「デモ」と「他人の怒り」を見ることの困難さ
こんにちはhuman921です。
今回は前回の記事
の続きで、ある問題について、
「同じ考え、不満を持ち、それに賛同、共感していたのに、それを改善しようと実際に行動を起こすと冷める人が出てくる」
という現象に何らかの説明ができるかもしれないまた別のアプローチを書いていきたいと思います。
ただ今回は、ある問題に関して「同じ考えや不満を特に強く持っていなくとも、それどころかその問題に無関心」でも、問題を改善しようと行動したり政策決定者に働きかけようとする人に対して、「『冷めた』と言ってみたり、さらには攻撃的な手段で感情的に妨害する人」、も射程に入るかもしれません。
僕がこの記事を書こうと思ったのは、先日の記事でも取り上げた待機児童問題の国会前での抗議のニュースのブコメの中で、上記の現象を説明するかもしれないとしてリンクが張られていたあるブログの記事を見て、それに触発されたからです。
アンカテさんは上の記事の中で、社員旅行を例にして、ある人が社員旅行にこだわりを持たないにも関わらず、「社員旅行に文句を言う人」に対して向ける怒りのことを「冷たい怒り」と名づけられていました。
引用です。
日本では、こういう伝統を守ろうとする人たちは、「社員旅行はよい」と主張しないで「社員旅行に文句をつける奴は悪い奴だ」と主張する傾向があります。権力のある人から、繰り返しそれを受け続けると、社員旅行の好き嫌いと関係なしに、「社員旅行に文句を言えないことに対する怒り」がたまってきます。この怒りはどこに向かうかと言うと、社員旅行が好きな人ではありません。「社員旅行に文句を言うな」と言った人でもありません。「社員旅行に文句を言う人」に向かって吐き出されます。これが「冷たい怒り」です。
僕はこの引用の中の「社員旅行に文句を言えないことに対する怒り」という部分を見て、心理学のある理論を頭の中に浮かべました。
それが、ユングの「影と投影」の 理論です。
以前もこの(僕の)ブログで取り上げたことがあるのですが、ここでもう一度紹介しておきます。過去記事の引用です。
「影」とは、ある人間の無意識の中に存在する「抑圧された傾向」や、自らの「認めたくない側面」のことを指しています。
そして「投影」とは、この「影」を自分ではない誰かに投影することです。
つまり、自らの認めたくない側面や傾向=影を、他者に投影し、他者(だけ)がそれ一方的にを持っているとすることで、まるで自分が持っていないということにして心の安定を図るのです。
自分の認めたくない側面や、嫌っている傾向を、自分が持っていると認めることは、非常に苦難を伴いますから、そのため投影が必要なわけです(だから普段は抑圧しています)。
そしてこの投影をすれば確かに、自己の安定は図られるのですが、それは本来自分の持つ嫌な面ですから、投影された相手への非難、攻撃は凄まじいものになる傾向があります。
この引用の中では特に述べられていませんが、実際は別に「投影」などしなくとも、自身の抑圧された傾向を他人の中に見るのは非常に困難を伴います。
なぜなら、自分が必死で抑えている認めたくない傾向・いやな部分を具現化された形で目の前で見せ付けられるからです。*1
そしてそれは多くの場合、その「人の気も知らない他者」への「怒り」へと収束していきます。*2
さて、これを今回の待機児童問題の抗議運動とそれに付随するネットの反応に引き寄せて考えて見ましょう。
まず初めに、「待機児童問題で(政策決定者に)抗議すること、それを改善しようと主張すること」、これが「冷める」のような反応をする人々の「抑圧された傾向」=「影」と見ることができるでしょう。
これがなぜ抑圧されているのかは詳しくはここでは追いませんが、例を挙げるなら
- 自分も実は保育園に落ち、不満もあったがそれはもらさず子供を育てた自負があるから
- 待機児童問題に多少不満はあるものの、「子供は家庭で育てるべき」という社会的圧力の下、それを言い出せなくなったから(もしくはそれによって「家庭で育てるべき」という論理が内面化したから)
