ペンギンの飛び方

本を読んだりニュースを見たりして考えたことを、自由に書いていきたいと思います。

憎悪と恐怖の世界

 

この前の金曜日、僕が働く職場の上司(30代)が、業務時間中に、近隣諸国の国民全体ををひどく差別するような発言をしました。

これまでも、その人物はその種の発言(すべてが現在インターネットで流布しているもの)を何度も繰り返してきましたが、今回のそれは、あまりに度が過ぎていたため(少なくとも僕はそう感じた)、僕は驚きと悲しみでよくわからない気持ちになりながら、自分の経験から、こういう考えもあるんじゃないかというようなことを口から絞り出し、その会話は終わりました。

その後の業務終了後は、いつものように他愛もない話題で談笑して、別れ、帰宅しました。

ところで、僕の職種は、一般的にほかの多くの職種よりも、高い倫理観を持つべき、とされていて、そのような目で世間からも見られています。また、現在の僕の職場は職員の人数はとても少ないですが、冒頭の上司以外にも、このような発言をする人物が複数います。いずれの人たちも、家庭を持っていて、職務に対しても真面目で、2年目の僕に対しての接し方もいたって普通です。

ところが、彼らがときおり話す内容には、耳を疑うようなものがいくつもあります。「今日はいい天気ですね」くらいの感覚で発せられるそれらの言葉はどれも、僕に向けられたものではありません。しかしそういった発言が飛び出すたび、僕はどうしていいかわからなくなります。

うんうんと相槌をうって同意することは、僕にはできません。でもだからといって、発言に対してはっきりと異を唱えるも、業務上、まだまだ教えを請わなければならない立場である自分と、相手とのこれからを考えれば、それもできません。

 

「社会」に出るってこういうことなのでしょうか?

昔から、このような発言は職場でもどこでも、「社会人の世界」では見られるものだったのでしょうか?

生まれてからこれまで、普段の会話では聞くことのなかった種の差別、憎悪にまみれた発言を、社会人として、働き始めてからたくさん聞いてきました。

僕は以前このブログで、インターネットは「リアル」の社会に対し、「舞台裏」としての機能を担っていて、そこでは「表舞台」では言えない「本音」ーこれには差別的な考えも含まれるーが書き込まれていて、その意味で「本音の領域」である、というような考えを書きました。

その記事では、僕は職場を「表舞台」の例として挙げています。ところが最近の職場の人たちの発言を聞くたびに、それは間違っていたのではないかという思いが強くなります。

記事を書いた当時、僕は大学生でしたが、そのとき表舞台では言えない本音だと考えていた様々な言葉を、職場で、何度も聞いてきたからです。

 

哲学者のラッセルは、彼がケンブリッジ大学に入ったとき、知性や明晰な思考が評価される世界に自分が置かれていると気づき、感動を覚えたと語っています。

僕は職場が、必ずしもそのような場所でなければならないとは考えません。でも働く前は、そういう方向とは別に、高い倫理観と、責任感と、公平な視点をもって全体のために仕事に取り組む、そういう姿勢がよいとされるこの仕事を、自分もこれから携わるということに、一種の期待のようなものを感じていました。

この期待は、ある面ではかなえられています。職務に対しての姿勢や、後輩に対しての指導、あるいは仕事上の「客」への対応は、彼らにも、尊敬する部分が多くあるからです。

でも、根本のところで、おかしいのです。

僕が彼らの意図する攻撃の対象ではないことを当然視して、彼らはこれからも、差別と憎悪のにまみれた話題をぼくに振ってくるでしょう。

他集団に向けられる彼らの残酷さ、それを知ってしまった僕は、本当ならもう彼らと一緒に仕事をしたくはありません。でも、僕はこのことで、仕事を辞めたいと考えるほど悩んでいるわけでも、正直ないのです。率直に言うならそれは、現状、僕自身にこれらの発言の矛先が向けられてはいないからです。

もちろん、僕のような態度は、状況を悪化させるだけであるとは、僕自身もわかっています。

でも、世の中全体が、そうした発言を許容する雰囲気になっているのならば、つまり、職場が表舞台ではなく、実は本音の領域である裏舞台だったなどということではなく、実際のところ、あの種の考えが、もはや隠すべきものとしてみられなくなっているのだとすれば、あのような会話に遭遇した一人の人間に、できることはほとんどないようにも感じてしまうのです。

下記に続くナチ時代を過ごした言語学者の告白が、最近、僕の頭の片隅に常にあります。

 

