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ペンギンの飛び方

本を読んだりニュースを見たりして考えたことを、自由に書いていきたいと思います。

「ブスは騒いじゃダメ」という差別

こんにちはhuman921です。

数日前、電車で騒いでいた女子高生に「ブスは騒いじゃダメ」と注意したおじさんを見て、「社会の厳しさを教えた」と感想を述べたツイートが話題になっていました。

 

b.hatena.ne.jp

 

 僕がこのツイートを見て真っ先に思い浮かべたのが、差別、特に人種・民族差別に頻繁に用いられるひとつのレトリックでした。

社会学者のロバート・k・マートンは彼の著書の中で、そのレトリックを次のように述べています。

 

 リンカーンが夜遅くまで働いたことは、彼が勤勉で、不屈の意思を持ち、忍耐心に富み、一生懸命に自己の能力を発揮しようとした事実を証明するものだとされる。ところが外集団のユダヤ人や日本人が同じ時刻まで夜働くと、それは彼らのがむしゃら根性を物語るものであり、また彼らがアメリカ的水準を容赦なく切り崩し、不公正なやり方で競争している証左だとされる。内集団の英雄が倹約家で、つつましく、また貯蓄家であるとすれば、外集団のならず者はけちん坊で、欲張りで、一文惜しみである。内集団のエイブ(リンカーン)はスマートで、敏捷で、才智にあふれているから、1から10まで褒められ、外集団のエイブは同じことながら、すばしこく、ずるく、悪賢くて、あまり目先が利きすぎているから、何から何まで軽蔑される。*1

 

ここで述べられているのは、外集団、つまり自分の属する内集団とは違う特定の属性を持つ対象は、たとえ内集団ではよいとされる徳目を持っていても、それを表す言葉を変えられ、どうやっても悪徳とされてしまうということです。

 

マートンも別箇所で語っていますが、もちろんその徳目は、持っていなければいないで、より非難されます。言葉を変えれば、内集団の悪徳も、外集団がそれを持っているとされた場合、内集団が持っていた場合よりも厳しく非難されてしまうのです。つまり、外集団は何をやっても非難されてしまいます。)

マートンはこの内集団の徳目を外集団では悪徳に変えてしまうレトリックを「言葉の錬金術」と名づけていますが、これを今回のおじさんの発言に当てはめて考えるとどうでしょうか。

 

まずこの発言は、ある特定の属性を持つ(とおじさんが考えている)人物に対してなされている点については、集団の内外の区別はともかく、マートンが挙げている例と変わりありません。

そしておじさんは、電車内という公共空間では静かにするという徳目を保持していないことを、容姿の美醜という属性の違いで、その評価を変えています(というかそのように宣言しています)。

よってこの件の真偽はともかく、この発言は引用にある民族・人種差別と同じく明らかな「差別」といえます。

この発言は、いわゆる「容姿差別」に含まれますが、この種の差別に関しては他の人種や民族差別とは違ってそこまでその存在がタブー視されることはありません。*2

だからこそ、この発言に対して「社会の厳しさを教えた」というツイートがされ、そのツイートにも多くの賛同者がいるのだと思います。

一方でこれと似たような発言は、テレビや仲間内など信頼した人同士の間ではひとつのコミュニケーションとして見られることもあると思います。

しかし、それは時と場合を選ぶものであり、このツイートのように多くの人が存在している公共空間で、見知らぬ他人に対してなされたものだった場合、それは明らかに侮辱的で相手の尊厳を傷つけてしまうことは避けられないでしょう。

容姿差別は、「相手の属性を考慮に入れ、それに対して異なる扱いをする」と言う点では、他の「有名な」差別とまったく変わりないのです。

 

しかしマートンの例と異なる点もあります。

それは、おじさんの発言にマートンの言う「言葉の錬金術」の技法がまったく使用されておらず、持っている属性によって行動の評価を変える行為をそのまま直接に明言している点です。

