ペンギンの飛び方

本を読んだりニュースを見たりして考えたことを、自由に書いていきたいと思います。

憎悪と恐怖の世界

 

この前の金曜日、僕が働く職場の上司(30代)が、業務時間中に、近隣諸国の国民全体ををひどく差別するような発言をしました。

これまでも、その人物はその種の発言(すべてが現在インターネットで流布しているもの)を何度も繰り返してきましたが、今回のそれは、あまりに度が過ぎていたため(少なくとも僕はそう感じた)、僕は驚きと悲しみでよくわからない気持ちになりながら、自分の経験から、こういう考えもあるんじゃないかというようなことを口から絞り出し、その会話は終わりました。

その後の業務終了後は、いつものように他愛もない話題で談笑して、別れ、帰宅しました。

ところで、僕の職種は、一般的にほかの多くの職種よりも、高い倫理観を持つべき、とされていて、そのような目で世間からも見られています。また、現在の僕の職場は職員の人数はとても少ないですが、冒頭の上司以外にも、このような発言をする人物が複数います。いずれの人たちも、家庭を持っていて、職務に対しても真面目で、2年目の僕に対しての接し方もいたって普通です。

ところが、彼らがときおり話す内容には、耳を疑うようなものがいくつもあります。「今日はいい天気ですね」くらいの感覚で発せられるそれらの言葉はどれも、僕に向けられたものではありません。しかしそういった発言が飛び出すたび、僕はどうしていいかわからなくなります。

うんうんと相槌をうって同意することは、僕にはできません。でもだからといって、発言に対してはっきりと異を唱えるも、業務上、まだまだ教えを請わなければならない立場である自分と、相手とのこれからを考えれば、それもできません。

 

「社会」に出るってこういうことなのでしょうか?

昔から、このような発言は職場でもどこでも、「社会人の世界」では見られるものだったのでしょうか?

生まれてからこれまで、普段の会話では聞くことのなかった種の差別、憎悪にまみれた発言を、社会人として、働き始めてからたくさん聞いてきました。

僕は以前このブログで、インターネットは「リアル」の社会に対し、「舞台裏」としての機能を担っていて、そこでは「表舞台」では言えない「本音」ーこれには差別的な考えも含まれるーが書き込まれていて、その意味で「本音の領域」である、というような考えを書きました。

その記事では、僕は職場を「表舞台」の例として挙げています。ところが最近の職場の人たちの発言を聞くたびに、それは間違っていたのではないかという思いが強くなります。

記事を書いた当時、僕は大学生でしたが、そのとき表舞台では言えない本音だと考えていた様々な言葉を、職場で、何度も聞いてきたからです。

 

哲学者のラッセルは、彼がケンブリッジ大学に入ったとき、知性や明晰な思考が評価される世界に自分が置かれていると気づき、感動を覚えたと語っています。

僕は職場が、必ずしもそのような場所でなければならないとは考えません。でも働く前は、そういう方向とは別に、高い倫理観と、責任感と、公平な視点をもって全体のために仕事に取り組む、そういう姿勢がよいとされるこの仕事を、自分もこれから携わるということに、一種の期待のようなものを感じていました。

この期待は、ある面ではかなえられています。職務に対しての姿勢や、後輩に対しての指導、あるいは仕事上の「客」への対応は、彼らにも、尊敬する部分が多くあるからです。

でも、根本のところで、おかしいのです。

僕が彼らの意図する攻撃の対象ではないことを当然視して、彼らはこれからも、差別と憎悪のにまみれた話題をぼくに振ってくるでしょう。

他集団に向けられる彼らの残酷さ、それを知ってしまった僕は、本当ならもう彼らと一緒に仕事をしたくはありません。でも、僕はこのことで、仕事を辞めたいと考えるほど悩んでいるわけでも、正直ないのです。率直に言うならそれは、現状、僕自身にこれらの発言の矛先が向けられてはいないからです。

もちろん、僕のような態度は、状況を悪化させるだけであるとは、僕自身もわかっています。

でも、世の中全体が、そうした発言を許容する雰囲気になっているのならば、つまり、職場が表舞台ではなく、実は本音の領域である裏舞台だったなどということではなく、実際のところ、あの種の考えが、もはや隠すべきものとしてみられなくなっているのだとすれば、あのような会話に遭遇した一人の人間に、できることはほとんどないようにも感じてしまうのです。

下記に続くナチ時代を過ごした言語学者の告白が、最近、僕の頭の片隅に常にあります。

 

「気がついてみると、自分の住んでいる世界はー自分の国と自分の国民はーかつて自分が生れた世界とは似ても似つかぬものとなっている。いろいろな形はそっくりそのままあるんです。家々も、店も、仕事も、食事の時間も、訪問客も、音楽会も、映画も、休日も…。けれども、精神はすっかり変っている。にもかかわらず精神をかたちと同視する誤りを生涯ずっと続けてきているから、それには気付かない。いまや自分の住んでいるのは憎悪と恐怖の世界だ。しかも憎悪し恐怖する国民は、自分では憎悪し恐怖していることさえ知らないのです。誰も彼もが変って行く場合には誰も変っていないのです」*1

 

 

*1:丸山眞男「現代における人間と政治」杉田敦編 2010『丸山眞男コレクション』平凡社ライブラリー p.405 ミルトン・メイヤー『彼等は自由だと思っていた』より