「気がついてみると、自分の住んでいる世界はー自分の国と自分の国民はーかつて自分が生れた世界とは似ても似つかぬものとなっている。いろいろな形はそっくりそのままあるんです。家々も、店も、仕事も、食事の時間も、訪問客も、音楽会も、映画も、休日も…。けれども、精神はすっかり変っている。にもかかわらず精神をかたちと同視する誤りを生涯ずっと続けてきているから、それには気付かない。いまや自分の住んでいるのは憎悪と恐怖の世界だ。しかも憎悪し恐怖する国民は、自分では憎悪し恐怖していることさえ知らないのです。誰も彼もが変って行く場合には誰も変っていないのです」*1

 

 

*1:丸山眞男「現代における人間と政治」杉田敦編 2010『丸山眞男コレクション』平凡社ライブラリー p.405 ミルトン・メイヤー『彼等は自由だと思っていた』より

ある種の寄付の呼びかけに対する違和感

 

「あの時○○人は私たちにたくさんの寄付をしてくれた。だから今度は私たち××人が、その恩返しをする番だ」

このような言説を、(特定の)諸外国で災害が起きた際に見聞きしたこと、みなさんはあるでしょうか。

この種の寄付の呼びかけには、時に「義務」を迫るようなものも存在しますが、僕はそういったものを見聞きするたびに、いつもどこか心にひっかかるものがありました。が、それがなぜなのかはよくわかりませんでした。

ところが最近この違和感は、僕の中の「道徳的個人主義」からくるものだと気づき少し納得したというか、自分の価値観の、ひとつの方向性を発見して、少し驚いています。

 

以下にこのような言説に対する、道徳的個人主義の観点から見た違和感を、いくつか挙げてみたいと思います。

なお、今回の記述は、だから上記のような寄付の呼び掛けはやめるべきだ、と主張するものでも、また、そうした結論を導くものでもないないということを、はじめに断っておきます。

さらに、最終的な寄付の多寡を重視する結果主義、功利主義を視野にいれたものでもないことも同時に断っておきます(もちろん、これらの原理からの批判は可能だとは思いますが…)

では、いくつか挙げてみます。

 

1.その寄付は○○人として行われたのか

まず一つ目は、これです。 外国で起きた災害に対して寄付するという行為は、寄付する側の国籍という社会的アイデンティティが、直接的に作用した結果なのでしょうか?寄付した人間は、自らの国籍を念頭において、○○人という属性を根拠として、○○人として寄付を決断したのでしょうか?

同じく例えば国内で災害が起きた際、それに寄付する国民は多いと思われますが、それは国籍を意識した結果、「同じ国民だから」という理由でなされるものなのでしょうか。

むしろ、国籍という条件が「結果的」にもたらす、社会的、心理的、地理的距離、または実際に被害にあっている家族、親類がいるという事実、あるいはその災害に関する情報の膨大さ、そして寄付の窓口の多さ、しやすさが影響しているのではないでしょうか。

これは、中東におけるテロと、欧米先進国でのテロに対しての、人々の関心度の違いを生む構造と少し似ています。

人が自分以外の人々の苦難に心を痛め、その悲しみを共感できるのかは、国籍そのものというよりも、国籍やその他の諸条件が結果的にもたらす、上記のような要因によって、自己とその集団の近接性が本人にとってどう感じられるかにかかっています。

寄付という行為は、そのような意味で感情的なものです。したがって寄付する際、「○○人として」、というある種の義務論的な要素は多くの場合入ってきません。そのような属性は、結果的に寄付という行為を生じさせるかもしれませんが、その作用は上記のように、間接的なものにとどまるように思われるのです。

したがって個人的には、外国からの寄付を国籍で括り、それを「恩返し」の根拠として持ち出すのは、寄付した人々を単純化する、寄付を受けとる側の理屈だと感じます。

 

 2.その寄付は××人として受け取ったのか

1.と同じ理由で、この疑問も生まれます。その寄付は、○○人が、災害が起き、困難な状況にあるのが××人であるということを直接の根拠として、行ったものなのでしょうか?

