ペンギンの飛び方

本を読んだりニュースを見たりして考えたことを、自由に書いていきたいと思います。

公文書改ざんと民主主義の危機

 

私は最近、長い間読みたいとは思いつつ敬遠していたK.R.ポパー『開かれた社会とその敵』を読んだ。間違いなく、私がここ数年手にした本の中で、最も衝撃を受けたものの一つであった。

今回は当該本で繰り広げられる議論を用いて、ここ1年半ほどの間世間を賑わせている「公文書改ざん」とそれがもたらす民主主義の危機、そしてなぜ私たちが民主的諸制度を守るべきなのかについて考えてみたいと思う。

 

 

「危機」について考える前に、民主主義と、その対極にある専制の違いをまずは一瞥する。

この区分は基本的にポパーに倣うが、民主主義とはそれが持つ種々の制度や構造からいって、政策の変更や修正、政権の交代などを平和裏に行うことを可能にさせる機構である。

投票権をもつ私たちは、正しい情報がもたらされるのならば、そこから判断して、投票や中間団体による圧力、交渉、その他さまざまな民主的手段によって、間違っている、あるいは失敗している(と思われる)政策や政治家を修正、変更することができる。そして民主主義の制度が維持される限りは、それを繰り返すことができる。

しかし専制国家はそれができない。情報は統制、改ざんされることで、国民は自分の国家が首尾よくいっているのか、政策が効果を上げているのか、はたまた失敗しているのかを知る術を持たない(例えばGDPや失業率が改ざんされた場合のことを考えてほしい)。また、民主的な異議申し立てのルートはあらゆる手段を使って遮断される。

したがってここにおいては、国家の政策やその代表に変更を加えたい場合は、暴力的な革命などの手段か、あるいは慈悲深い君主の心変わりを祈るしかない

 

上記で挙げた区分からすれば、公文書改ざんは、明らかに民主主義の土台を破壊するものであり、専制国家に特徴的なものである。

しかし私は、この点のみをもって現在日本が専制政治の状態にあるとは考えない。というのも、民主的な異議申し立ての手段は今のところ制限されていないからである。

そしてなにより、現状ではこのような不正(のいくつか)は運よく暴かれ、私たちの耳にするところに至っている。情報の統制が完全になされていないために(実際現代社会においてそれはほとんど不可能だが)、日本国民はある程度正しい情報を手にし、政府に働きかけ、さまざまな力を行使し、国家の方針に変更を加えることができる。この点でも、日本はいまだ民主主義国家であるといえるのである。

とは言え公文書改ざんや、政策の根拠となるデータのねつ造という行為は、投票権を持つ私たちに正しい政治的判断を困難にさせる、民主主義にとって致命的なものであることに変わりはない。そういった情報の改ざんはその性質上、往々にして時の政権に有利なように仕向けられ、私たちは事実に即した政治的な働きかけを行うことができなくなる。

そして、異議申し立ての手段が憲法や法律などによって制限された暁には、平和裏に自らの手で政策や政権を変えることができなくなり、ついには専制国家の状態と同じ状態におちいってしまう。

現在日本では、民主主義の土台を破壊し、専制国家への端緒を開くような不正を行った政権が、大した責任をとることもなくその座に位置したままでいる。

 

民主主義国家においては、自らの代表者を誰にするのかを決定する権限は、基本的に国民が握っている。したがって、不正を行った政府がそのまま政権の座に居続けていられるのは、ひとえに国民の多くがその状況を許しているからである。

私はここで、なぜ多くの国民がそのような状況を許しているのかという点については、深くは立ち入らない。しかし二点だけ、それでも現政権を支持する人々の考えに応答する形で、自分の考え(かなりポパーに触発されている部分はあるが)を述べたいと思う。

 

まず一点目。世論調査でたびたびトップになる「他よりよさそうだから」現政権を支持するという意見について。

これに対して私は、政治はこのような消費主義のアナロジーで考えるべきではないと主張する。

よりよく、より高い満足を与える商品、あるいは、他より何かをやってくれそうな、何か期待の持てる商品を選ぶ(あるいは選ばない)よりも、もっともリスクのある、もっとも安全性に問題のある商品を、そもそも商品棚から除外することに私たちは取り組んだほうがよいと私は考える。

