ペンギンの飛び方

本を読んだりニュースを見たりして考えたことを、自由に書いていきたいと思います。

平和なコメント欄の作り方

 

近年ニュースサイトのコメント欄は世界的に廃止傾向にあります。

 

wired.jp

 

「ウェブ人口の増加により節度を保つことが難しくなったから」というのがその理由だそうです。

とはいえ、日本では依然として多くのニュースサイトでコメント欄は存続していますし、手軽に他人の反応を見るためにはやはり有用であると言えます。

コメント欄の中で自分の知らなかった情報を得ることも、常にではないですがありますし(信憑性の問題はあります)、自分とは違う視点からの意見を見ることは重要です。

ただ、「節度を保つことが難しい」とはその通りで、そのため冒頭の通りコメント欄は閉鎖され始め、ニュースへの反応を見る場としてはよりオープンな場であるツイッターやFBなどのSNSが台頭しています。

こちらであれば確かにニュースサイトの管理責任は発生しませんし、記事ごとのコメント欄という空間の断絶によって生じるある種の極性化も軽減されるでしょう。

しかし、その場ですぐに他人の反応をまとめて見ることが出来ると言うのはやはり強みであると思います。

 そういうわけで今回は、ニュースサイトにコメント欄を設けたとして、そこで生じてしまう弊害を軽減する方法はないか考えてみたいと思います。

 

「コメント欄」というものにまず何より常に付きまとうのが、すでに上でも触れた通りサイバーカスケード、つまり「集団極性化現象」です。

ニュースサイトのコメント欄がSNSと大きく異なるところは、ニュースごとにコメント欄が空間的に仕切られているという点ですが、これにコメントの評価システムが組み入れられると、極性化は非常に起きやすくなります。

なぜならその空間の中でより高い評価を得るために、ユーザーはよりラディカルなことを言おうとするからです。

ラディカルになるためには最初に何かしらの「傾向」が必要ですが、それはそのニュースサイトの住人全体から方向付けられることもありますが、個別のニュースで決まることもあるでしょう。

例えばあるニュースが政治家の汚職を報じるものであった場合、よほどのことがない限りコメントの方向性は最初から政治家への非難に向けられます。

公人・特定の個人である政治家であればまだいいですが、これが例えば近隣諸国を批判するニュースであったり、国内のマイノリティである民族・あるいは人種の犯罪を報じるものであった場合は、コメントが差別的なものとなってしまうのは実に簡単です。

 

次に「コメント欄」に付きものなのが「沈黙の螺旋」です。これは独の政治学者ノエル・ノイマンが提唱した仮説で、「社会で多数派と自認している人々は公共の場で自身の意見を積極的に訴えやすくなる一方で、少数派と認識した人々は孤立を恐れて逆に訴えにくくなる」というものです。

その結果、意見の分布は実態より極端なものとなり、それがさらに多数派の優位を作り出し、少数派は劣勢を強いられそして沈黙していき、さらに意見分布が偏っていき・・・これが「螺旋」と呼ばれるプロセスです。

僕は集団極性化と同じく、コメントの評価制がこの現象をより強くしていると感じています。

というのも、コメントの評価制は欄内の意見分布を数値化させ、そして往々にしてそのコメント欄は寄せられた評価順にコメントを並べているからです。

そしてさらに言うなら、その評価制が「逆評価」もできるシステムであったなら、「沈黙」さらに強いものとなるのではないかとも考えています。

なぜなら孤立どころか、少数派、というよりも反対されているということが具体的な数値となって可視化できてしまうからです。

はてなブックマークのコメント欄が他のサイトのそれよりも殺伐とせず多様な意見が存在できている(と個人的に思っている)のは、この逆評価システムが実装されていないからだと僕は勝手に考えています。

 

さて、この2つのリスクを軽減するためには何が必要でしょうか。評価制は確かにこれらのリスクを高める可能性を持っていますが、より良いコメントを書こうとする動機付けとしては不可欠であると思われるのであまり外したくありません。