そして寄付を受け取る側は、災害に苦しむ人としてではなく、××人として、それを受け取るのでしょうか。

1.の議論からすると、このような考えも同様にしっくりこないような感じがします。

 

 3.××人として寄付の恩返しする義務はあるのか

1.2.の議論から必然的に導かれるのが、この疑問です。○○人が、自らの国籍と、災害の起きたのが××という国であるということを直接の根拠として寄付をしたのでなければ、××人の方も、××人として恩返しする義務はないということになります。

そもそも寄付という行為の考え方からすると、義務的な寄付の呼びかけは少しずれているような感じがするのですが、社会における「返報性」(『影響力の武器』参照)の原理からすると、過去に受け取った寄付に対しての義務論的な考え方は多くの人が持っているものだと思われます(僕も持っています)。

しかしそれでも、これまでの議論から考えると、たまたま○○人が多くの寄付をしたからといって、寄付を受けた被災者の住む××という国の××人全員が、その国籍を根拠として、○○人という抽象的な属性に対して、「恩返し」という義務を背負うわけではありません。

返報性の原理からの、このような国籍という属性でくくるような寄付の呼びかけには、間に大きな飛躍があるように思われるのです。

 

 4.○○人以外の国はどうなるのか

結果主義的な話は視野に入れないと最初に断っておいてあれですが、この種の寄付の呼びかけと、それに伴う寄付の考え方がもたらすと思われることを一つだけ書いておきます。

それは、○○人以外、それも例えば貧困国の人々はどうなるのか、という問題です。

というのも、このような寄付の呼びかけには、多くの場合、過去の災害時の○○人からの寄付金の具体的な額が、恩返しという義務の発生要因として使われているからです。

この論理によって寄付が行われるとするならば、そもそも多くの寄付ができない経済的に苦しい人々が多く住む国やそこに住む人々は、いつまでたっても手厚い「恩返し」が期待できないということになります。

しかし実際には、一番寄付を必要としているのは、そのような国の人々なのです。

もちろん、こうした論理で寄付が行われていなくとも、寄付が近接性という感情的な要因で行われているとするならば、この種の問題は生じえます。

しかし、寄付金の多寡を国籍という属性で括り、そして同時にその属性によって受け取るならば、このような隘路から抜け出すことは非常に困難であると思われるのです。

 

 

 

 

「共同体の罪」に対する責任と「歴史修正主義」

 

小池都知事の最近の言動や、8月に放送されたNHKスペシャルの影響もあってか、過去の歴史と、現在を生きる私たちとの関係、あるいはそれに対して私たちが持つ責任などの議論に再び注目が集まっています。

今回の記事ではこのような議論に関連して、「共同体の(過去の)罪」に対して私たちは責任を負う必要があるのか(そもそも負うことが「できる」のか)についてのサンデルの見解を見たうえで、昨今メディアでもよく耳にするいわゆる「歴史修正主義」について、考察してみたいと思います。

 

共同体の過去の罪、つまり「先祖の罪」を現在の世代が償うべきか、あるいはそのような義務を生じさせる道徳的責任を我々が持つのかどうかという問題は、非常に根深いものです。

サンデルは著書『これからの「正義」の話をしようーいまを生き延びるための哲学ー』で、こうした責任の存在や、それに基づいて歴史上の罪に対して謝罪することを、原理的に否定するある主張を紹介しています。

それは、「歴史上の不正について謝罪する義務があるのは、あるいはそのような立場をとることができるのは、実際にその不正に関わった人間だけである。したがって自分が生まれる前の共同体の罪に対して、道徳的責任を持つことも、もちろん謝罪する必要もない」という主張です。

サンデルはこうした原理的反対論を退けるのは容易ではないと指摘します。なぜならこの反対論は、「道徳的個人主義という、現代政治や法律の基盤となっているような、魅力的な考え方に因っているからです。

 

道徳的個人主義の原理は…自由であるとは何を意味するかを主張しているのだ。道徳的個人主義者にとって自由であるとは、自らの意志で背負った責務のみを引き受けることである。他人に対して義務があるとすれば、何らかの同意ー暗黙裡であれ公然とであれ、自分がなした選択、約束、協定ーに基づく義務である。

…この考え方は、われわれは道徳行為者として自由で独立した自己であり、従前の道徳的束縛から解き放たれ、みずからの目的をみずから選ぶことができるという前提に立っている。習慣でも伝統でも受け継がれた地位でもなく、一人一人の自由な選択が、われわれを拘束する唯一の道徳的責務の源である

         (マイケル・サンデル 2011年『これからの「正義」の話をしようーいまを生き延びるための哲学ー』p335 ハヤカワ文庫)

 

