ペンギンの飛び方

本を読んだりニュースを見たりして考えたことを、自由に書いていきたいと思います。

公文書改ざんと民主主義の危機

 

私は最近、長い間読みたいとは思いつつ敬遠していたK.R.ポパー『開かれた社会とその敵』を読んだ。間違いなく、私がここ数年手にした本の中で、最も衝撃を受けたものの一つであった。

今回は当該本で繰り広げられる議論を用いて、ここ1年半ほどの間世間を賑わせている「公文書改ざん」とそれがもたらす民主主義の危機、そしてなぜ私たちが民主的諸制度を守るべきなのかについて考えてみたいと思う。

 

 

「危機」について考える前に、民主主義と、その対極にある専制の違いをまずは一瞥する。

この区分は基本的にポパーに倣うが、民主主義とはそれが持つ種々の制度や構造からいって、政策の変更や修正、政権の交代などを平和裏に行うことを可能にさせる機構である。

投票権をもつ私たちは、正しい情報がもたらされるのならば、そこから判断して、投票や中間団体による圧力、交渉、その他さまざまな民主的手段によって、間違っている、あるいは失敗している(と思われる)政策や政治家を修正、変更することができる。そして民主主義の制度が維持される限りは、それを繰り返すことができる。

しかし専制国家はそれができない。情報は統制、改ざんされることで、国民は自分の国家が首尾よくいっているのか、政策が効果を上げているのか、はたまた失敗しているのかを知る術を持たない(例えばGDPや失業率が改ざんされた場合のことを考えてほしい)。また、民主的な異議申し立てのルートはあらゆる手段を使って遮断される。

したがってここにおいては、国家の政策やその代表に変更を加えたい場合は、暴力的な革命などの手段か、あるいは慈悲深い君主の心変わりを祈るしかない

 

上記で挙げた区分からすれば、公文書改ざんは、明らかに民主主義の土台を破壊するものであり、専制国家に特徴的なものである。

しかし私は、この点のみをもって現在日本が専制政治の状態にあるとは考えない。というのも、民主的な異議申し立ての手段は今のところ制限されていないからである。

そしてなにより、現状ではこのような不正(のいくつか)は運よく暴かれ、私たちの耳にするところに至っている。情報の統制が完全になされていないために(実際現代社会においてそれはほとんど不可能だが)、日本国民はある程度正しい情報を手にし、政府に働きかけ、さまざまな力を行使し、国家の方針に変更を加えることができる。この点でも、日本はいまだ民主主義国家であるといえるのである。

とは言え公文書改ざんや、政策の根拠となるデータのねつ造という行為は、投票権を持つ私たちに正しい政治的判断を困難にさせる、民主主義にとって致命的なものであることに変わりはない。そういった情報の改ざんはその性質上、往々にして時の政権に有利なように仕向けられ、私たちは事実に即した政治的な働きかけを行うことができなくなる。

そして、異議申し立ての手段が憲法や法律などによって制限された暁には、平和裏に自らの手で政策や政権を変えることができなくなり、ついには専制国家の状態と同じ状態におちいってしまう。

現在日本では、民主主義の土台を破壊し、専制国家への端緒を開くような不正を行った政権が、大した責任をとることもなくその座に位置したままでいる。

 

民主主義国家においては、自らの代表者を誰にするのかを決定する権限は、基本的に国民が握っている。したがって、不正を行った政府がそのまま政権の座に居続けていられるのは、ひとえに国民の多くがその状況を許しているからである。

私はここで、なぜ多くの国民がそのような状況を許しているのかという点については、深くは立ち入らない。しかし二点だけ、それでも現政権を支持する人々の考えに応答する形で、自分の考え(かなりポパーに触発されている部分はあるが)を述べたいと思う。

 

