ペンギンの飛び方

本を読んだりニュースを見たりして考えたことを、自由に書いていきたいと思います。

インターネット・ミームと「想像の共同体」

 

インターネットでは数多くのミームが生み出されてきました。

その中にはそれが生み出された背景や文脈を深く理解しないと意味が全く分からないものもあり、そのようなミームを多用し、一見何を話しているのか分からない会話を繰り広げ、ひとつの文化圏を作り出しているような場所も存在します。

僕は今となってはあまりそのような場所には訪れないのですが、かつてはよくそこを見に行ったりもしていました。

そして当時、僕はそこで頻繁に繰り広げられるある光景に疑問を感じていました。

というのは、そこにいる人々は、そこで使われるスラングが正しく使われないと非常に腹を立てるのです。さらに、それが外に持ち出され、その場所ではないところで使われているのを知っても、それは激しく怒り出すのです。

このような現象はその熱量は違えどネットの広範な範囲で見られます。

例えば特にネット発のミームがテレビ等の既存メディアに取り上げられた時、その際の感情は様々であっても、多くの人がそれに対して敏感な反応をしているということは共通しています。

というわけで今回は、スラングの誤使用と外部への持ち出しに対する怒りの背景を、タイトルにあるように政治学者ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」という議論から考えてみたいと思います。

 

アンダーソンは、著書「想像の共同体」で、国民の間の強力な共同体的意識はなぜ生まれたのかという問いをいくつかの観点から解明していますが、その中の概念のひとつに「出版資本主義」と呼ばれるものあります。

出版資本主義とは簡単に言えば、印刷技術の向上と資本主義の合流によって新しく一般民衆を対象にした、産業としての出版物の流通・販売の拡大の事を指しています。

出版資本主義はその利益追求の性格から、領域内の多数の人々が理解できる俗語をその出版物の言語として採用しなければなりませんでしたが、それは領域内において機械的に組み立てられた「出版語」の発明をもたらしました。

それは多様性のある口語の市場規模の狭さから考えると想定される成り行きで、これが公教育による識字率向上もあいまることにより、やがて限られた領域内において共通の(読み書き)言語が定着していきました。

このことは、それによって可能となった新聞や小説などの出版物を媒介とした共通体験や、人々の相互理解をもたらします。

アンダーソンによればこれによって、同じ言語を共有する領域内の人々の意識に、想像された共同体として「国民」(と、その集合体である「国家」)が作り出されたとしています。

さらに、言語が地球の全域においてひとつに統一されなかったことは、国家間の共通言語による民衆同士の相互理解を不可能にしましたが、これによっても共同体としての意識はより強いものとなりました。

というのは、それによって閉じられた領域内でのみ通用する共通言語の存在が際立つことになり、そこに独自性という価値が付与され、それを共有する集団内により一層の共同体意識が生まれるからです。

さて、これらの議論を今回のテーマに当てはめて考えてみたいと思います。

 

ここまでの議論から考えると、ネット上で互いにスラングを多用したコミュニケーションをしている人々は、その限定された領域でのスラングの共有と使用によって、一種の想像された共同体意識を持っていると考えられるのではないでしょうか。

つまり彼らは、国家における国民でもない、インターネットの限られた特定の領域において、特定のジャーゴンを媒介項とした共同体を作り出し、そこの住民としてその場所に帰属意識や共同体意識を抱いていると言えるのではないか、と考えられるのです。

そこでは国家領域のそれよりも、その「言語」が厳格に、独占的に使用されます(と言ってもそれが達成されるているわけではないですが)。

なぜなら、おそらくネット上でのテキストを使ったコミュニケーションにおいて、共同体意識を作り出す方法は、国家領域におけるそれよりも数が限られているからです。

よって特定領域にしか通用しないジャーゴンを非常に厳格に運用することが、共同体意識のため、最も手軽で強力な、ほぼ唯一の手段として採用されます。

その意味では、ネットにおけるスラングを利用した共同体は、それによって共同体意識を高めているというだけでなく、スラングを用いたコミュニケーションそのものに、共同体としての本質があるようにも考えられます。

したがって正しくスラング≒「言語」を使えないことや、それを外に持ち出すこと、領域外の人間が使うことは、そこに帰属意識を持っていた人にとって、その閉鎖空間に穴を開け、それを用いたコミュニケーションによって成立していた共同体幻想を壊してしまう行為、と言えるのです。

 これらのことが彼らがあれほど腹を立てていた要因ではないでしょうか。

 

インターネットはここ10年ほどで非常に大衆性の高いものとなりました。この流れは特にSNSの出現によって拍車がかかっています。

したがってかつてのようにネット上の限られた空間で、特定の人々同士がひそひそと内緒話をするということは難しくなったように思います。

結果、ネット上のどこかで生み出されたミームは、面白いと評価されればすぐに拡散されネットの全体へと広がっていきます。*1

これは確かにそのミームが誕生したコミュニティの住人で、そこに強い帰属意識や共同体意識を持っていた人からは面白くない傾向かもしれません。

ただ、これをネット全体としてみるとどうでしょうか。新しく発明されたミームが発生した場所にとどまることなく広がり、ネット全体の共通言語・文化となる。

これは広い視点で見れば、インターネット全体をその領域とした、現実とは異なる言語圏を持つ、新しい巨大な想像の共同体の出現と言えるのかもしれません。

 

僕は21世紀になって、既存のメディアによって再生産されてきた従来の意味での国民としての共同体意識は弱まっているように感じています。

出版物意外にもテレビや音楽や映画など、確かにかつてより日本人ならみんなが知ってる○○というものは少なくなりました。*2

これはネットの出現がそうさせたのか、あるいはネットがなくても遅かれ早かれこうなっていたのかどうかは僕には分かりません。

ただ、このように国民としての共同体の紐帯が弱まったために、それを補う新しい帰属先としてインターネットが選ばれ、また、そこでの共同体意識の強化としてネットでは日々新しいミームが生まれそれが拡散されていく、ということは言えるのかもしれません。

 

補記

なおここではインターネットにおけるナショナリズム的(のように見える)言説の拡大は視野に入れていません。

これはもっと様々な観点から考える必要があるように思えます。

 

 

 

*1:正確に言えば評価されなくとも、そこの住民の多くがSNSなどを掛け持ちしていた場合、自然と広がる可能性は高まります

*2:といっても僕自身そのような時代をリアルタイムで経験しているわけではないです