こうした考え方は、明らかに近代化とともに進行し、また近代化そのものを形作ってきました。身分や伝統、地縁・血縁などの封建的なしがらみから抜け出し、自分の運命を自分で選択し切り拓いていく。こうした自由観は現代では多くの人が共有しています。もちろんこうした自由は、選択する個人に、それに伴う「責任」も、―時に耐えがたいほどの重さで―引き受けさせようとします。しかしだからといって例えば江戸時代のように、生まれた家によって人生がほぼ完全に決まってしまう時代に戻りたいと考える人は少ないでしょう。

このようにしてみると、共同体の過去の罪に対しての原理的反対論は、意外にも、私たちの日常感覚や直観に根ざしたものであると言うことができるように思われます。近代化を推進してきた自由主義リベラリズム)の論理を、純粋な形で敷衍させれば、「連帯責任も、前の世代が犯した歴史的不正の道徳的重荷を背負う義務も、ほとんど入る余地がない」のです。*1

 

サンデルは、こうした原理的反対論の有効性を認めたうえで、この主張の土台となる自由観には欠陥があると指摘します。そして、リベラリズムのいわゆる(しがらみから解き放たれ自由に選択できるという)「負荷なき自己」(unencumbered self)という自己観に対して、共同体の文化や伝統、歴史の中に「位置付けられた」あるいは「埋め込まれた」存在として、「負荷ある自己」(encumbered self)という概念を提起します。

サンデルはこの「負荷ある自己」という前提を基に、共同体の過去の歴史的不正に対しての現在世代の、「世代を超えた集団としてのアイデンティティから生じる道徳的責務」の存在を認めるのです。

 

リベラル派の自由の構想の弱点は、その魅力と表裏一体だ。自分自身を自由で独立した自己として理解し、みずから選ばなかった道徳的束縛にはとらわれないと考えるなら、われわれが一般に認め、重んじてさえいる一連の道徳的・政治的責務の意義がわからなくなる。そうした責務には、連帯と忠誠の責務、歴史的記憶と信仰が含まれる。それらはわれわれのアイデンティティを形づくるコミュニティと伝統から生まれた道徳的要求だ。自分は重荷を負った自己であり、みずから望まない道徳的要求を受け入れる存在であると考えないかぎり、われわれの道徳的・政治的経験のそうした側面を理解するのは難しい。

                              (同上 p346)

 

このような過去の歴史と今の私たちとの関係に関する議論は、戦争責任などのような国家的な問題だけにみられるものではありません。

例えば、最近は下火ですが、数年前中国人観光客のいわゆる「爆買い」がメディアを賑わせたとき、彼らの観光地でのマナーが大々的にメディアで取り上げられました。

雑誌や新聞、テレビやインターネットでも、中国人観光客のマナーは悪いという言説があふれ、それを国民性や民族性と結びつけるような議論もありました。

そんなおり、そのような風潮を戒めるようなものとして、次のような言説も目立ち始めました。それは「日本人も、バブルのころは海外観光地でのマナーはとても悪かった。現地の人からの評判は悪く、顰蹙を買っていた。」というものです。

このような物言いは、明らかにサンデルの言う「負荷ある自己」という自己観を下敷きにしています。

中国人観光客のマナーについて悪く言う人が、過去に海外の観光地で同じことをしていたなら別ですが、もしそうでないのなら「日本人だって」という指摘は、どれほど妥当性のあるものなのでしょうか。少なくとも、バブル以降に生を受けた日本人や、その時期小さい子供だった世代には理不尽な物言いであると、「道徳的個人主義者」は言うでしょう。*2

(とは言え、この例での「日本人も」という応答は、共同体の過去の罪に対する「責任」に関してのものというよりも、マナーの悪さを国籍とか民族と結び付けがちな当時の言説に対して、相対的なものの見方を提示して、そのような差別的な推論を防ぐために提示されたものであると考えられます。しかしそれでもこの「日本人も」という指摘が、日本という共同体への帰属を基にしたものであるということには変わりありません。)

 

ここまで、共同体の過去の不正に対する道徳的責任に関してのいくつかの議論を見てきました。これらをふまえた上でここからようやく、「歴史修正主義」について考えてみたいと思います。

まず「歴史修正主義」は、共同体の過去の不正に対する道徳的責任を拒否するという点では、上記の自由主義(「負荷なき自己」)をバックボーンとした道徳的個人主義者と同じです。

しかしその「拒否」という結論までの理路は異なります。

道徳的個人主義者は既にみたように、共同体の歴史上の不正について謝罪する責務があるのは、その不正に関わったものだけであるとする立場から、現在世代の道徳的責任の存在を否定するのでした。