まず一点目。世論調査でたびたびトップになる「他よりよさそうだから」現政権を支持するという意見について。

これに対して私は、政治はこのような消費主義のアナロジーで考えるべきではないと主張する。

よりよく、より高い満足を与える商品、あるいは、他より何かをやってくれそうな、何か期待の持てる商品を選ぶ(あるいは選ばない)よりも、もっともリスクのある、もっとも安全性に問題のある商品を、そもそも商品棚から除外することに私たちは取り組んだほうがよいと私は考える。

つまり、最も危険な政治体制である専制国家を生まないことを念頭に、私たちは政治的な行動をすべきである

これにはそう考えるべき合理的根拠が、これまで挙げた論点とは別に存在する。

それは、「よりよいもの」を探すよりも、リスク排除の観点からの政治的判断のほうが、簡単で確実であるという点である。

確かに、ある政治的ビジョンや、それを達成するためのアイデア(政策)を持つ有権者にとっては、完全とは言わないまでも、意見の似た政党、政治家を探すこと、また他より「マシな」それを選択することが、合理的な政治的判断だと考えられるだろう。

実際、(あまり考えられないことだが)何を選んでも専制の危険性が全くない状況下にあったなら、そのようにして判断することが賢明であると思われる。

しかし、ここにこそ困難が存在する。

現代のような複雑な社会にあっては、何が政治的目標に実際に寄与するかは判断が難しい。ある目標に対する方策を考える中で、研究者であっても意見が分かれている問題に対して、普段の忙しい生活に追われている現代人が「より良い」「正しい」選択をすることは、実際ほとんど不可能に近い

ところがそれにくらべて、専制的な傾向を示す人物を候補者の中から見分けることは、はるかに簡単である。なぜならば、私たちは彼が発するいくつかの重要なキーワード(例えば「自由」)や、異なる意見や政治上の論敵に対する態度や言動に、多少の注意を向けていればよいからである。

そしてなにより、自らの国家の政治体制が幸運にも専制的でない状態であるうちは、私たちは時々の政治上の判断のミスを、何度でも修正することができるのである。

 

 

二点目。多少強引なところはあっても、結局大筋の政策の方向が自分の望むそれと合致している、望む結果を出しているから支持するという意見に対して。

(公文書やデータを改ざんする政府に対して、何を根拠に合致しているのか、結果を出しているのかを判断するのかはかなり疑問だが)、これに対して私は、それでも専制国家よりも、民主主義のほうがより望ましいと主張する。

実際には、ポパーの指摘する通り、民主主義下での政治的判断が、いつも正しいとは限らない。時々の多数派の意見が、国民の生活をより良いものにするという保証はどこにもない。むしろ、善意の開明的な専制君主の採った政策のほうが、日常に追われる大衆に決めさせたよりも、より良いものになる可能性も大いにある

しかしそのような慈悲深い「独裁者」に期待することは、あまりに楽天的であると私には思われる

何より、彼の死後、あるいは引退後はどうするのか。その座を継いだ人物が、前任者の作った専制的な政治制度を悪用した場合、私たちはすでに対抗する術を抑えられているので、それを受け入れざるを得ない。

また、専制的な種々の仕組みが君主の慈悲深さを減じてしまうこともあり得る。ホブハウスの指摘する通り、「他の人びとに対して無責任な権力を行使するというテストに永久に耐えることができるほど、他の人びとより優れ、賢明である人びとはほとんどいない」。*1

これらのことを考慮するならば、専制に対する民主主義という体制は、人類の英知の結晶だとか、最後にたどり着いた理想であるというようなものではない。

民主主義体制が持つ、(開かれた正しい情報のもと)国民が政府の政策、さらには国民自身の選択も修正、変更を可能にさせるというこのトライ&エラーの機構が、他の政治制度とは決定的に異なる点であり、またおそらくは優れた点である。

ポパーは次のように言う。

この観点でみると、民主主義の理論は多数派が支配すべきという原則に基づくのではない。…民主的抑制のための様々な平等主義的方法は、…専制政治に対する制度上の安全装置にすぎず、常に改良の可能性をもち、また自己改良の方法さえも用意している安全装置と見なされるべきである。

