ペンギンの飛び方

本を読んだりニュースを見たりして考えたことを、自由に書いていきたいと思います。

政治とクリシェ

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最近、政治におけるクリシェ(常套句)の存在が再び注目を集めています。

「お役所言葉」という言葉もあるように、そもそも政治とクリシェは切っても切れない関係にあるのかもしれません。

しかし、このところ見られるそれは、実のところ単に失言を防ぐためとか、相手を煙に巻いて話を逸らすためなど、戦略的に用いられるという以外に、何か別の問題もはらんでいるような気もするのです。

 ( なお、僕は過去二回の記事で、報道における「アクター中心主義」というものについて考えてきました。政治の場でのクリシェは、この「アクター中心主義」的報道と、(悪い意味で)非常に相性が良いのですが、その点この朝日新聞の記事で紹介されている記者さんたちの質問は、このようなクリシェと真っ向から対決する姿勢を見せていて、とても勇気づけられました。)

 

冒頭の記事も含め最近の政治の場から聞こえてくる言葉を聞いていて、僕が頭の中に浮かべていたのが、アーレントアイヒマンに対する記述でした。今回は以下にその記述を手短に引用し、記事を終えたいと思います。

 

アイヒマンは)その時々の気分にふさわしい皮相な決まり文句を、自分の記憶の中で、あるいはそのときの心の弾みで見つけることができればしごく満足で、〈前後矛盾〉などとといったことにはまったく気づかなかった*1

 

アイヒマンは愚鈍なのではなく、奇妙なほどにまったく〈思考すること〉ができないのでした。…

いつも使う決まり文句の数はかなり限られたものでしたが、…アイヒマンがまったく無縁になるのは、こうした決まり文句を使えない状況だけでした。…*2

 

 クリシェ、十八番の台詞、表現と行動の伝統的な決まりを遵守することは、わたしたちを現実から保護するという社会的に認められた機能をはたします。どんな出来事や事実でも、それが起こったということによってわたしたちの注目を集め、思考をかきたてるものですが、こうしたものは思考の要請からわたしたちを保護してくれるのです。

…しかしアイヒマンの異例なところは、こうした思考の要請をそもそもまったく知らないことがはっきりしていたことです。*3

 

*1:中山元 2017年『アレント入門』ちくま新書 p166-167

*2:ハンナ・アレント 2016年『責任と判断』ちくま学芸文庫 p295-297

*3:同上

「駆け引き報道」と「抱負報道」

 

前回の記事では、僕は報道における「アクター中心主義」という概念を提起しました。

「アクター中心主義」とは、「対象の『人物』が現在、何を言ったのか、しているのかについてを中心に報道(ニュース)番組を構成すること」を意味し、換言すれば、「ニュースの焦点が「人物」から離れない」という点にその特徴があります。

この種の報道形態は、その内容が「誰が何をした、言った」から先へ進まず、人物から離れた言動それ自体の検証(例えば発言の真偽性や過去のそれとの整合性の検証)をしなかった場合に、問題となります(この問題が実際に起きてしまっているものを、特に「アクター中心主義」と呼ぶ、と前回の記事で僕は述べました)。

以下では、この報道における「アクター中心主義」が、実際に(悪い意味で)表出した例を、「駆け引き報道」「抱負報道」という2つの区分を元に示したいと思います。

(なお、今回の記事も含めこの「アクター中心主義」とは、報道の中でも特に政治に関するそれを念頭に置いたものです)

 

「駆け引き報道」

この報道形態は、一つのニュースの結末を、全て集団間の対立や攻防、つまり「駆け引き」に収斂させてしまうことにその特徴があります。

これは、「アクター中心主義」報道の根幹、「ニュースの焦点が『人物』から離れない」、を突き詰めていけば必然的に起こるものであると僕は考えていますが、以下に最近の例を示したいと思います。

ここ数ヶ月ニュース番組をにぎわせている「共謀罪(改正組織犯罪処罰法)」ですが、6月14日、与党はいわゆる「中間報告」という手法に打って出、15日の朝に当法案は可決成立しました。

いまだ国会での与野党の「駆け引き」が続いていた14日夜のあるニュース番組では、政治部記者を招き入れ、番組冒頭から約20分間、共謀罪に関して報道・解説していました。

