ペンギンの飛び方

本を読んだりニュースを見たりして考えたことを、自由に書いていきたいと思います。

集団主義的な利己主義について

 

前の記事でも取り上げたポパーは、プラトンを批判する文脈で、次のような分類を提示します。

(A)個人主義 は (A)´集団主義に対する。

(B)利己主義 は (B)´利他主義に対する。

 ポパーは、こうした分類から、プラトンが(本来違うものであるはずの)個人主義と利己主義を同一視して、その反映として、集団主義利他主義をセットにすることで、個人主義の価値を不当に貶め、集団主義を擁護したと批判しています。

さて、これだけでは話が分かりづらいので、もう少し詳細に考えてみます。

まず、ポパーの分類からすると、このカテゴリーの内部では人間は次の4つのタイプに分けることができるといえそうです(もちろん傾向としてそうであるというだけですが、ここでは議論上、単純化して話を進めます)。

 

個人主義的利己主義 ②個人主義利他主義

集団主義的利己主義 ④集団主義利他主義

 

①に関しては言うまでもないでしょう。「自らが属する共同体のことにはなんら関心なく、己の利益のみを追求する」という文脈での個人主義批判はプラトンの時代から現代に至るまで、様々な場面で見ることができます。

次にとばして④ですが、これもなじみ深いものでしょう。「集団に自己を依拠させ、自集団に対する愛着から、そうした共同体のため、あるいはその成員のために自らを犠牲にする」という人物像はあらゆるフィクションで、(肯定的に)登場してきます。

次は②の個人主義利他主義です。プラトンはこのタイプを無視することで個人主義を攻撃したわけですが、こうした種類の人物を想像することはそう難しくはありません。

貧困や紛争に苦しむ人々は世界中に存在しているわけですが、②に属するタイプの人間は、そのような人々の国籍、民族、思想信条にかかわりなく心を痛め、彼らの手助けをしたいと感じることでしょう。なぜなら、どのようなバックグラウンドを持っていようとも、苦しみにあえぐのは同じ人間であり、彼ら一人一人にはそれぞれの幸福を実現するための権利を持っているのだと、②の人々は考えるからです。

もちろんこれは国内での問題についても言えます。国内に貧困や差別などに苦しむ人々がいれば、②に属する人々は、仮にこのような問題が自らの生活とは直接関係がなくとも、問題を解決しようと努めるでしょう(理路は違えど結果の面でいえば、この点で②個人主義利他主義は④集団主義利他主義と重なります)。

注意したいのが②に属する人々であっても国内問題と国外問題では寄せる関心に多少の差はみられるだろうということです。地理や言語などの問題から、私たちの想像力の範囲は残念ながら限られていますし、それは彼らとて例外ではありません。

ただ、彼らの住む国が民主主義国家であれば、自らが主権者として下した政治的判断の結果である法律や政治体制、社会システムが生み出す種々の問題に対して、他国のそれよりは責任を持つということはある意味で当然という考え方もできるように思います。

最後に③集団主義的利己主義です。これは簡潔に言えば「自らの属する集団の利益のみを考える」というタイプです。これも、容易に想像することができる考え方でしょう。

しかしこの思考様式には見逃せないある前提、ー「集団の利益と自らのそれが連動している」ーが存在しています。集団の規模が大きいケース、例えば国家などの場合、そうした「連動」が発生しない状況は簡単に起こりえます。

よって③において普通想定される集団の規模は、階級であったり、特定の職種だったりするわけですが、時代状況によってはこうした「中間集団」の利益を代弁する組織が弱いか、あるいは存在しないために集団の利益を促進する機会がないという場面が出てきます。

また、集団そのものや個人の動きが流動的になっているために、そのような中間集団にあまり帰属意識を持たない、あるいは利益を考えても意味がないという事態も生じてくるでしょう。

こうした状況で③集団主義的利己主義はどうなるのか。これが僕の問題関心ですが、まず一番には、①個人主義的利己主義に思考様式を変えるというルートが存在するでしょう。

「属する集団の利益の向上を介して自分も~」という道が険しいのならば、己の力を信じて努力するほかありません。この道もやはり相当に困難なものですが、前者よりも回りくどくなくある意味わかりやすいといえます。

しかし言うまでもなく、自らの力で道を切り開くということは誰にでもできることではありません。そこで考えられるもう一つのルートが、③集団主義的利己主義にとどまったままで、その方法と認識を変えるというものです。

まず方法についてですが、③本来の、集団の利益から個人のそれも高める、という流れではなく、利己主義的な思考をまず土台に据え、その後集団を考えるというものになります。つまり、己の利益のために集団を使うという道具的な思考でもって集団を考えるということです。

このため、時々で選ばれる集団は状況によって様々です。 己の利益を最大化する集団が数ある選択肢の中から選ばれます。

そして認識についてですが、「利益」とこれまで書いてきましたが、ここでは利益とは、もはや普通考えられるような、実体のあるものではありません。ここでいう利益とは、自らが属すると決めた集団がそれによって自分に与える高揚感、自己肯定感のことを指しています。

仮にこの思考様式を⑤ネオ集団主義的利己主義と呼んでみるとして、これがもたらす思考の結果を例を挙げて考えてみると次のようになります。

例えば国内の貧困問題に関してですが、 ⑤のような考えの傾向を持つ人々にとっては、こうした問題は非常に目障りとなります。というのも、そうした社会問題を生んでいることそれ自体が、自らの依拠する共同体(国家)の価値を貶め、結果的に自らのそれも削いでしまうと彼らは感じるからです。

よって彼等は、貧困問題をなかったことにしたり、あるいは自己責任だとしてそれを処理します。問題に対して無関心なだけの①個人主義的利己主義とはその点が異なります(もちろん①の人々も自己責任論を唱えることがありますが、その理路が⑤とは違います)。

次に国家間や民族間において生じる問題や論争についてですが、⑤の人々は、自らの属する国家や民族よりもより弱い(と彼らが考えている)相手に対するときは高圧的にふるまう一方で、そうとは考えられない場合は、そうした問題をなかったことにしたり、実際は仲間であるとふるまったり、それも難しいときは、認識上において、自らが相手と同じ集団に属すると判断します。

このように、⑤に属する人々は、集団内部の問題はそれをないものとして処理し、集団間の様々な対立の中では、状況に合わせて、一方よりも(権力や腕力、その他種々のカテゴリーでの「ヒエラルキー」において)より強いと思われる集団に自己を依拠させ常に強者としてふるまうことで、自己の安定を図ります。

この⑤ネオ集団主義的利己主義の厄介なのは、外形的には、集団の利益や価値について熱く語っているという部分において、通常の③集団主義的利己主義、さらには④集団主義利他主義と見分けがつかない点にあります(特に国家間の対立の際それは顕著です)。

しかし、実際には彼らは、自らの集団やその成員の利益や価値、運命について本質的な関心があるわけではなく、それが認識上において自己に何をもたらすかという間接的な関心しか持っていません。

しかもそのような集団すらも、結局、認識上では交換可能な対象であるのです。

ここまで書いてきて、この⑤ネオ集団主義的利己主義は、言ってしまえばいわゆる権威主義なのではないかと感じていますが、それは措くとして、自らの利益の表現をする適切な手段が、個人、集団問わず奪われたとき、あるいは手段としてあっても難しいものであったとき、このような思考が生まれるのではないかと思われます。

 

 参考

 K.R.ポパー(1944=1980)小河原誠 他訳『開かれた社会とその敵 第一部 プラトンの呪文』p.p108‐114 未来社