この意味での民主主義の原則を受け入れる人は、それゆえ、民主的投票の結果を何が正しいことかについての権威ある表現と見なす義務はない。彼は民主的制度を働かせるために多数派の決定を受け入れるではあろうが、民主的手段によってそれと闘い、またその修正のために働くことは自由だと思うであろう。そして万一多数票が民主的制度を破壊する日を見るまで生きたとすれば、この悲しい経験は専制政治を避けるための絶対安全な方法は存在しないということを彼に教えるだけのことであろう。だがそれでも専制政治と闘う彼の決定を弱める必要はないし、また彼の理論が不整合であることを暴露するものでもない。

*2

 

私たちは失敗する。しかし同時に、それを反省しまたやり直すことができる。

そのためには、専制国家の出現を防ぎ、民主主義を守るための政治的判断をしなければならない。

 

 

 

*1:ホブハウス (1911=2010) 吉崎祥司他『自由主義福祉国家への思想的転換』p170 大月書店

*2:K.R.ポパー(1944=1980)小河原誠他『開かれた社会とその敵 第一部 プラトンの呪文』p130 未来社

J.S.ミル先生によるネットでの議論のための心構え

 

blogos.com

 

b.hatena.ne.jp

 

最近、インターネットがもたらす社会の分断について注目が集まっていますが、なんとなく読み返していたJ.S.ミルの『自由論』に、この問題を考えるヒントというか、分断の時代における議論の心構えとして有用そうな記述がいくつかあったので、今回はそれを取り上げてみたいと思います。

この著作が発表されたのは今から約160年も前ですが、ネット時代の21世紀でも通用するどころか、発表当時よりもむしろ現代の方がその指摘が当てはまるようにも感じられ、とても面白いです。

では、以下にいくつか紹介します。

 

1 各々が自分の主義・主張を表明する自由と、それによる対立した見解を持つ人々の歩み寄りについて

 ミルはこれについて次のように述べます。

どんな意見でも発表できる自由が無制限に行使されたら、宗教や思想におけるセクト主義の弊害が弊害がなくなるかといえば、私はそうは思わない。…

セクト主義は議論が最大限に自由に行われれば解消されるものではない。むしろ自由な議論はセクト主義を逆にしばしば強め、悪質化させる。 

 (引用 J.S.ミル (1859=2012)斉藤 悦則訳『自由論』光文社古典新訳文庫 pp.126‐127)

これの理由として、ミルは論敵が自分たちの側が見つけられなかった真理を主張したとき、それを否定せざるをえないからだと指摘します。というのも、

狭量な人間が真理とやらに熱中すると、もうこの世のほかの真理は存在しないかのように、あるいは少なくとも、自分たちの真理を制限したり修正できるものは存在しないかのように、それを主張し、説教し、いろんな実践方法をくりだすにちがいない。(同上 p127)

からです。ようするに、自分と異なる主張を受け入れる姿勢のない人間同士による議論は、むしろ分断を深めることにつながるというわけです。

しかしミルは、こうした意見の衝突それ自体は、それを傍観する人々にとっては良い影響があると考えます。なぜなら部分的な真理を持つ主張がぶつかり合う場合にのみ、真理はよりすぐれたものになる可能性があるからです。

したがって自らの意見を自由に主張することが許された社会において、危惧すべきは次のようなことになります。

 両方の意見をいやでも聞かされること、これには絶対に希望がある。問題は、一方の意見のみに耳を傾けるようになるときだ。そのとき、誤った意見が定着して偏見となり、真理そのものも誇張されて虚偽と化し、真理としての効力を持たなくなる。(同上 pp.127-28)

サイバーカスケードという言葉もあるように、このような事態に陥る危険性はネット時代において高まっているように思えます。自分も含め、これについては気をつけたいものです。

 

2 議論の際の禁じ手について

 これについて、ミルはまず次のように述べます。

 われわれが論争をするとき犯すかもしれない罪のうちで、最悪なものは、反対意見のひとびとを不道徳な悪者と決めつけることである。(同上 p132)