- 国の財政状況が厳しい中、お上に自分の利益のために不満を言うべきでないと思っているから(ただし自分も何らかの不満は持っている)
- 自分も待機児童問題に限らず、何かしら不満はあるが(労働・雇用等)、何らかの理由で、政権与党には文句は言うべきではないと思っているから(この理由だと抗議活動それ自体は、本人の解釈しだいで出来ることになる 例)「待機児童問題は政治問題ではない」)
- そもそも直接的な抗議・主張をしないことが、社会(国)の平穏のためになる(という無言の社会的圧力を感じた)から。
というものが挙げられると思います。*3
ただしここで再度注意したいのが、これらの抑圧の過程は多くの場合、本人の自覚のないところで「無意識」に行われる点です。
つまり、箇条書きで挙げたような抑圧過程の可視化は自身ではなされずに、「なんとなく」の内に、改善しようと主張することを避けるようになります。
そしてさらに付け加えたいのが、あの投稿がネット上で(その言葉の過激さから)注目を浴びているだけの段階では、それほど抑圧している人々の怒りは買わない点です(勿論同じ不満を抱えている可能性もあるからです)。
しかしこれが大手マスコミで取り上げられ、国会に持ち込まれ、首相の答弁を引き出し、国会前で抗議活動が始まるまでになると状況は変わってきます。
なぜなら、「抑圧された傾向」というのは既に書いた通り、実際には、不満をたれることではなく、不満の原因を解消や状況を良くしようと、「実行力を伴うような方法で、決定者に働きかける」ことだからです。
つまり、不満を書き連ねただけの(あえてこう言います)「テキスト」が、(潜在的な)到達点である、待機児童問題を解消する(かもしれない)力をつけてしまったが為に、逆に、(問題にそれほど関心もない層も含めた)人々の反発を買うようになったのです。*4
これらのようなことが、ネット上で騒がれただけの時と、国会前で抗議するまでになったときの、人々のリアクションの違いを生んでいるのではないでしょうか。
僕はこの論理は、五輪の費用の問題、労働・雇用の問題などのように、ネットで不満が毎日のように書き込まれ、関連ニュースのコメント欄が批判一色となるようなテーマであっても、当てはまるような気がしています。
もちろんそれはデモや社会問題に限らず、もっとミクロな組織内での問題についても同様です。
アンカテさんは次のようにも書かれていました。
参加者の多くが反対しているのになくならない行事や制度は、ほとんどこの問題の為に継続しているような気がします。誰かが前に出て「冷たい怒り」を受ける犠牲者とならないと、多数意見が反映されないのです。それをあえて受けて、やり通す人がなかなかいないのです。
補足
「抑圧された傾向」と言えば、過去にこのブログで、ネットにおける言葉の暴力を扱ったことがあります。
詳しくは見ていただければ分かるのですが、「文明化」の進んだ現代人の多くは、公衆の前で感情(特に怒り)を出してしまうことを必死で抑制しています。
つまり私たちは「人前で感情をむやみに出してはいけない」という、道徳化された普遍的な「影」を持っているといえるわけです(ちなみに僕はサービス業などの増大により、この「影」はより濃く、かつその「濃さ」がより多くの人々に広がっていると感じています)。
そうであるならば、論理で訴えることを本来目的としない、感情の動員が避けられないデモや抗議活動は、その影を、必然的に刺激してしまっているのかもしれません。
*1:ただし本人は、馬鹿にされたという気分という存在や、不快な気分の原因に気づくことはほとんどなく、なんとなく見ているとイライラするという形で現実には現れます
*2:その自身の傾向が実際には抑圧できていなければ、その「怒り」は、第三者の目には「同属嫌悪」映ります
*3:ちなみに、箇条書きで挙げたものの中には「待機児童問題はそのままでいい」ことの「利」を明確に主張するようなロジックは一つもありません。つまり「反・反○○」という構造になってます
*4:さらに言うなら、デモや抗議活動などの「人間の形」をした顔や声の見える運動は、それ自体が既に「影」を、「テキスト」よりも刺激しやすい性質を持っていると思います。