火事場泥棒はなぜ「外」からやってくる
こんにちはhuman921です。
今回の熊本での地震、ネット上ではいくつかの流言飛語が流れ、その中には、目を覆いたくなるようなものもありました。
その中には被災地における犯罪に関して、何の根拠も無い流言もありました。
そのような状況の中で、僕はどうしても気になったことがあります。
それと言うのが、そもそもなぜ被災地での犯罪はこれほどまでに人々から非難を集めるのかというものです。
まだ地震が起きて間もないころから、面白半分で(被災地へ注意を促すような体を装って)上記のようなデマ・流言を書き込む人々はいました。そしてある程度時間がたち、泥棒等被災地での種々の犯罪への懸念がささやかれるようになってからも、根拠もなしにそれらの犯罪が特定の集団によるものだとする書き込みも見受けられました。
そして今では、実際に事件が起き(今回は未遂のようでしたが)上記のような報道が出てくるようになっています。
僕はこれら一連の人々の書き込みや、報道に対しての反応を見るにつけ、デマを流したかどうかとは関係なく多くの人々が、被災地での犯罪に対して一様に強烈な憤りを感じているということに(改めて)気づかされました。
このような犯罪を「日本人ではない他の集団」に擦り付ける・あるいはそれを予期する流言は、「こんなひどいことを日本人がするはずが無い(あるいはしてほしくない)」という感情から生まれたのだと推察できますが(もちろん愉快犯である可能性もありますが)、この流言は、実は多くの人々が共通して持っている被災地での犯罪に対しての強烈な憤りを下敷きにしているように僕は思うのです。
ここで最初の疑問に戻ります。そもそもなぜ、被災地での犯罪はこれほどまでに人々の感情を逆なでするのでしょうか。
被災地での犯罪に対しては、それがたとえ殺人や放火など、刑期の点から言っても一般的には重罪と見なされるものとは一線を画すような窃盗などのいわゆる「火事場泥棒」でさえも、人々は強く憤り、犯人とされる人物に強い非難を加える傾向にあります。
「地震で被害を受けた人々に追い討ちをかける卑劣な行為だから」と、一言で片付けてしまうのは簡単ですが、今回はもう少し、この件に関して考察を加えてみたいと思います。
犯罪には、「理想的な被害者」なるものが存在すると言われています。それは犯罪被害において人々から同情を集め、共感されやすい人々を指すのですが、その「理想的な被害者」の条件には次のようなものがあるようです。
上記事からの引用です。
(1) 被害者が脆弱であること
(2) 被害者が尊敬に値する行いをしていること
(3) 被害者が非難されるような場所にいなかったこと
(4) 加害者が大柄で邪悪であること
(5) 加害者とは知り合いでないこと
(6) 自らの苦境を広く知らせるだけの影響力を有すること
他はともかく、この中の(1)と(6)に関しては、火事場泥棒等の被災地での犯罪被害を受ける「被災者」は、かなり高い程度で条件に合致していると言えそうです。
今回のような巨大な災害が起きると、連日のように被災地の状況が報道されます。それにより、被災者のおかれている苦境が、日本全国に知れ渡ることになります。
よって被災地における被災者に対しての犯罪は、通常の犯罪よりも被害者への人々の共感を集めやすく、その裏返しとして、犯罪そのものや犯人に対しての怒りは凄まじいものとなるのです。*1
しかしこれだけでは、このような犯罪がなぜ「日本人ではない誰か」によるものだとされてしまうのかまでは説明できないように思われます。
「被災地での犯罪に対しての強烈な憤り」の存在が、その背景にあるのではないかとは既に述べましたが、はたしてそれだけで「犯人は日本人ではない」という結論になるのでしょうか。
この疑問を解明するには、地震災害という災害の特異性について考えてみる必要があるように思えます。
地震は、その突発性や範囲の広大さのために、そこに住む人々を高い無差別性を持って襲います。
その被害は年齢・性別・社会階層に関わりなく及び(もちろんいくらかの「差」はあります)、報道に接する被災地の外にいる人々に、被害者の具体的な「像」を特定させません。
よって地震災害の被災者・被害者とは、大きくその被害地域のコミュニティー(の住人)であるというイメージが人々の間に作られるのです。*2
もちろん、実際に地震被害は広範囲に及ぶものなので、この認識は全く間違ったものではありません。
しかし、被害者の具体的属性が特定されず、被害者像が漠然と、単にコミュニティーそのものとして受け入れられるということは、それを発展させた形で思いもよらない別の認識を、(一部の)人々の間に生み出しているのではないかと僕は感じています。
すなわち地震災害の被災者(像)は、そのコミュニティーにおけるマジョリティ、つまり日本において圧倒的な多数者である「日本人」として人々にイメージされ、*3それによって被災者に対しての犯罪は、単なる犯罪ではなく「日本人に対しての犯罪」と認識されてしまっているのではないでしょうか。
犯罪は本来、それがコミュニティ外の逸脱者によるものだと認識させる力学が働いています。
なぜなら犯罪を外集団の人物によるもの、あるいは内集団の道徳規範を破った「特異な」逸脱者によるものだとすることで、自集団の価値の低下を防ぎつつ、集団内の道徳意識を再確認し、さらに集団の連帯感を高めることが出来るからです。
これらのことを踏まえると、地震災害という特殊な状況の中で、被災者に対しての共感と彼らを標的とする犯罪に対する憤りが、結果的に「日本人ではない誰か」に向けられた怒りとなって表れてくることは、意外にも不自然な流れではないと言えるのかもしれません。
つまり、地震等の広域災害の中での「火事場泥棒」は本来的に、物理的な距離だけでなく人々の認知においても、コミュニティーの外部、自集団の外からやってくる傾向にあるようです。
以前、フランス・パリでのテロと、レバノン・ベイルートのテロに対する日本も含めた先進国の人々のリアクションの違いが話題となりました。
「理想的な被害者」論は別にして、本来、犯罪・災害被害者への共感・同情は、人々がいかに被害者と自分を「同一視」できるかどうかにかかっています。
この件におけるリアクションの違いは、おそらく先進国で、ある程度の治安が約束された国に住んでいるかどうかという属性の相違によってもたらされた面があるのではないかと思われますが、この「同一視」という観点で見ても、今回の記事で書いてきたことはかなりの程度説明できるのではないでしょうか。*4
被災者・被害者への共感や同一視は、それ自体は彼らへの人々の積極的な支援や援助の原動力となり、その他の面でもほとんどの場合において良い影響を与えるでしょう。
しかし、あまりに過剰な共感や同一視は、被災者に対しても、社会に対しても好ましくない影響をもたらし、人々の認知をゆがませてしまう可能性があることを考える必要があるのかもしれません。