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ペンギンの飛び方

本を読んだりニュースを見たりして考えたことを、自由に書いていきたいと思います。

電車内での化粧と「儀礼的無関心」

社会

 

最近の記事ではゴフマンを何度か取り上げましたが、先日電車内での化粧についての記事を見かけたので、前々から書いておこうと思っていたこれら電車内でのマナーについて、ゴフマンの「儀礼的無関心」と絡めながら考えてみたいと思います。

anond.hatelabo.jp

 

まず儀礼的無関心の意味についてですが、こちらのページを見ていただければ大体分かると思います。

 

d.hatena.ne.jp

ようするに「儀礼的無関心」とは、見知らぬ人が多く集まる公共空間において、互いの尊厳と場の秩序を維持するための技法のことを指しています。

例えば電車では、閉ざされた空間で見知らぬ人間同士が密着せざる負えない状況が日々作り出されていますが、まさにそうした場でこの儀礼的無関心は必要となってきます。

電車の場合よく挙げられる無関心の例に「むやみに他人を凝視しない」というものがありますが、今を生きる私たち現代人は、無意識にこのような「儀礼」を駆使して日々を暮らしているわけです。

 

さてここで電車内での化粧について考えてみましょう。

電車という公共空間は先ほど説明した儀礼的無関心によってその場の秩序が保たれているわけですが、そこでの化粧はその場にどのような影響を与えるのでしょうか。あるいは電車内の人々にどのような印象を持たせるのでしょうか。

 

まず考えられるのは化粧のような一般的に自宅などの公共空間からは見えない私的領域においてされるような行為を公共空間に持ち込むことは、周囲の人間に「自分を完全に無視している」(≒疎外感)と受け止められる可能性があるということです。

ここで重要なのは、電車内で必要とされる無関心はあくまで「儀礼的」、つまり「ポーズ」や「フリ」なのであって、最初から周囲に対して「完全に」無関心であることは想定されていないという点です。

したがって電車内での化粧は、周囲の人々、空間に対しての当人の完全な無関心の態度の証左とされるとともに、公共空間での私的領域の拡張、私的行為への没頭ととらえられ、儀礼的無関心に拠って成り立つ電車内の秩序に対する潜在的脅威とみなされてしまうのです。

この構造は携帯電話の通話やイヤホンからの音漏れ等の電車内でのほかのマナー違反にも当てはめることが出来ます。

電車内での会話が許容されている一方で、これらのことがマナー違反とされるのは、前者はそれがその「空間内」のメンバー同士でなされることで、周囲の環境に対する関心を完全に遮断するものとは考えられてはいないからです。

つまり電車内においてある行為がマナー違反なのかそうでないのかは、上記の例で言えば「騒音」という観点からみた音の大小などのように、必ずしも具体的に周囲の人間に害を与えるか否かという基準では決められていないのです。

ここでは当該行為が儀礼的無関心の範囲を逸脱したものかそうでないのかが、重要なファクターとなるわけです。

 

とはいえ僕自身は、電車内での化粧と今挙げたような携帯電話の通話やイヤホンの音漏れを、マナーという括りで一緒に論ずることには抵抗感があります。

というのも、携帯やイヤホンに関しては、曲がりなりにも「音」という具体的な形で周囲に悪影響を与える可能性のある要素があるのに対し、化粧にはそのようなものがないからです。(中にはファンデーションの粉が飛ぶからという意見もありますが、その割には啓蒙ポスターや広告にはそのような文言はめったに登場せず、「みっともないから」というフワッとした理由付けが多く感じます)

そもそも化粧が問題視されるのなら、同じく周囲への無関心を想起させうるスマホの使用、ゲーム、読書はどうなるのでしょうか。これらの行為は空間から隔絶された外部メディアへの接続という点では、化粧よりもその無関心の度合いが高いといえなくもありません。

いや、それよりも「睡眠」はどうでしょうか。よく考えれば「睡眠」ほど周囲への完全なる無関心を示す行為はありません。なぜなら覚醒してないのですから。ついでに言えば一般的に睡眠は自宅などの私的領域で営まれることでもあることから、その私秘性もある程度高いと言えるでしょう。

しかし電車内での睡眠は特にマナー違反とみなされてはいません。

こうなるとやはり化粧に関しては何か別の観点から考える必要があるように思えます。

僕が今考えているのは化粧に対する人々の認識の違いです。僕は化粧をしないのでくわしいことは良く分からないのですが、化粧を何のためにしているのかは、人によってかなりばらつきがあるような気がしています。

例えば仕事のため仕方なくする人、化粧自体が好きで外出するときはいつもする人、誰か特定の人に会うためにする人、社会人として他人に会うときはするのが常識だと思っている人…などなどです。

このようなばらつきがある中で、例えば仕事の為に仕方なく化粧をする人が、時間がないためにやむを得ず電車で化粧をした場合、それを見た外出して他人に会うとき(他人の目に触れるとき)は化粧するのが常識だと思っている人はどのような印象をその人に持つでしょうか。

おそらくそこでの疎外感、化粧をする人から発せられる自身に向けられた無関心の度合いは、他のマナー違反のそれとは一線を画す程強く感じられるものとなるでしょう。

僕は記事の最初の方に「化粧のような一般的に自宅などの公共空間からは見えない私的領域においてされるような行為」と書きましたが、なるほどこの認識は浅いところでは多くの人に共有されたものではあるけれども、上記のように化粧に対する考え方の違いによって、その認識の度合いに差があることが、問題の一つの要因であるような気が現時点ではしています。

 

解決策として

マナー違反とされる行為は電車内の空間の儀礼的無関心に拠って作られた秩序への脅威とみなされるがためにタブーとなってしまうと説明しました。

マナー違反をする人、それを見て不快に思う人双方がwin-winの関係でこの問題を解決するためには、別の方法で電車内の秩序を構築するという方法が考えられます。

例えば、通常の車両と隔絶した、儀礼としての無関心の範囲を逸脱するとみなされたためにマナー違反となった行為を許容する車両を作る、というような方法です(もちろん周囲に実害を与えるような違反・犯罪はNoです)。

鉄道を運営する会社側がこのような「完全な無関心」を認める車両を一部設け、車内の状況・文脈を予め設定することで、人々に儀礼的無関心による秩序に依存しない公的空間を作るように仕向けるわけです。

特に時間的余裕の無い日本の朝の通勤時間帯においては、この車両は電車に乗る間に出来ることの選択肢を広げるので、多少の需要はあるような気もしています。

(とはいっても、その前に労働環境と朝の電車の混雑を改善する必要がありますが…)