僕はその番組を見ていて、不思議な感覚に包まれました。

共謀罪が、いつまで経っても議論の対象にならないのです。

番組の開始15分まで、記者やキャスターが熱心に語っていたのは、「中間報告」の意味と、その手法を与党がとった思惑、そしてそれに対する野党の反応でした。

彼らは、共謀罪そのものを論じるのではなく、共謀罪の採決を巡ってのアクターの「駆け引き」を長い時間をかけて「解説」していたのです。

そして残りの5分間は、共謀罪の争点を与野党など主要なアクターの主張を交互に紹介し、共謀罪のコーナーは終わりました(もちろん、その主張に対する「検証」などはありませんでした)。

今回のような重要な法案が、今まさに採決されるという段になって、このような「駆け引き」に焦点を当てるというのは僕は問題であると思います。

それは、報道から「法案とはどういったものなのか」という情報が欠落することで、視聴者の間で法案への理解が深まらないから、という理由だけではありません。

前回の記事でも述べましたが、法案をそのものが、国民には関係のない「政治ゲーム」(政局)の一要素としてしか見られないという傾向を助長するものであると考えられるからです(これは、政治不信とか政治的無関心が広がっていると言われて久しい現在においては、より切実です)。

「(与野党の)攻防が続いています」あるいは、「駆け引きが続いています」 で終わるニュースは多いですが、こういった報道には多くの問題があるように僕は思います。

 

「抱負報道」

前回の記事では、 僕は「対象となった人物が公共性の高い立場にいるとすれば、その人物の言動は自然とニュース性を帯びる」と述べましたが、その性質上、他より高いニュース性を持つと考えられるのが、アクターの発する「抱負」です。

「アクター中心主義」の特徴の一つ、というより特別にそのように呼ばれる条件として、「『誰が何をした、言った』から先へ進まず、人物から離れた言動それ自体の検証(例えば発言の真偽性や過去のそれとの整合性の検証)をしない」というものがありました。

したがって「アクター中心主義」が染み付いた報道においては、アクターが高らかに主張する抱負も検証されることがありません。

つまり、抱負に対しての現状はどうであるとか、過去の抱負を受け、実際それは達成されたのかなどが報道されることがないのです。換言すれば、「言いっぱなし」になるのです。

例を挙げます。

毎日のように宿題を忘れる(というよりやってない)小学生がいたとします。頭を悩ませる先生に、その小学生は毎回次のように言います。

「これからも、義務教育を受ける者としての務めを果たすべく、しっかりと宿題を提出していきたい」

明らかにこれは虚偽です。抱負と実際が伴っていないからです。ところが「アクター中心主義」報道では、アクターの言動の検証をしないので、抱負と矛盾する「毎日のように宿題を忘れる」という事実が掘り起こされることはありません。

したがって、この小学生の例は次のように報道されます。

 

小学生Aは、学生生活の中でも重要な要素の一つといわれる宿題提出について次のように述べました・・・。

これからも、義務教育を受ける者としての務めを果たすべく、しっかりと宿題を提出していきたい

小学生Aは、このように述べ、かねてからのスローガン「お手本となる小学生に」を目指すべく、最大限努力する方針です・・・。

 

 これに上述した「駆け引き報道」が組み合わさると、次のように報道は続きます。

 

これに対し先生Bは、「A君は十分に宿題を提出していない」と反発し、小学生と先生の駆け引きは続いています・・・。

次のニュースです。

 

報道する側は、その気になれば独自に、A君が宿題を全くやっていないという事実を明らかにすることが出来ます。 

しかし「アクター中心主義」の報道において、それはなされません。抱負は検証されずいいっ放し、つまり「抱負報道」となり、よくて「駆け引き報道」へと収斂していきます。

おそらくこのような状況では、意図的に抱負を連発するアクターが登場するでしょう。現状や実際がどうあれ、ひたすら未来に向けたきれいなメッセージを宣言するのです。

メディアはそれをニュースとして扱ってくれますし、内容の検証もしないのでアクターにとっては効果的なメディア戦略となるわけです。

さらに言えば、現実はこの小学生の宿題の例のように、わかりやすく白黒つくことばかりではありません。

例えば「丁寧に真摯に説明していく」という発言に対しての反発は、「あなたは丁寧に真摯に説明していない」ということにしかならず、このやり取りの真偽をはかるためには、実際に映像を使って検証するしかないのです(話し合いの場そのものを拒否することもありますが、その場合はその事実をかつての抱負と共に取り上げることで検証は可能です)。

 

 

報道における「アクター中心主義」

 