一方「歴史修正主義」者は、そのような立場をとりません。彼らが現在世代の道徳的責任を拒否するのは、共同体の過去の罪に自身が関わっていないからではなく、そのような罪がそもそも存在しなかったと、彼らが考えているからです。

罪がもとよりなければ、それを償う義務は初めから存在しません。したがって彼らにとってみれば、現代世代だけではなくそのような「不正」を行ったとされる時代を過ごした先祖にも、責任はないのです。

こうした理路の違いからは、この二者の自己観に大きな相違があることが推察されます。

というのも、道徳的個人主義の考え方からすれば、過去の罪に対する現在世代の責任の拒否はしても、長年の学問的研究によって定説となっている歴史までも(明らかな嘘まで取り入れて)修正し、その罪の存在自体を否定する動機がないからです。

むしろ、道徳的個人主義者の立場からすれば、自己は共同体から独立しているのだから、共同体の過去の罪を認めることに、おそらく躊躇はありません。罪を認めたうえで、それでも自分に責任はないと主張することができます。

このように考えると歴史修正主義」者は、道徳的個人主義の前提となっている「負荷なき自己」という自己観ではなく、逆に「負荷ある自己」という自己観を持っているということが予想されます。

道徳的責任だけでなく、罪の存在までも否定するのは、共同体に「埋め込まれすぎている」、あるいは「位置付けられすぎている」*3がゆえに、その共同体の歴史が個人に課す責任、重荷(burden)に耐えられないからです。*4

しかし、もし仮に「歴史修正主義」者が共同体に「埋め込まれすぎている」ほど「負荷ある自己」なら、共同体の過去の不正も、責任をもって受け入れる方向もあるのではないでしょうか。

サンデルはまさにその論理で先祖の罪に対する道徳的責任の存在を認めているのです。同じ「負荷ある自己」という前提から、なぜ異なる結論が導かれるのでしょうか。

ここでそれについて詳しく論じることはしないですが、こうしたことの背景には、共同体への帰属という社会的アイデンティティの、自尊心高揚のための道具的利用があるのではないか、と僕は感じています。

ようするに、共同体の文化や歴史などが、その共同体の一員としての自分に名誉と誇りを与えるものである場合のみ、彼らはそれを受け入れるのです。しかしそうではない場合、つまり「不名誉」なものと感じられるときには彼らはそれを拒絶します。

それはおそらく、彼らが共同体を、サンデルをはじめとしたコミュニタリアンのように、自己を解釈し、発見するための場として、ある種運命的にとらえているわけではないからだと思われます。つまり彼らは共同体を、自身の名誉や自尊心を高めるための装置のようなものに過ぎないと考えているのです。*5

 

 

 

*1:とは言え現代のリベラリズムは、このような連帯責任や過去の罪に対する道徳的責任などを完全に否定するわけではありません。国民統合の手段として、共同体への帰属に根差したアイデンティティを形成することの重大性は認識しており、その中には歴史意識や相互義務の意識の共有も含まれます(リベラル・ナショナリズム)。そして何より、そうした歴史上の不正の多くはリベラリズムの考える「正義」と、全く相容れるものではないことがほとんどです(人種差別等)。したがってこのような罪を無視したり、あるいはなかったことにしたりすることは、リベラリズムの立場からは許すことができないものなのです。

*2:このような議論は、いわゆる「パクリ」問題についても言えます。

*3:このことを「国家と自分を一体視している」とか、「国籍に対する社会的アイデンティティが強い」などというふうに言えるかと思います。

*4:このような重荷に耐えられるかそうでないかは、他には経済状況や、社会関係資本など、さまざまな要素が絡んでいるのではないかと僕は感じています。

*5:これは、過去の記事で取り上げた「内集団バイアス」と「黒い羊効果」の議論にも関係していると思われます。

NHKの日米トップに対する報道の違い(ミサイル発射とハリケーン被害に関して)

 

このブログでは過去に何回か、(政治に関する)報道における「アクター中心主義」の問題について論じてきました。

 

human921.hatenablog.com

 

human921.hatenablog.com

 

報道における「アクター中心主義」とは、僕が勝手に作った造語で、簡潔に言えば、

 

1 人物の言動を中心にニュースを構成すること

2 ニュースの焦点が人物から離れないこと

3 報道内容が「誰が何をした、言った」から先へ進まず、人物から離れた言動それ自体の検証(例えば発言の真偽性や過去のそれとの整合性の検証)をしないこと

 

これらの特徴を持ったニュース報道を指しています。

 