耳が痛いです(笑)。みなさんも、ネットでよく見かけると思います。

しかしミルの面白いところは、こうした本筋の議論以外での論敵への中傷は、世の中における支配的な意見を持つ側が、特に自制しなければならないと考えている点です。

なぜなら、多数派がこうしたことをやると、反対派は自らの意見を言う気が失せ、反対意見が実際に表に出ることが少なくなってしまうからです。

異なる意見の衝突が、よりよい真理の発見にとって不可欠と考えるミルにとっては、こうした衝突そのものがなくなる事態はなんとしても避けたいもの、というわけです。

さらにミルは、このようなことも述べます。

論争のどちらの側に立つ人であれ、主張のしかたが公平さを欠き、悪意や偏見や心の狭さを露わにしている人は、誰であろうと非難される。ただし、その人がわれわれと反対の立場である場合、彼のそうした欠陥をその立場のせいにしてはならない。(同上 p133)

非常に耳が痛いです(笑)。これもネットで(以下略)。

上にリンクを張った記事中の荻上チキさんの「セレクティブ・エネミー」という概念にも、このミルの指摘は通じるところがあります。

論争中の相手側の主張の中から、極端なもの、明らかにおかしいものを選択し、その原因を彼らの立場に還元し、それでもって論敵全体を攻撃する。

こうしたことは、ネット時代において、より簡単に、大規模に行うことができるようになっていると思います。

 

3 議論における道徳

最後に、ミルの考える、議論の際にそれに参加する人々が守るべき道徳を引用したいと思います。

どういう意見の持ち主であれ、反対意見やその持ち主について冷静に観察し、誠実に説明し、相手の不利な部分をけっして誇張せず、相手の有利な部分、あるいは有利と思われる部分をけっして隠さない人には、当然の賞賛を与える。

これこそが、公の場での議論における真の道徳である。(同上 pp.133-134)

なんとも素朴で当たり前のような感じがしますが、実はこれには次のような文章が続きます。

この道徳が守られないこともしばしばあるが、多くの論者たちはかなりよくこの道徳を守っている。また、さらに多くのひとびとが、この道徳を守ろうとまじめに努めている。これはほんとうに幸せなことだと思う。(同上 p134)

ミルが21世紀のネット上の議論を見て同じことを言えるかどうかはわかりません。

しかし、ネットによって、ミルの考えるよりよい真理の構築、発見のために必要な条件であった、多様な意見(の衝突)がどこでも簡単に見られるようになったことも事実です(それをさせない誘惑も同時にあるにせよ)。

したがって上述のような議論における禁じ手、そしてその際に必要な道徳を理解しそれを守ることで、ネットがもたらす益の部分を、より効果的に引き出せるのではないかと僕は思います。

 

 

 

怒りと文明化と市民性

 

最近投稿した記事に関連する話題がはてなブックマークでも話題になっていました。

 

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

僕は2年半程前に、 ある問題について、「同じ考え、不満を持ち、それに賛同、共感していたのに、それを改善しようと実際に行動を起こすと冷める人が出てくる」 という現象の背景を考てみたことがあります。

 

human921.hatenablog.com

 

そして直近では、怒りに対する忌避観とは別の角度から、ネット時代において、ネットから生じた世論の現状への怒りの高まりとそれから生まれる一体感や共感は、「継続的で組織的」な団体や運動になるプロセスの中で、しぼんでしまうのではないかという仮説を記事にしてみました。

 

human921.hatenablog.com

 

 さて、引用元の記事に戻り、「怒り」について考えてみると、確かに怒りを表出すること、あるいはそれを目撃することは以前と比べて忌避の感情をもってとらえられているように思います。

「デモと他人の怒りを見ることの困難さ」の最後のあたりでも少しだけ述べましたが、これには社会学ノルベルト・エリアスの言う「文明化」が関係しているのではないかと、僕はずっと考えています。

暴力が非合法になり、またそれを独占した強力な中央権力が誕生すると、それまでとは違い直接的な暴力ではなく、感情をコントロールしたふるまいの洗練度が、社会でうまく生きていくには重要になる。

