
つまり民主主義国家においては、「専制」という全く民主主義的ではない、非常に不可逆性の高い体制へとつながるルートが常に開かれているということになる。
それでも民主主義が専制を防ぐ防波堤だと一般的に考えられているのは、多数派が自らの自由を大幅に制限することに同意する可能性は、通常とても低いという事実に依る。
しかし歴史上、この想定を覆した例はいくつか存在している。
そこで仮に私たちが、これからもこの自由を行使したいと考えているのならば、特定の人物や党派の意志に、自らの運命をすべてゆだねるという決断をする勇気を持ち合わせていないのならば、この民主主義体制を守るために、重要な政治的判断をしなければならないときがある。
そこで投票という行為について考えてみる。
投票の際、スーパーやネットショッピングなどのように、商品を選ぶような感覚で投票先を決める人も多いように思われる。
例えば、自分の考えにあった政策や主張を掲げる政党や、実行力のありそうな候補者に投票する、という判断がまずは考えられる。また、そのようなお目当ての「商品」がなければその中でも「マシ」なものを選んだり、そもそも何も買わない(誰にも投票しない)という選択肢もありうる。
このような投票における消費主義は、「平和な時代」にはあまり問題にはならない。しかし閉塞した時代状況になると、人々の自由を奪い、民主主義的土台を切り崩すような主張を掲げる勢力が出現することがある。
残念ながら消費主義はこのような場面に対処できない。
例えばこのような勢力は、私たちの選好にあう、魅力的な政策を展開するかもしれない。また、ほかの集団よりも一見すると実行力があるように映るかもしれない。
したがって消費主義的観点からは彼らに投票するという判断が導かれうる。もちろんここでも投票をしないという方向性もある。が、それは結局、状況を追認することと同義である。
なぜ投票という政治的判断において、消費主義は専制を防げないのか。
それは消費主義が、政治権力の網羅性と至高性を見落とすからだと考えられる。
政治権力はスーパーで買う商品とは異なり、購買した個人の生活をよりよくする一要素にとどまることはない。それは、個人のライフスタイル、時々の選択、つまりは生活全般に対して多大な影響を与え、制限し、それを方向づける。
究極的には、政治権力とは、個人の生命に直接作用し、それを奪うことができる権力である。
そして個人は、それから逃れることはできない。「商品」を買った後、それを消費してしまえばそれで終わりというわけでもなければ、使わなければ(無関心で)いいというわけでもない。たとえ当該商品を買わなかった人々も、多数派がそれを選択したのであれば、その決定に応じざるをえない(影響は同じように受ける)。
また多数派の支持を得た専制的な政治権力は、そもそも公正な「商品」の競争を阻害するかもしれない。
つまり、自らの「成分表示」やそれの効能について虚偽の情報を提示したり、他の商品が商品棚に並ぶことを禁止したりする可能性があるということだ。
こうしたことは、一般的な競争市場であれば、それを監督する第三者の機関によって法的に抑制され、発覚すれば罰は免れない。
ところが、政治権力においてはそうしたルール(法)を決めるのが多数者の意志によって代表された「商品」自身なのだから、(専制においては)そうしたことは期待しえない。
市場では各商品が(一応)公正で平等なルールのもと自らの魅力を発信し、商品棚に一様に並んで消費者の前に提示されている。
ところが政治の世界は違う。強大な専制権力のもとでは、むしろ彼らが消費者(国民)に対して主導権を握る。
消費主義はこれら重大な点を見逃す。よって専制の誕生を防げない。
したがって、正しい情報のもと、自らの判断で平和裏に政策や代表の変更を行うという機構を維持したいのならば、スーパーやネットショッピングでするように、多様な商品の中から自らの選好を満たす商品を購買する自由をこれからも享受したいのであれば、わたしたちはこの機構を破壊するような主張や立法を行う勢力を立法機関から排除しなければならない。
消費主義はこれまでの議論で示した通りその方法を教えてはくれない。よって別の思考でもって対応する必要がある。
具体的に言えば、私たちは、投票の際に、こうした民主的諸制度や政治的自由を否定する政党(商品)とは異なる、数的に競合する他の政党(商品)に、投票をしなければならない(購入しなければならない)。
たとえ支持する政党がなく、さらにいえば、その競合する政党の提示するマニフェストが、自分が選好するものとは異なるものであったとしても。
これは、そうした危険な政党に対する世論の支持が高くなるにつれてその緊急性は高くなる。
上記の通り、絶対に避けなければならないのは、専制、つまり正しい開かれた情報と公正なルールのもとで、自由に自らの代表や政策を変更、交代できなくなる事態である。よって切迫した状況では、よりそうした苦渋の決断が迫られる。
そしてその際、専制的な傾向を示す人物や勢力を見分けることは、自らの望む政策を展開する候補者を探すよりも、はるかに簡単で、(結果の面で)確実である。
なぜならば、私たちは彼らが発するいくつかの重要なキーワード(例えば「自由」)や、異なる意見や政治上の論敵に対する態度や言動に、多少の注意を向けていればよいからだ。
そして、自らの国家の政治体制が幸運にも専制的でない状態であるうちは、私たちは時々の政治上の判断のミスを、何度でも修正することができるのである。
【補記】
もちろんそもそも民衆に政治的自由など必要ないとする考えもあるかもしれないが、この議論はそのような考えを変えるために書かれたものではない。