そこで僕がサイトの集客力・利便性度外視で思いついたのが、

「自分で記事に対してコメントを書いた後でなければコメント欄を見ることが出来ない*1」というシステムです。

実はこれは上2つのリスクを考える中で着想したわけでなく、最近の僕の個人的な経験が元になっています。

はてなブックマークでは頻繁に新聞社の提供する記事が上がってきますが、僕は最近になって、自分が常に当該記事に寄せられたブコメの反応を意識、あるいは予想しながらホットエントリしてきた記事を読んでいることに気づきました。

こうなると、よく考えると何が本当の自分の感想だったのか、その予想に引っ張られたのかむしろそれに反発した結果なのか確固たる自信が持てないのです。

そこで僕は、実際にコメント欄を見なくても、すぐにでも記事への反応を見れるという環境が、自分とは異なる価値観を持って、そして明確な意思を持って同じ記事を読んでいる他者の存在をより強固にしているのではないかと考えました。

 

これと似たようなことが小学生(中学だったかも)時代にもありました。ある日なにかの機会で教室でテレビを見ることになった時のことでした。

そのテレビの中で家でもよく見るCMが流れたのですが、そのCMに出てきた人物の容姿に対してクラスのやんちゃな生徒の何人かが悪口を言い、クラスメートの多くが笑ったのです。

僕は何も口に出さなくても、とその瞬間思ったのですが少し経ってからふとあることに気づきました。

実は僕もやんちゃな生徒の発言と全く同じことを、その発言の前から頭の中で考えていたのです。そしてそれは、家の中で一人でそのCMを見ていたときには、全く考えたことも無かったことでした。

当時はなぜこんな違いが生じたのか分かりませんでしたが、おそらくこういうことだろうと今では思います。

 

同じCMを同じ空間で観ている、目に見える他者の存在が、僕にCMへの感想の保持を迫った。

感想を持つにあたって、僕はクラスメートがどんなことを考えているかについて必死で思いを巡らせた。それは単純に、異なる意見を持つことが怖いから。

なにか分かりやすい「指標」は無いか、あれかこれかと探しているうちに、気づくと僕はCMの登場人物の「粗」を探していた。

 

話が行ったり来たりしてしまいましたが、

「ある物事に反応しうる他者の存在は、ただそれだけで自身の意見を変える力を持っている」

ということが僕の言いたいことでした。

そういうわけでこの他者の存在を、記事を読む数十秒だけでもできるだけ意識から遠ざける必要があります。

そのために思いついたのが、

「コメントを書いた後でなければコメント欄を見ることができない」というものでした。

 もちろん記事に対する他者の反応を知る方法は今では沢山あるわけで、そうでなくともこれだけで他者の存在が全く無くなるわけではありません

 ただやはり個人的には、実家で開いて新聞を読むときと、ホットエントリに上がってきた記事をネット上で読むときの感覚は大きく異なるように感じるのです。

 

集団極性化」と「沈黙の螺旋」に対しては当然完全にではありませんが、少なくともそのコメント欄においてはある程度のリスクの軽減が図られるのではないかと思います。

なお、他人のコメントに対するコメントは最初の自分の記事に対するそれとは別に確保されるべきで、むしろより活性化されるべきだと思います。

これは最初の記事へのコメントの推敲をより促す効果を期待するもので、つまりコメント欄においてはユーザーは書くだけの存在ではなく、同時に書かれる存在であるべきということです。

 

補記

 こういうサイトはすでにあるのかもしれませんが、もしあったとして僕は行ってそこで書き込んでみようとは積極的には思わないです。(笑)

 

 

 

 

*1:そして一度書いたコメントは原則書き直すことが出来ず、残すか消すかしか出来ない。書き換える場合は過去の書き込みは消すことが出来ない