そうした規律あるふるまいを続けていくうちに、いつしかその規範は内面化され、演技ではなく心から、つまり抑制された情感を表出することそのものに忌避感を覚えるようになる。

これが、エリアスが主著『文明化の過程』で描いた、文明が暴力を減少させ、さまざまなマナーや作法を生み出すに至ったプロセスの簡単な要約です。

僕は現代の怒りのタブー視の流れが、この「文明化」の一種の延長なのではないか、もしくはその一端を多少とも担っているのではないかという考えを長く持っています。

仮に僕のこの考えが多少ともあっているとして、なぜこの文明化がここにきて、このような方向でまた進んでいる(ように見える)のか、というのも面白いテーマですが、僕はなんとなくサービス業の従事者の増大と、それに付随する感情労働における提供する「感情」の「質」の過激な競争が影響を与えているのではないか、と考えているところです。

ところで、元の引用記事では、怒りのタブー視を弱者を益するものとして好意的に見ています。

この見方は基本的には正しいと僕も思います。

怒りがほとんど全くタブー視されることのなかった時代、例えばエリアスの議論でいえば暴力を独占する権力が誕生する前の封建時代の中世ヨーロッパでは、文字通り腕力がすべてを決めていました。

そういう意味でいえば、文明化やそれに付随する様々な潮流は、腕力や権力を持たない人々に光を与えたということができそうです。

しかし別の観点からみると、全く逆のことも言うことができます。

例えば政治学者のウィル・キムリッカは、「市民性」という名の、私たちが日常生活全般において要求される、たとえ最小限の徳性しか具えていない市民といえども身につけなければならない「徳」の存在を指摘して、(市民性の本来の意義を強調しながら)次のように述べています。

 

たしかに、リベラルな社会において市民性という道徳的義務は「良い作法」という美的な構想と混同されることもある。たとえば、市民性への期待は、激しい抗議のやり方―抑圧された集団にとっては自らの声に耳を傾けさせるために必要なものであるかもしれない―を挫くために用いられることもある。不利益を被っている集団が「派手にやる」ことはしばしば「趣味が悪い」と見なされる。良い作法にたいするこの種のおおげさな強調は、奴隷根性(servility)を促進するのに用いられうる。しかし真の市民性というものは、どんなにひどい扱いを受けていたとしても他者に微笑みかけるーあたかも被抑圧集団は抑圧者に対して行儀よくするのが当たり前であるかのようにー、というようなことを意味しているのではない。そうではなく、他者が自分に同等の承認を与える条件の下で他者を対等者として処遇する、ということを意味しているのである。*1

 

*1:W・キムリッカ 2005年『新版 現代政治理論』p439 日本経済評論社

インターネットは世論の力と継続性を弱めるか

 

新聞、テレビ等、既存のマスメディアの信頼性が年々下がっているようです。

 

www.buzzfeed.com

 

上の記事の池上さんも指摘しているように、すべての個人が参加できるインターネットの発展によって、マスメディアの報道が広く批評の対象となり、またそれを共有できるプラットフォームが出来上がったことが、このトレンドの一つの要因であるように僕も思います。

権威をもつ大メディアの報道が、無数の目によってリアルタイムに批評の対象となる。このこと自体は情報の信頼性を吟味する上でも、あるいは、様々な角度からの意見を摂取するという意味でも、インターネットが初めてその可能性を(これまでにない規模で)開いた事象であって、メディアから情報を受け取る側の私たち市民にとっては、プラスの出来事であるでしょう。

既存のメディアの報道に限らず、インターネットの発展は、公開されたすべての意見や表現を対象化し、それらに対して同意、共感、賛成、反対、あるいは罵詈雑言を述べる場を、私たちに提供しました。

