ペンギンの飛び方

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J.S.ミル先生によるネットでの議論のための心構え

 

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最近、インターネットがもたらす社会の分断について注目が集まっていますが、なんとなく読み返していたJ.S.ミルの『自由論』に、この問題を考えるヒントというか、分断の時代における議論の心構えとして有用そうな記述がいくつかあったので、今回はそれを取り上げてみたいと思います。

この著作が発表されたのは今から約160年も前ですが、ネット時代の21世紀でも通用するどころか、発表当時よりもむしろ現代の方がその指摘が当てはまるようにも感じられ、とても面白いです。

では、以下にいくつか紹介します。

 

1 各々が自分の主義・主張を表明する自由と、それによる対立した見解を持つ人々の歩み寄りについて

 ミルはこれについて次のように述べます。

どんな意見でも発表できる自由が無制限に行使されたら、宗教や思想におけるセクト主義の弊害が弊害がなくなるかといえば、私はそうは思わない。…

セクト主義は議論が最大限に自由に行われれば解消されるものではない。むしろ自由な議論はセクト主義を逆にしばしば強め、悪質化させる。 

 (引用 J.S.ミル (1859=2012)斉藤 悦則訳『自由論』光文社古典新訳文庫 pp.126‐127)

これの理由として、ミルは論敵が自分たちの側が見つけられなかった真理を主張したとき、それを否定せざるをえないからだと指摘します。というのも、

狭量な人間が真理とやらに熱中すると、もうこの世のほかの真理は存在しないかのように、あるいは少なくとも、自分たちの真理を制限したり修正できるものは存在しないかのように、それを主張し、説教し、いろんな実践方法をくりだすにちがいない。(同上 p127)

からです。ようするに、自分と異なる主張を受け入れる姿勢のない人間同士による議論は、むしろ分断を深めることにつながるというわけです。

しかしミルは、こうした意見の衝突それ自体は、それを傍観する人々にとっては良い影響があると考えます。なぜなら部分的な真理を持つ主張がぶつかり合う場合にのみ、真理はよりすぐれたものになる可能性があるからです。

したがって自らの意見を自由に主張することが許された社会において、危惧すべきは次のようなことになります。

 両方の意見をいやでも聞かされること、これには絶対に希望がある。問題は、一方の意見のみに耳を傾けるようになるときだ。そのとき、誤った意見が定着して偏見となり、真理そのものも誇張されて虚偽と化し、真理としての効力を持たなくなる。(同上 pp.127-28)

サイバーカスケードという言葉もあるように、このような事態に陥る危険性はネット時代において高まっているように思えます。自分も含め、これについては気をつけたいものです。

 

2 議論の際の禁じ手について

 これについて、ミルはまず次のように述べます。

 われわれが論争をするとき犯すかもしれない罪のうちで、最悪なものは、反対意見のひとびとを不道徳な悪者と決めつけることである。(同上 p132)

耳が痛いです(笑)。みなさんも、ネットでよく見かけると思います。

しかしミルの面白いところは、こうした本筋の議論以外での論敵への中傷は、世の中における支配的な意見を持つ側が、特に自制しなければならないと考えている点です。

なぜなら、多数派がこうしたことをやると、反対派は自らの意見を言う気が失せ、反対意見が実際に表に出ることが少なくなってしまうからです。

異なる意見の衝突が、よりよい真理の発見にとって不可欠と考えるミルにとっては、こうした衝突そのものがなくなる事態はなんとしても避けたいもの、というわけです。

さらにミルは、このようなことも述べます。

論争のどちらの側に立つ人であれ、主張のしかたが公平さを欠き、悪意や偏見や心の狭さを露わにしている人は、誰であろうと非難される。ただし、その人がわれわれと反対の立場である場合、彼のそうした欠陥をその立場のせいにしてはならない。(同上 p133)

非常に耳が痛いです(笑)。これもネットで(以下略)。

上にリンクを張った記事中の荻上チキさんの「セレクティブ・エネミー」という概念にも、このミルの指摘は通じるところがあります。

論争中の相手側の主張の中から、極端なもの、明らかにおかしいものを選択し、その原因を彼らの立場に還元し、それでもって論敵全体を攻撃する。

こうしたことは、ネット時代において、より簡単に、大規模に行うことができるようになっていると思います。

 

3 議論における道徳

最後に、ミルの考える、議論の際にそれに参加する人々が守るべき道徳を引用したいと思います。

どういう意見の持ち主であれ、反対意見やその持ち主について冷静に観察し、誠実に説明し、相手の不利な部分をけっして誇張せず、相手の有利な部分、あるいは有利と思われる部分をけっして隠さない人には、当然の賞賛を与える。

これこそが、公の場での議論における真の道徳である。(同上 pp.133-134)

なんとも素朴で当たり前のような感じがしますが、実はこれには次のような文章が続きます。

この道徳が守られないこともしばしばあるが、多くの論者たちはかなりよくこの道徳を守っている。また、さらに多くのひとびとが、この道徳を守ろうとまじめに努めている。これはほんとうに幸せなことだと思う。(同上 p134)

ミルが21世紀のネット上の議論を見て同じことを言えるかどうかはわかりません。

しかし、ネットによって、ミルの考えるよりよい真理の構築、発見のために必要な条件であった、多様な意見(の衝突)がどこでも簡単に見られるようになったことも事実です(それをさせない誘惑も同時にあるにせよ)。

したがって上述のような議論における禁じ手、そしてその際に必要な道徳を理解しそれを守ることで、ネットがもたらす益の部分を、より効果的に引き出せるのではないかと僕は思います。