ペンギンの飛び方

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「サプライズ家事」の論理と心理

 

先日、母から次のような話を聞きました。

 

ある晩、仕事が長引き、母がいつもより1時間ほど夜遅く家に帰ってくると、すでに帰宅していた父が(どちらもフルタイムの共働きです)、台所にあった水に浸された1.5合のお米(母は帰宅後の早炊きを習慣にしています)を炊飯器に入れセットしており、すでにご飯は炊きあがっていた。

しかし普段から家事をほとんど全くしない父は、その米が何合なのか分からず、2.5合だと判断して、その目盛りに合わせ水をいれていたため、炊きあがった米は非常に水っぽくなっていた(何とかして食べた)。

この件の数日前にもほとんど同じことがあり、その時は母が炊飯開始直後に帰宅したため事なきを得ていたが、その時にも米の量は1.5合だということは伝えていた。

しかし連絡や相談もないままに再び、父は2.5合の炊飯をしてしまい、帰宅した母に意気揚々と炊飯をした旨を報告した父は、母の指摘と炊きあがったご飯の出来にしょげていた。

 

この話を聞いて僕は学生時代のことを思い出していました。

僕の父は、上述のとおり普段ほとんど家事をしませんでしたが、散発的、また突発的に、あるいは「気まぐれ」に、母に相談や連絡をせず、難しい(これは言葉通りの意味だけでなく、本人の経験から考えて「本人にとって難しいと思われていること」も含む)家事に挑戦する=「サプライズ家事」をすることがありました。

炊飯器の例のようにこの挑戦は失敗に終わってしまうことも少なくなかったのですが、挑戦を終えた父はいつも母のリアクションを待ち遠しくしているのでした。

学生時代のあの光景は今も続いているのだと少し懐かしくなってしまった僕でしたが、同時に、「なぜ父は同じ失敗を繰り返すのだろう。なぜ役割として家事を少しでも引き受けないのだろう」という疑問も浮かんできました。

もちろんこれは今回が初めてというわけではなく、振り返れば一緒に暮らしていた学生時代から多少なりともこの疑問が頭に浮かぶこともありました。が、その時はこれについて深く考察することはありませんでした。

今回はこの「なぜ父は家事を役割として引き受けないのか」「なぜサプライズ家事で終わってしまうのか」という疑問について、家事をする「動機」という観点から、これらの手短に考えてみたいと思います。

 

まず家事を自らの役割として引き受ける場合を考えてみます。

習慣となった後は別にして、一般にあまり家事をしない夫(ここでは、おそらく実態として多いと思われる夫とします)がそれらを自らのものとして引き受けていく過程では、「家族の一員として家事には自らも参画する義務がある」というような思いが、(意識として感じられるかは別にして)多少なりとも行動の動機となっているように思われます。

もちろん、そのような「高尚」なものではなくても、「同じ家族として負担を押し付けるわけにはいかない」とか、もっと単純に「妻の助けになりたい」などの気持ちも、家事を自らのタスクとして認識する積極的な動機となるでしょう。

このような動機に根差した家事の実践は、突発的になることはほとんどなく、配分された家事を自らの役割のものとするために、まず簡単なことから始め、遂次妻に教わりながら、スキルを上達させ次第に習慣化させていくはずです。

なぜなら、そうでなければ長期的な視点から見て妻の負担を軽減させることができず、「妻の助けになる」ことや、家事を通しての「家族の一員としての参画」の実現からは程遠いものとなってしまうからです。

 

次に「サプライズ家事」をする場合を考えてみます。

これまでの考察をふまえれば、「サプライズ家事」には、上記の「家事を自らの役割として引き受ける」場合とは異なる動機があるように推察されます。

ではどのような動機が、夫を突発的で気まぐれな家事に向かわせているのでしょうか。

その一つには、単純ですが「褒められたい」という気持ちがあると僕は考えます。

ここでは、家事という行為は、義務論的なものでも、妻(の人格)を目的にするものでもありません。あくまで、家事を通して自らが妻に褒められることが目的なのです。

「サプライズ家事」の特徴に「突発性」とか「気まぐれさ」というものがありましたが、家事の目的が褒められることにあるとすれば、これらの特徴は夫の怠惰の結果なのではありません。

むしろ、「褒められる」という目的のための手段だと考えられます。

というのも、ある家事が習慣として、その人の役割として一度認識されてしまえば、もはやその家事をするたびに、褒められるということはなくなってしまうからです。

やって当たり前、やれて当たり前になれば、日々多くの家事をこなす妻が、一つの家事をするごとに毎日、逐一、賞賛され感謝されることもないのと同じように、日常の光景として処理されることになります。

つまりここでは、「気まぐれさ」は、家事という行為の新鮮さを保つための技法として使われているのです。

「事前の相談や連絡の不存在」や、「難しい家事への挑戦」も同じです。家事に際してのサプライズ感が高ければ高いほど、その分賞賛の度合いは高くなるという想定がそこでは働いていると考えられます。

 もちろん、「褒められたい」という気持ちが、家事を自らの役割として引き受けている場合に、一切ないというわけではないと思われます。

重要なのはその程度で、それがあまりに強すぎるときに「サプライズ家事」の生まれる可能性が高くなるのだと僕は考えています。