さて、僕は現在、日常的にテレビのストレートニュースを見ることのできる環境にあるわけですが、このアクター中心主義に関して、ある感覚を少し前から抱いていました。

それは、この「アクター中心主義」的な傾向が、外国の政治アクターに対してよりも、日本国内のアクターに対しての方がより強く出るのではないか、というものです。

さて、今回たまたまこの日米両国の政治のトップが、似たような困難な状況を前にして、似たような発言をしたので、比較を試みたいと思います(出典はすべてNHKです)。

 

まず、アメリカのトランプ大統領からです。

テキサス州に上陸したハリケーンの大きな被害に対してのトランプ大統領の対応を伝えるストレートニュースです。

 

www3.nhk.or.jp

 

 まず、タイトルは「米大統領 米南部の大雨災害で万全対応を強調 」です。また、実際にテレビに流れた動画を見ると(リンク先ページにもあります)、右上のテロップにも、「米 大規模洪水で大統領 万全の対応 強調」とあります。

そして中身を見ると、

アメリカ南部に上陸したハリケーンに伴う大雨で、テキサス州ヒューストンなどでは大規模な洪水が起きていて、地元の警察が、水がつかった地域に取り残された人たちおよそ3000人を救出し、トランプ大統領は、「人命を最優先に地元の州などと緊密に連携している」と述べ、万全の対応をとっていると強調しています。

 

「復興は、長く、困難な道のりになるが、政府にはその準備ができている」と述べ、万全の対応をとっていると強調しています。

 

と、このような感じになっています。

注目するべきは、大統領の発言の紹介を「述べました」で終わらせずに、(発言によって)「万全の対応を取っている」という姿勢を「強調している」と言うことで、トランプ大統領自身や彼の発言から一歩引き、それにたいしてNHK独自の評価を加えている点です。

また、次のようなニュースもあります。

 

www3.nhk.or.jp

 

同じくテキサス州でのハリケーン被害に、トランプ大統領が現地入りの意向を示したことを伝えるストレートニュースですが、トランプ大統領がツイッターで政府各機関の連携とその対応を評価する旨のツイートをしたことに対しては、

 

トランプ大統領はツイッターに「政府機関の間ですばらしい調整がなされ、数千人が救助された」と投稿して順調な救助活動が行われていると自賛したうえで、「問題がなければすぐにテキサスに行きたい」とみずから現地入りする意向を明らかにし、そのあと、29日の訪問が決まりました。

 

と、このように書かれており、 ニュースの最後はこのような形で締めくくられています。

 

ハリケーンへの対応をめぐっては、2005年の「カトリーナ」の際に当時のブッシュ大統領が遅れを批判されて支持率が急落したこともあり、トランプ大統領は機敏に対応しているとアピールしたい考えと見られます。

 

一貫して言えるのは、どちらにもNHK独自の視点が入り込んでいるということです。

前者についていえば、ツイートの紹介を「指摘しました」のような形で締めくくってもよさそうなものですが、「自賛」という言葉を使い、(おそらく)批判的な意味を込めた紹介になっていますし、後者では、現地の訪問を「アピール」だと言っているわけです。

 

さて、次に日本の安倍首相に対してのそれを見てみます。

まず、このニュースからです。

www3.nhk.or.jp

 

まずタイトルは、「北朝鮮ミサイル 首相『断固たる抗議』」です。リンク先には動画はないですが、このニュース内容を伝えていた当時のテレビ映像では、右上のテロップには、「『国民の生命守るため 万全の態勢』安倍首相」とありました。

そして中身は、このような感じになっています。

 

安倍総理大臣は「北朝鮮が発射した弾道ミサイルがわが国上空を通過し、太平洋に落下した。政府はミサイル発射直後からミサイルの動きを完全に把握しており、国民の生命を守るために安全に万全の態勢をとってきた」と述べました。

 

 安倍総理大臣は「国連安保理に対して、緊急会合の開催を要請する。国際社会と連携し、北朝鮮に対するさらなる圧力の強化を、日本は強く国連の場において求めていく。強固な日米同盟のもと、いかなる状況にも対応できるよう、緊張感を持って、国民の安全そして安心の確保に万全を期していく」と述べました。

 

 前述のトランプ大統領に対しての報道との大きな違いは、発言の紹介を「述べました」で簡潔に終えている点です。つまりニュースを発言の紹介にとどめて、発言に対する評価は一切入っていないのです。特に前者は、トランプ大統領の例でいえば「自賛」と紹介されても不思議ではないような発言です。が、そのようにはなっていません。