つまり、このおじさんはその差別感情を心に抱きつつ、うるさいと注意したわけではなく、「まさに今、俺がお前をある属性によって差別している」と言うことを公共の場で高らかに宣言しているのです。*3

そしてこの発言を「社会の厳しさだ」と考える人がいて、その考えに対して少なくない賛同者がいます。

これらが示すことは、容姿差別は言葉の錬金術というオブラートに包まれていなくとも、それが公に表現され、しかもそれに肯定的な人が少なくないという事実です。

これは現代日本の容姿差別の現状を分かりやすく表していると思います。

 

しかし、僕が強調したいのは容姿差別の認知の低さやそれに対しての人々の許容の度合いの高さそれ自体ではありません。

僕が本当に強調したいのは、この容姿差別が、本質的に他の差別と同じで、そして簡単に転化しうるということを、このツイートをした人と賛同した人は気づいていないのではないかという点です。

先に述べたとおり、属性によって異なる対応をしたり同じ行動に対しての評価を変えたりする点は、この容姿差別と他の差別で異なる点はありません。

よって、この発言を許容する人(少なくともこの差別過程を明言する行為に賛同した人)は、他の差別への親和性も高い傾向にある、つまり民族・人種差別にもコミットしやすいと言えるのです。

しかし上記のように、実は直接分かりやすい形で容姿差別から他の差別へコミットしなくても、この発言自体すでに他の差別に転化する要素を持っています。

たとえば、もし今回の発言が別民族・別人種へ向けられたものであったとしたらどうでしょうか。*4

分かりやすくするため場所を変えますが、ニューヨークの地下鉄の電車内で、白人アメリカ人から黄色人種である日本人に同じ発言がされたと考えてください。

そしてそれを見た白人青年が、「これが社会の厳しさだ」とツイートし、それに賛同コメントが多く寄せられます。

僕たちはこれを単にその人個人の容姿だけの問題だと判断して、「社会の厳しさ」を教えた行為だと言うことができるでしょうか?

ここでの「社会の厳しさ」とは一体何なのでしょうか。

僕たちはそこに、人種差別的要素を見出すのではないでしょうか。

というのも、周知のとおり人種と外見的特徴は密接な関係にあるからです。

よってこの発言の「ブス」の部分は「○○民族」とか「××人」へと容易に変化し、実際にそうなれば、僕たちが普段ニュースで見聞きする民族・人種差別となるのです。

このように、このおじさんの発言は簡単に他の差別へと変わり、なおかつそれと同じ要素を内包しています。

つまりこの発言それ自体に、すでに民族・人種差別へと通ずるものがあると言えるわけです。

 

これから日本の人口構成はどのようになるのか、多民族、多人種国家になるのかそれともこのままなのかは僕には分かりません。

したがってアメリカのように他民族、多人種への差別が分かりやすく顕在化するのかは未知数です。*5

しかし今回のツイートとそれに対する反応は、ネット上においては、民族・人種差別に対してのハードルが潜在的に低い人が少なくないということを、示しているのではないかと僕は考えています。*6

*1:ロバート・k・マートン「社会理論と社会構造」P390 みすず書房 1961年

*2:おそらく容姿差別において属性の認定がある程度個人の主観にゆだねられている点が、他の差別との扱いの違いを生んでいるのかもしれません。

*3:この発言の大きな問題点はまさにここです。対象の属性によって、対応を変えてしまうこと自体はこれがまったく見られない人間は多くはないでしょう。

*4:おそらく今回の発言はツイートの内容から日本の女子高生へ向けられたものでしょう。

*5:現時点でもありますが…

*6:なおこの件に関して、おじさんが似たような属性を持っていることにして、おじさんが女子高生に向けた発言のそれと同じロジックでおじさんを批判する人は、このツイートに賛同する人とまったく同じではないですが近い傾向を持っていると僕は思います。