つまり、最も危険な政治体制である専制国家を生まないことを念頭に、私たちは政治的な行動をすべきである

これにはそう考えるべき合理的根拠が、これまで挙げた論点とは別に存在する。

それは、「よりよいもの」を探すよりも、リスク排除の観点からの政治的判断のほうが、簡単で確実であるという点である。

確かに、ある政治的ビジョンや、それを達成するためのアイデア(政策)を持つ有権者にとっては、完全とは言わないまでも、意見の似た政党、政治家を探すこと、また他より「マシな」それを選択することが、合理的な政治的判断だと考えられるだろう。

実際、(あまり考えられないことだが)何を選んでも専制の危険性が全くない状況下にあったなら、そのようにして判断することが賢明であると思われる。

しかし、ここにこそ困難が存在する。

現代のような複雑な社会にあっては、何が政治的目標に実際に寄与するかは判断が難しい。ある目標に対する方策を考える中で、研究者であっても意見が分かれている問題に対して、普段の忙しい生活に追われている現代人が「より良い」「正しい」選択をすることは、実際ほとんど不可能に近い

ところがそれにくらべて、専制的な傾向を示す人物を候補者の中から見分けることは、はるかに簡単である。なぜならば、私たちは彼が発するいくつかの重要なキーワード(例えば「自由」)や、異なる意見や政治上の論敵に対する態度や言動に、多少の注意を向けていればよいからである。

そしてなにより、自らの国家の政治体制が幸運にも専制的でない状態であるうちは、私たちは時々の政治上の判断のミスを、何度でも修正することができるのである。

 

 

二点目。多少強引なところはあっても、結局大筋の政策の方向が自分の望むそれと合致している、望む結果を出しているから支持するという意見に対して。

(公文書やデータを改ざんする政府に対して、何を根拠に合致しているのか、結果を出しているのかを判断するのかはかなり疑問だが)、これに対して私は、それでも専制国家よりも、民主主義のほうがより望ましいと主張する。

実際には、ポパーの指摘する通り、民主主義下での政治的判断が、いつも正しいとは限らない。時々の多数派の意見が、国民の生活をより良いものにするという保証はどこにもない。むしろ、善意の開明的な専制君主の採った政策のほうが、日常に追われる大衆に決めさせたよりも、より良いものになる可能性も大いにある

しかしそのような慈悲深い「独裁者」に期待することは、あまりに楽天的であると私には思われる

何より、彼の死後、あるいは引退後はどうするのか。その座を継いだ人物が、前任者の作った専制的な政治制度を悪用した場合、私たちはすでに対抗する術を抑えられているので、それを受け入れざるを得ない。

また、専制的な種々の仕組みが君主の慈悲深さを減じてしまうこともあり得る。ホブハウスの指摘する通り、「他の人びとに対して無責任な権力を行使するというテストに永久に耐えることができるほど、他の人びとより優れ、賢明である人びとはほとんどいない」。*1

これらのことを考慮するならば、専制に対する民主主義という体制は、人類の英知の結晶だとか、最後にたどり着いた理想であるというようなものではない。

民主主義体制が持つ、(開かれた正しい情報のもと)国民が政府の政策、さらには国民自身の選択も修正、変更を可能にさせるというこのトライ&エラーの機構が、他の政治制度とは決定的に異なる点であり、またおそらくは優れた点である。

ポパーは次のように言う。

この観点でみると、民主主義の理論は多数派が支配すべきという原則に基づくのではない。…民主的抑制のための様々な平等主義的方法は、…専制政治に対する制度上の安全装置にすぎず、常に改良の可能性をもち、また自己改良の方法さえも用意している安全装置と見なされるべきである。

この意味での民主主義の原則を受け入れる人は、それゆえ、民主的投票の結果を何が正しいことかについての権威ある表現と見なす義務はない。彼は民主的制度を働かせるために多数派の決定を受け入れるではあろうが、民主的手段によってそれと闘い、またその修正のために働くことは自由だと思うであろう。そして万一多数票が民主的制度を破壊する日を見るまで生きたとすれば、この悲しい経験は専制政治を避けるための絶対安全な方法は存在しないということを彼に教えるだけのことであろう。だがそれでも専制政治と闘う彼の決定を弱める必要はないし、また彼の理論が不整合であることを暴露するものでもない。

*2

 

私たちは失敗する。しかし同時に、それを反省しまたやり直すことができる。

そのためには、専制国家の出現を防ぎ、民主主義を守るための政治的判断をしなければならない。

 

 

 

*1:ホブハウス (1911=2010) 吉崎祥司他『自由主義福祉国家への思想的転換』p170 大月書店

*2:K.R.ポパー(1944=1980)小河原誠他『開かれた社会とその敵 第一部 プラトンの呪文』p130 未来社