もちろん、このようにすべてが発言そのまま紹介されるだけで終わるわけではありません。ミサイル発射には関係ないですが、今朝、このようなニュースもありました。

 

www3.nhk.or.jp

 

安倍首相が党役員と夕食をとった際に会談した内容を伝えるニュースですが、首相の発言はこのように紹介されています。

 

安倍総理大臣は交代した役員らをねぎらったうえで、先月の東京都議会議員選挙で自民党が大敗したことに触れ「私を含めて反省すべきは反省していきたい」などと述べ、謙虚に政権運営を行っていきたいという考えを示しました。

ここでは確かに、発言の紹介が「述べました」で終えられてはいません。しかしトランプ大統領の例のように、「強調しています」などと発言から距離を保った評価が行われているわけではなく、「考えを示した」と締めることで、鍵カッコ以降は、結局発言の大意を紹介しているにとどまっています。

 

これまで紹介してきた事例は確かに些細ですが、実際映像を見たり、あるいは文章で読んだりしてみると、非常に印象が違います。

同じ政治的アクターに対して、なぜこのような報道の差が生じるのでしょうか?その理由は僕にはわかりませんが、同日に同じような状況で日米の首脳が同じような発言をしたのにも関わらず、報じ方が異なるので、とても興味深く思い、この記事を書いてみました。

 

追記(8月31日)

ハリケーン被害で、トランプ大統領が被災地に訪れたというニュースが、NHKでも取り上げられました。

その内容が上記で引用したもの以上に、例として「典型的」だったのでここで紹介しておきます。

 

www3.nhk.or.jp

 

以下引用です。

 

 アメリカのトランプ大統領はハリケーンが上陸し、大規模な被害に見舞われている南部テキサス州の被災地を訪れ、政権の対応は万全だと主張し、みずからの発言への風当たりが強まる中、野党やメディアに批判のきっかけを与えないよう、被災者支援を最優先にする姿勢を強調しています。…

トランプ大統領は、今回のハリケーンについて、連日ツイッターに投稿し、政権の対応は万全だと強調しており、白人至上主義などをめぐるみずからの発言への風当たりが強まる中、野党やメディアに批判のきっかけを与えないよう、被災者支援を最優先にする姿勢を強調しています。

 

『ハクソーリッジ』と『小さな抵抗』

 

※映画のストーリーに関しての記述があります。

 

先日、映画『ハクソーリッジ』を見てきました。

沖縄戦において敬虔なキリスト教徒としての立場から戦場においても人を殺さず、それどころか武器すら持たずに衛生兵として数多くの兵士の命を救った、実話を基にした人物の話です。

僕は、この映画のあらすじを見た時から、以前読んだある本のことを思い浮かべていました。それが、タイトルにある『歌集 小さな抵抗』です。

この本の著者、渡部良三は、アジア太平洋戦争末期に学徒出陣によって中国戦線に送られ、そこで「度胸付け」として中国人捕虜を銃剣で突く刺突訓練に参加させられます。

彼はそこでキリスト者として捕虜殺害を拒否し、そのため凄惨なリンチを受けますが、それを耐えながら、戦場の体験を歌に詠み続けました。

『小さな抵抗』はその歌と、捕虜殺害を含めた戦場での体験が講演記録として収められている本で、戦場での道徳的な決断を、信仰という背景から下したという点から、『ハクソーリッジ』とは多くの共通点があるのです。

そういうことで僕は漠然と、『ハクソーリッジ』について、『小さな抵抗』での話と似たようなものが展開されるのだろうと予想していました。

ところが、僕の予想は裏切られました。

実際には『ハクソーリッジ』と『小さな抵抗』には、「汝、殺すなかれ」という戒律を実行に移すまでの回路に、大きな違いがあったのです。

具体的に言えば、『小さな抵抗』の渡部良三は、純粋にキリスト教の信仰に根差した「不殺」の決断でしたが、主人公デズモンド・ドスのそれは、信仰心からというよりもむしろ、カント主義的なものを僕は感じたのです。

 

まずデズモンド・ドスは、「日本の真珠湾攻撃に衝撃を受け」、「地元の仲間が皆志願しているから」という、当時実にありふれていたであろう動機から、自らの意思で陸軍に入隊します。

そこで彼は信仰心から、「人を殺さない」「武器を持たない」という決断をし、それを実行しますが、仲間からのリンチや軍法会議など度重なる困難に悩まされます。

葛藤を続けるデズモンドに、婚約者のドロシーは「プライドの問題なのではないか」と問いかけます。彼はそこで「そうかもしれない」「でもこれを破ったら、自分が自分じゃなくなる」と返すのです。