そしてこのテクノロジーが画期的なのは、この対象化の連鎖を、参加者にその気があれば延々と続けさせることを可能にしたという点にあります。

たとえば「はてなブックマーク」というサービスは、ネットに公開されたあらゆる情報を自分たちの庭に持ち込み、批評の対象にしてしまう恐ろしいプラットフォームですが、そうした批評も、コメントに対しスターをつけるシステムによってすぐに対象化されます。さらに個別の意見だけではなく、実際には記事に集まったブックマーク全体すらも、まるごと批評のターゲットになる危険性にさらされているのです(いわゆる「メタブ」)。

 

このようなインターネットが可能にした対象化の無限の連鎖は、冒頭の記事で引用したように、まず既存のマスメディアの信頼性の低下を引き起こすでしょう。

そして次に起こると考えられるのは、Twitterなど、個人からの情報発信や意見や主張が、既存のメディアのそれよりも相対的に共感や同意を得られやすくなる、という事態です。

ちなみに、ここでいう「個人」からの情報発信とは、当該人物が既存のメディアには所属しておらず、また、自らのいる組織や団体、その他様々な属性を公にしないか、あるいは公にしていてもそれが発言とは直接関係していないか、関係しているとしても代表しているとは思わせないような、あくまで個人の体験、視点からの主張や意見、というような特徴を持ちます。

なぜこういうことが起こるのか、 例えば次の記事をもとに考えてみます。

 

www.buzzfeed.com

 

今ネットで大きく主張されている絶滅が危惧されるウナギを消費することへの反対論ですが、そのような風潮の中でbuzzfeedがこのような記事をアップしたため軽い炎上が起きました。

新興ネットメディアの中では比較的評判の高かったbuzzfeedだけにショックは大きかったようで、記者本人だけでなく、buzzfeedという組織それ自体にも批判の目が向けられています。

buzzfeedというネットメディアが存続する限りは、一度このような記事を掲載したという事実からは逃れることはできません。したがってこの件を批判的に受け取った読者や、この炎上を知ったネットユーザーがこれからbuzzfeedが掲載する記事を読む態度は変わっていきます。

僕が注目するのはまさにこの点です。

こうしたことは、組織が存在し、その名のもと情報発信をする以上、否が応でも蓄積していきます。

これは、炎上を起こすような記事を載せなければいいという単純な話ではなく、全員の意見が一致する言論がない以上、無数の批評の目にさらされ、そこで生まれた不満を共有する場が存在する限りは、防げるものではありません。

したがって、ネット時代において、組織化され、巨大な情報発信力をもち、継続的に多数の目から批評の対象にされる既存のマスメディアをはじめとした、継続的な団体や組織の信頼性は、不可避的に低下していくと同時に、彼等の発する情報は、その共感力や、世論を喚起する力も失っていくと考えられるのです

もちろん、Twitter、あるいははてなブックマークにおいても、個別のある発言が炎上したり、フォロワー数が多いアカウントために継続的な批評の目にさらされている場合は、信頼を徐々に落とす、ということはありえます。

しかし、こうしたことは、個人の情報発信が相対的に高い信頼性や共感性を持つようになる、という全体の傾向を止めるものではありません。

なぜなら、そこで落ちた信頼性とは、Aという特定のアカウントに対してのものであって、ネットに存在する無数の個やつぶやきに対するそれではないからです。

ネットでは日々、大量の意見や主張が無数のアカウントから生産されており、だれか知らない個人が発した情報が、強く共感され、拡散されていくという事象そのものは、これからも続いていきます。

したがって、漠然とした個に対する信頼性や共感性は、失われないのです。

このことは、インターネットのプラットフォームとしての信頼性が低いことにかかわりなく起こり、互いに矛盾することではありません。ネットの個人は、新聞やテレビとは異なり、ネットという特定の組織の看板を背負っているわけではなく、日々情報を見、発信する場がネットであるというにすぎません。そして、そこで私たちは、一つの共通する言語空間に参加している内集団であり、そこでの意見の多様性を知っています。そのため、プラットフォーム全体に対する信頼性の低さと、そこでの個々のつぶやきに対する信頼と強烈な共感は、成立するのです。

