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ペンギンの飛び方

本を読んだりニュースを見たりして考えたことを、自由に書いていきたいと思います。

デモはなぜ「冷める」

社会

こんにちはhuman921です。

こないだこの記事のブックマークコメントを見て少し疑問に感じたことがありました。

 

b.hatena.ne.jp

 

それというのが、

「なぜネット上であれほど賛同・共感が集まった匿名の投稿であったのにもかかわらず、いざ匿名から飛び出して主張し始めると、『冷める』とか『胡散臭い』と言う人たちが多く出てくるのか」 

というものです。

もちろん理由は多くあると思います。もうすでに多くの方が指摘されているように、政治利用されてしまうのではないか、他のイデオロギー的な主張に丸め込まれてしまうのではないかというのも、もしかするとひとつの要因かもしれません。

しかし、僕はこの件に限らず、

「同じ考え、不満を持ち、それに賛同、共感していたのに、実際に行動を起こすと冷める人が出てくる」

という現象は、デモに限らずいろんな場面で「あらゆる組織の中」で、頻繁に見られることだと感じていました。

そこで今回は、この疑問に関して、これを自分の中で消化することができるかもしれない、ひとつのアプローチを考えてみました。

 

 

かわいそうな被害者

まず僕はこの件に関して、あらゆる犯罪報道に見られる人々の反応の傾向と、似たような点があるように感じました。

犯罪報道の中で被害者が特定されると、人々はその被害者に、多くの場合

「圧倒的に無力な、かわいそうな被害者」という像を押し付けてしまいがちです。

そしてそのフレームの元、被害者に同情し、加害者に怒りを募らせていくわけですが、いつもその認識のフレームが当てはめられるわけではありません。

マスコミは、「かわいそうな被害者」という像を維持するために、被害者に情報を付け加えていきますが、その中に、時折、その像を壊すような情報が混じることがあります。

すると、それまで被害者にある種の幻想を抱き、同情していた人々は、

「同情を裏切られた」と錯覚して、反動として被害者たたきにまわってしまうのです。

これは犯罪報道以外にも、慰謝料や損害賠償請求の訴訟、もしくはそれから生まれたメディアへの露出に関しても見られることです。

なぜなら、上記のような訴訟やメディアへの出演は、一方的に加害を受けた「受動的」な被害者≒弱者という認識に対して、権利を主張する「主体性」を被害者に帯びさせ、それまでの「像」に具体的な輪郭を作り、その権利の主張が公に認められた、ある意味で「強者」という反動的な認識を、人々に与えるからです。

これを今回の件に当てはめるとどうでしょうか。

匿名の「テキスト」だったあの投稿は、「かわいそうな被害者」≒「弱者」というフレームにはぴったりです。

しかしあの投稿を大手マスコミが取り上げ、それが国会に持ち込まれるという過程で、あの「テキスト」に「主張を公に認められた」≒「強者」という反動的な認識が生み出されます。

そして世論の盛り上がりを背に、国会前で抗議するようになると、実際に生身の人間が主張するわけですから、その主体性は非常に大きくなります。

すると、当初の「かわいそうな被害者」というフレームは通用しなくなってしまい、犯罪報道のそれのように、逆に彼らへの反発を生み出してしまうのです。

 

……というのが僕が今回の件に対して最初に思いついたアプローチだったのですが、これには実は大きな見落としがあります。

というのも、上記で挙げた犯罪報道やそれに関する訴訟といった例は、被害の内容などが身近なものではなく(殺人等)、人々と被害者の間の隔たりが大きいために、それによって「かわいそうな被害者」という像がそもそもできやすい状況です。

しかし今回の待機児童問題というのは、殺人などよりはずっと身近かつ想像が容易であって、待機児童問題から派生する「少子化」は、ある意味では日本国民全員が「当事者」かつその悪影響を受けると言う意味では「被害者」なわけです。