 これより前に、上官から「神の声が聞こえるのか?」と問われ「聞こえません。聞こえるという人はインチキです」と答えるシーンもあったのですが、それとドロシーとの問答を見て、僕の考えは確信に変わりました。

その考えとは、(映画の脚色の影響かは別にして)主人公デズモンドは、厚い信仰心からというよりも(信仰心はきっかけに過ぎず)、自らの意志の格率-「人を殺さない」「武器を持たない」-に従い自律的に行動する、カント主義的な道徳観を基に、これらの難しい決断を実行に移していたのではないか、ということです。

 

カントが定式化した道徳法則「定言命法」では、人間は、自らで定めた法則(格率)に義務の形で従う場合のみ、理性的な「人格」としての自由な存在となることができるとしています。

というのもカントは、本能や衝動を契機として、条件が常に伴う「仮言命法」(XのためにYする)によって行動するのであれば、人間は本能の奴隷に過ぎず、その意味で他律的で自由を持たない動物と変わらないと考えていたからです。

主人公デズモンドの「これを破ったら、自分が自分じゃなくなる」というセリフからは、戒律がいつの間にかアイデンティティとして自らの内に入り込み、それを遵守することが自分を自分たらしめている、つまり一個の人格として成り立たせているのだという確信が(その具体的な理路の自覚の有無は抜きにしても)垣間見えます。

捕虜の殺害を拒否した渡部良三はその点、刺突訓練で次が自分の番だと予感し、祈る中で神の声(「汝、キリストを着よ。すべてキリストに依らざるは罪なり。虐殺を拒め、生命を賭けよ!」)を聞き、それが最終的な決断の後押しとなるのです。

 

僕は『ハクソーリッジ』を見て、「人を殺せ」と命令される場面において、「殺さない」という道徳的な行動に至るには実に様々な回路があるのだということに改めて気づかされました。それがたとえ、信仰心によるものだとしても、その内実には、多くの要素が絡んでいるのです。

もちろん、極限状態において人間を道徳的な行動に導く宗教の力というのも見過ごせません。デズモンドと渡部の二者の根底には、やはりキリスト教への帰依がありました。

ところで、政治哲学者のハンナ・アーレントは、「汝、殺すべし」と命令されていたナチス体制下において、ユダヤ人を助けたドイツ人の行動について、道徳や良心の観点から考察しています。

彼女によれば、これらの人々は、必ずしも宗教的な人ではなく(それどころかアレントは、宗教的な信念はあまり役に立たなかったとも述べています)、さらには命令や法に従うか反抗するかについて葛藤もなく、ただ「わたしにはできない、死んだほうがましだ。もしもわたしがそんなことをしたら、生きる意味がなくなってしまう」と考える人々であったそうです。

このような分析からすると、デズモンドと渡部は、法を無視しユダヤ人を助けたドイツ人とは別の道徳観を持っていたようにも思えます。というのも、両者ともまず宗教がその道徳的な判断の基礎となっていますし、決断までの葛藤も非常に激しいものだったからです(特に渡部は刺突拒否の宣言のその直前までどうするか悩んでいます)。

とは言え、アーレントはまた別の重大な指摘もしています。それは、ユダヤ人を助けた人々は、「孤独」の中で「自己との間で無言の対話を続ける『思考』」を続け、立ち止まって考え、判断することを止めなかった者たちである、という指摘です。

『ハクソーリッジ』では、主人公デズモンドが、孤独に聖書を読むシーンが多くあります。そして、『小さな抵抗』の渡部良三は、厳しい軍隊生活の中で700首の歌を詠みました。このような創作活動は、多くの場合、自分と向き合う孤独な時間がなければ成しえないことです。

その意味で両者に共通して言えるのは、戦場での軍隊生活という凝集性の非常に高い共同体の中で、周囲とのコミュニケーションを断絶し、独りで自分と向き合うことのできる私的な時間・空間を持ち得ていた、ということではないでしょうか。

先ほど道徳的な決断までには様々な回路がある、と述べましたが、集団の支配的な規範が「汝、殺すべし」と命じるような極限の状況では、この「孤独」とは、そのような規範に立ち向かう勇気を生み出す必須の要素なのかもしれません。

 

 

 

 参考文献

渡部良三 2011年『歌集 小さな抵抗――殺戮を拒んだ日本兵岩波現代文庫

ハンナ・アレント 2016年『責任と判断』ちくま学芸文庫