 

さて、このような流れは結局、私たちをどのような方向へ導いていくのでしょうか。

肩書や属性、発信者の権威によらない、あくまで発信された意見や主張そのものが評価される世界でしょうか。ある意味ではそれは実際に進行しているものだと思われます。そして、そのこと自体は、僕はよいことだと思います。

次に起こると思われるのは、ーここからが記事のテーマですー世論の風向きで変わるはずだったものが、変わらない、あるいは、そこまで世論が力を持たなくなる、というような現象です。

これはどういうことでしょうか。

それは、既存のメディアがその影響力を失う中で、個人的なつぶやきから生まれた共感や人々の一体感や世論の高まりが、その目的のもと組織化され、固定した属性を持つ、なんらかの継続的な団体や運動となったまさにその瞬間から、しぼんでいってしまう、という事態です。

とういうのも、そうした個人のつぶやきは、人格を持った継続的ななにかに形を変えると同時に、ネットの対象化の連鎖に巻き込まれると考えられるからです。

これは、2年後ほど前の、「保育園落ちた日本死ね」に端を発した一連の出来事でも観察することができます。

 

b.hatena.ne.jp

 

しがらみのない孤立した個人が、例えばTwitterなどであれば共通の話題をハッシュタグなどでつぶやき、それをリツイートして盛り上がっている内は、あるいははてなブックマークであれば、ほとんど誰もがそれと認めるような政治家の失言や、国の制度の不備を紹介した記事に、批判するコメントをしてスターをつけあっている内は、共感や一体感は最高潮に達しています。

しかしそれは、実際に何かを変えるために継続的、組織的化なものとなった瞬間に冷めた目線でみられることが多くなります。

誰かのなにげないつぶやきや匿名による投稿が、ネットの力で共有、拡散されることで草の根から盛り上がった世論が、それが現状を変化させる力を持つというそのときに、そのためのプロセス(組織化・継続化)が原因で、逆説的に力を失ってしまう(しかもネットによって)。*1

例えば最近でいえば、うなぎ、学校のエアコン、五輪、労働問題など、ネットで盛り上がっていて、かつ現状に対して不満の多いと思われる問題は山ほどありますが、それらがデモや署名、実際に政治家への働きかけや団体の設立などへと発展したとき、それまでの賛同や共感は、果たしてどこまで持続するのでしょうか。

もし今回、ここで僕が述べたようなことが本当にあるのだとしたら、こうした隘路から抜け出すことは非常に難しいと、僕は思います。

 

 

 

*1:おそらくこれには、(対象化の連鎖という恐怖から)おそらくネットその一翼を担っているであろうと思われる、何らかの組織や運動に加わることへの忌避感も拍車をかけています。

憎悪と恐怖の世界

 

この前の金曜日、僕が働く職場の上司(30代)が、業務時間中に、近隣諸国の国民全体ををひどく差別するような発言をしました。

これまでも、その人物はその種の発言(すべてが現在インターネットで流布しているもの)を何度も繰り返してきましたが、今回のそれは、あまりに度が過ぎていたため(少なくとも僕はそう感じた)、僕は驚きと悲しみでよくわからない気持ちになりながら、自分の経験から、こういう考えもあるんじゃないかというようなことを口から絞り出し、その会話は終わりました。

その後の業務終了後は、いつものように他愛もない話題で談笑して、別れ、帰宅しました。

ところで、僕の職種は、一般的にほかの多くの職種よりも、高い倫理観を持つべき、とされていて、そのような目で世間からも見られています。また、現在の僕の職場は職員の人数はとても少ないですが、冒頭の上司以外にも、このような発言をする人物が複数います。いずれの人たちも、家庭を持っていて、職務に対しても真面目で、2年目の僕に対しての接し方もいたって普通です。

ところが、彼らがときおり話す内容には、耳を疑うようなものがいくつもあります。「今日はいい天気ですね」くらいの感覚で発せられるそれらの言葉はどれも、僕に向けられたものではありません。しかしそういった発言が飛び出すたび、僕はどうしていいかわからなくなります。

うんうんと相槌をうって同意することは、僕にはできません。でもだからといって、発言に対してはっきりと異を唱えるも、業務上、まだまだ教えを請わなければならない立場である自分と、相手とのこれからを考えれば、それもできません。

 

「社会」に出るってこういうことなのでしょうか?