したがって、「かわいそうな被害者」論は、この件に対してある程度の説明はできるけれども、決定的なものではないと考えられます。

そして付け加えるなら、ブコメにあるような「冷める」といったような感情は、「かわいそうな被害者」像が壊されたことによる反発とは、どこか違うような気がするのです。

そこで、自分も被害者の一部であるのにもかかわらず、反発する人が出てくるという今回の件に即して、次のようなことを考えました。

 

被害者達の中の格差

このアプローチでは、被害者たちの構造に焦点を当てます。

つまり、「かわいそうな被害者論」で見落とされていた、権利を主張し実際に行動を起こす人と、同じ不満を持ち、被害を受けていたが行動を起こさない人という、被害者たちの「内部の格差」に注目するのです。

当たり前ですが、何かに不満を持つために、実際に行動を起こし、活発に活動をする人もいれば、そうでない人ももちろんいます。

それは、母数が増えれば増えるほど、その明暗は顕著になっていきます。なぜなら、集団が大きくなればその分、時間や労力、意思疎通の観点から言ってその全員を動員するのが難しくなるからです。

そこで、実際に活発に行動を起こさない(起こせない)人達に注目していきます。

まず、あの匿名のテキストがネット上で大きな注目を集めたとき、問題の当事者(実際に保育園に落ちた人)だったり同情を感じていた人達は、全員が行政の失策から被害を受けるか、そうでなくともそれに不満を感じている「弱者」です(と言う認識が作り出されます)。

しかし、あの投稿がマスコミに取り上げられ、国会に持ち込まれ、国会前で抗議する人達が出てくると、状況は変わってきます。

かつては同じ不満を持ち、一方的な横暴に苦しむ受動的な「かわいそうな被害者」だったのに、次第に実際に現状の改善を求めて権利を主張する人達≒「強者」と言う存在が出現し始めます。

つまり、同じ不満を持ったかわいそうな被害者という一枚岩の単純な構造が、現状を改善しようと具体的な行動を起こす人とそうでない人という新しい構造になるのです。

それは、国会前での抗議という顔と声が露出され、主体性を帯びた姿がメディアで報じられることで一層自覚されます。

もしかするとこのことが、行動しなかった人達に疎外感と、裏切られた気持ちを生じさせてしまうのではないでしょうか。

 

…というのが僕が思いついた「内部格差」論です。

が、ここで新たな疑問が生まれます。それは、

「なぜ行動に移さない人は、行動する人を応援しないのか」というものです。

不満を抱いた集団の利益を考えるなら、その状況を改善するために行動する人を積極的な応援はしないまでも、少なくとも黙っていることが得策だと思われます。

行動しなかったことによる疎外感についても、心の中で静かに応援することで解消できるような気がします。

しかし、実際には「冷める」とか「しらける」など、むしろ行動する人達の足を引っ張りかねない発言をする人達が出てくるのです。

そこで僕はまたひとつの仮説を思いつきました。というのは、

もしすると実際に行動しないで「冷める」などと言う人達は、現状が改善する利益よりも、

「それまでのかわいそうな被害者という一枚岩の構造から生まれる仲間意識と連帯感のほうに、魅力を感じているのではないか」

という説です。

つまり彼らは現状の改善よりも、苦労話や不幸話で盛り上がるように、みんなで一緒に大変な思いをしているという空気を分かち合うことで得られる一体感に重きを置くあまりに、「不満のある状況を維持し、それを壊したくないという意識」を持っているのかもしれません。

こちらのほうが「冷める」という感情をうまく説明できているような気がします。

僕もかなり適当な仮説だと思いますが、確かにあらゆる(社会)問題は、それが改善に向かったとしても、全員が救済される保証はありません。

であるならば、問題がある程度解消し少数の被害者に自分がなってしまうよりも、自分以外の被害者が沢山いたほうがいいと思うことはあるようにも思えます(社会保障や賃金の問題でこれは顕著だと思います)。

 

おわりに

実はもうひとつ異なるアプローチを書きたいと思っているのですが、これは次の機会ということにします。

ではさようなら~

 

追記

続きです!

human921.hatenablog.com