ペンギンの飛び方

本を読んだりニュースを見たりして考えたことを、自由に書いていきたいと思います。

ある種の寄付の呼びかけに対する違和感

 

「あの時○○人は私たちにたくさんの寄付をしてくれた。だから今度は私たち××人が、その恩返しをする番だ」

このような言説を、(特定の)諸外国で災害が起きた際に見聞きしたこと、みなさんはあるでしょうか。

この種の寄付の呼びかけには、時に「義務」を迫るようなものも存在しますが、僕はそういったものを見聞きするたびに、いつもどこか心にひっかかるものがありました。が、それがなぜなのかはよくわかりませんでした。

ところが最近この違和感は、僕の中の「道徳的個人主義」からくるものだと気づき少し納得したというか、自分の価値観の、ひとつの方向性を発見して、少し驚いています。

 

以下にこのような言説に対する、道徳的個人主義の観点から見た違和感を、いくつか挙げてみたいと思います。

なお、今回の記述は、だから上記のような寄付の呼び掛けはやめるべきだ、と主張するものでも、また、そうした結論を導くものでもないないということを、はじめに断っておきます。

さらに、最終的な寄付の多寡を重視する結果主義、功利主義を視野にいれたものでもないことも同時に断っておきます(もちろん、これらの原理からの批判は可能だとは思いますが…)

では、いくつか挙げてみます。

 

1.その寄付は○○人として行われたのか

まず一つ目は、これです。 外国で起きた災害に対して寄付するという行為は、寄付する側の国籍という社会的アイデンティティが、直接的に作用した結果なのでしょうか?寄付した人間は、自らの国籍を念頭において、○○人という属性を根拠として、○○人として寄付を決断したのでしょうか?

同じく例えば国内で災害が起きた際、それに寄付する国民は多いと思われますが、それは国籍を意識した結果、「同じ国民だから」という理由でなされるものなのでしょうか。

むしろ、国籍という条件が「結果的」にもたらす、社会的、心理的、地理的距離、または実際に被害にあっている家族、親類がいるという事実、あるいはその災害に関する情報の膨大さ、そして寄付の窓口の多さ、しやすさが影響しているのではないでしょうか。

これは、中東におけるテロと、欧米先進国でのテロに対しての、人々の関心度の違いを生む構造と少し似ています。

人が自分以外の人々の苦難に心を痛め、その悲しみを共感できるのかは、国籍そのものというよりも、国籍やその他の諸条件が結果的にもたらす、上記のような要因によって、自己とその集団の近接性が本人にとってどう感じられるかにかかっています。

寄付という行為は、そのような意味で感情的なものです。したがって寄付する際、「○○人として」、というある種の義務論的な要素は多くの場合入ってきません。そのような属性は、結果的に寄付という行為を生じさせるかもしれませんが、その作用は上記のように、間接的なものにとどまるように思われるのです。

したがって個人的には、外国からの寄付を国籍で括り、それを「恩返し」の根拠として持ち出すのは、寄付した人々を単純化する、寄付を受けとる側の理屈だと感じます。

 

 2.その寄付は××人として受け取ったのか

1.と同じ理由で、この疑問も生まれます。その寄付は、○○人が、災害が起き、困難な状況にあるのが××人であるということを直接の根拠として、行ったものなのでしょうか?

そして寄付を受け取る側は、災害に苦しむ人としてではなく、××人として、それを受け取るのでしょうか。

1.の議論からすると、このような考えも同様にしっくりこないような感じがします。

 

 3.××人として寄付の恩返しする義務はあるのか

1.2.の議論から必然的に導かれるのが、この疑問です。○○人が、自らの国籍と、災害の起きたのが××という国であるということを直接の根拠として寄付をしたのでなければ、××人の方も、××人として恩返しする義務はないということになります。

そもそも寄付という行為の考え方からすると、義務的な寄付の呼びかけは少しずれているような感じがするのですが、社会における「返報性」(『影響力の武器』参照)の原理からすると、過去に受け取った寄付に対しての義務論的な考え方は多くの人が持っているものだと思われます(僕も持っています)。

しかしそれでも、これまでの議論から考えると、たまたま○○人が多くの寄付をしたからといって、寄付を受けた被災者の住む××という国の××人全員が、その国籍を根拠として、○○人という抽象的な属性に対して、「恩返し」という義務を背負うわけではありません。

返報性の原理からの、このような国籍という属性でくくるような寄付の呼びかけには、間に大きな飛躍があるように思われるのです。

 

 4.○○人以外の国はどうなるのか

結果主義的な話は視野に入れないと最初に断っておいてあれですが、この種の寄付の呼びかけと、それに伴う寄付の考え方がもたらすと思われることを一つだけ書いておきます。

それは、○○人以外、それも例えば貧困国の人々はどうなるのか、という問題です。

というのも、このような寄付の呼びかけには、多くの場合、過去の災害時の○○人からの寄付金の具体的な額が、恩返しという義務の発生要因として使われているからです。

この論理によって寄付が行われるとするならば、そもそも多くの寄付ができない経済的に苦しい人々が多く住む国やそこに住む人々は、いつまでたっても手厚い「恩返し」が期待できないということになります。

しかし実際には、一番寄付を必要としているのは、そのような国の人々なのです。

もちろん、こうした論理で寄付が行われていなくとも、寄付が近接性という感情的な要因で行われているとするならば、この種の問題は生じえます。

しかし、寄付金の多寡を国籍という属性で括り、そして同時にその属性によって受け取るならば、このような隘路から抜け出すことは非常に困難であると思われるのです。