昔から、このような発言は職場でもどこでも、「社会人の世界」では見られるものだったのでしょうか?

生まれてからこれまで、普段の会話では聞くことのなかった種の差別、憎悪にまみれた発言を、社会人として、働き始めてからたくさん聞いてきました。

僕は以前このブログで、インターネットは「リアル」の社会に対し、「舞台裏」としての機能を担っていて、そこでは「表舞台」では言えない「本音」ーこれには差別的な考えも含まれるーが書き込まれていて、その意味で「本音の領域」である、というような考えを書きました。

その記事では、僕は職場を「表舞台」の例として挙げています。ところが最近の職場の人たちの発言を聞くたびに、それは間違っていたのではないかという思いが強くなります。

記事を書いた当時、僕は大学生でしたが、そのとき表舞台では言えない本音だと考えていた様々な言葉を、職場で、何度も聞いてきたからです。

 

哲学者のラッセルは、彼がケンブリッジ大学に入ったとき、知性や明晰な思考が評価される世界に自分が置かれていると気づき、感動を覚えたと語っています。

僕は職場が、必ずしもそのような場所でなければならないとは考えません。でも働く前は、そういう方向とは別に、高い倫理観と、責任感と、公平な視点をもって全体のために仕事に取り組む、そういう姿勢がよいとされるこの仕事を、自分もこれから携わるということに、一種の期待のようなものを感じていました。

この期待は、ある面ではかなえられています。職務に対しての姿勢や、後輩に対しての指導、あるいは仕事上の「客」への対応は、彼らにも、尊敬する部分が多くあるからです。

でも、根本のところで、おかしいのです。

僕が彼らの意図する攻撃の対象ではないことを当然視して、彼らはこれからも、差別と憎悪のにまみれた話題をぼくに振ってくるでしょう。

他集団に向けられる彼らの残酷さ、それを知ってしまった僕は、本当ならもう彼らと一緒に仕事をしたくはありません。でも、僕はこのことで、仕事を辞めたいと考えるほど悩んでいるわけでも、正直ないのです。率直に言うならそれは、現状、僕自身にこれらの発言の矛先が向けられてはいないからです。

もちろん、僕のような態度は、状況を悪化させるだけであるとは、僕自身もわかっています。

でも、世の中全体が、そうした発言を許容する雰囲気になっているのならば、つまり、職場が表舞台ではなく、実は本音の領域である裏舞台だったなどということではなく、実際のところ、あの種の考えが、もはや隠すべきものとしてみられなくなっているのだとすれば、あのような会話に遭遇した一人の人間に、できることはほとんどないようにも感じてしまうのです。

下記に続くナチ時代を過ごした言語学者の告白が、最近、僕の頭の片隅に常にあります。

 

「気がついてみると、自分の住んでいる世界はー自分の国と自分の国民はーかつて自分が生れた世界とは似ても似つかぬものとなっている。いろいろな形はそっくりそのままあるんです。家々も、店も、仕事も、食事の時間も、訪問客も、音楽会も、映画も、休日も…。けれども、精神はすっかり変っている。にもかかわらず精神をかたちと同視する誤りを生涯ずっと続けてきているから、それには気付かない。いまや自分の住んでいるのは憎悪と恐怖の世界だ。しかも憎悪し恐怖する国民は、自分では憎悪し恐怖していることさえ知らないのです。誰も彼もが変って行く場合には誰も変っていないのです」*1

 

 

*1:丸山眞男「現代における人間と政治」杉田敦編 2010『丸山眞男コレクション』平凡社ライブラリー p.405 ミルトン・メイヤー『彼等は自由だと思っていた』より