現在、環境が変わり日常的にテレビのニュースを見ることができる状態にあります。そこで自分が気になったある報道の形態を、ここで備忘録的に書いておきたいと思います。

その報道形態というのが、タイトルにある「アクター中心主義」です。僕はメディア関係に詳しくないのでこのような概念がメディア論にすでにあるのかどうかはわかりませんが、ここではこれを、「対象の『人物』が現在、何を言ったのか、しているのかについてを中心に報道(ニュース)番組を構成すること」と定義したいと思います。

対象となった人物が公共性の高い立場にいるとすれば、その人物の言動は自然とニュース性を帯びることになります。したがって、ニュース番組は「誰が何をした」「何を言った」という情報が多くなる傾向にあります。

したがって僕自身、人物の言動に注目が集まることそのものについては、自然な現象であると考えていますし、今回問題にするのもその点ではありません。

この種の報道が問題となるのは、報道の内容が「誰が何をした、言った」から先へ進まず、人物から離れた言動それ自体の検証(例えば発言の真偽性や過去のそれとの整合性の検証)をしなかった場合です。

タイトルにある「アクター中心主義」とは、このような問題が実際に起きてしまっている報道について指したものであり、僕が最近テレビのニュース番組を見ていて感じたのも、この報道形態だったのです。

 

ところで、この「アクター中心主義」は、言い方を変えればニュースの焦点が「人物」から離れない、という点でも特徴付けられます。

このような傾向のある報道においては、次のような問題が生じます。

例えば現在、国の行く末を左右する法案Xが国会の審議にかけられているとします。与党Aはこの法案が国家の将来のためになるとして、法案の可決を目指しています。一方、野党Bはこの法案Xに多数の不備があるとして、可決を阻止しようとしています。

さて、このような場合、「アクター中心主義」的報道はこの法案Xを巡り、何をニュースとして報じるのでしょうか。

簡潔に言えば、「アクター中心主義」は、その報道において法案Xそれ自体を対象とすることはありません。つまり、法案Xは焦点にはなりません。

重要法案Xは常に、「(A党の)首相がその有効性を述べた」とか、「B党の○○議員は法案には危険性があると主張した」 などのように、ある「人物」がそれについて何を言ったのかという形でニュースに登場することになります。

つまり、この法案はニュース番組において、人物の発言の中にしか出てきません。公共性の高い政治家というアクターの発言に媒介され、初めてニュース性を獲得するのです。

このような報道にあっては、法案Xの理解が視聴者の間に深まることは非常に困難であると思われます。

それは、番組が法案Xを対象に法案そのものの検証を独自にしないから、と言う理由だけではありません。法案Xを巡るやり取りが、国民には関係のない政治ゲームの一コマとしてしか見られないという傾向を助長するものであると考えられるからです(これは、政治不信とか政治的無関心が広がっていると言われて久しい現在においては、より切実です)。

 

おそらく、池上彰さん司会の「解説番組」は、このような「アクター中心主義」の中で、「そもそも法案Xとは何なのか?」というような疑問や、「法案Xについて知りたい」などのニーズが人々の間で高まった結果、登場したものだと思われます。

しかし、池上さんの番組は毎日やっているものではありませんし、他の解説番組も深夜の短い時間に放送されるという状況にとどまっています。

スポットニュースのようなストレートニュースでは時間の都合上、 ニュースがアクター中心で構成されることは避けられないでしょうし、そもそも複数のニュースを手短にかつ簡潔に伝えることが目的です。したがってやはりこのような解説や検証は、まとまった時間の取れるニュース番組の中で行われるべきだと思います。

もちろん、このような役割を担うのはテレビだけではありません。むしろ、新聞や書籍の方がメディアとしての形態的には、より対象についての解説や検証には向いていると思われます(し、実際にそのような記事は多いです)。

ところが、昨今これらのメディアは力を失っていますし、そもそも仕事で疲れた体で何かをゆっくり読む、というのは非常に骨の折れる作業だと思います(僕自身もそうです)。

最近になってアクター中心主義が強まっている、ということは正直僕には判断できません。テレビというメディアは昔からこうだったという意見もあるかもしれません。

しかしやはりテレビといえども報道では、人物から離れた対象もニュースとしてもっと積極的に取り扱うべきなのではないか、と僕は考えています。 

 

「日本スゴイ」と「内集団バイアス」

 

現在様々なメディアで取り上げられることの多いこの「日本スゴイ」という言説。各所で語られてる話題ですが、今回の記事ではこの件を、社会心理学的な観点から考えてみたいと思います。 

 

僕が見るにこれらの言説には、大きく2種類のものがあるように思います。

まず一つは「日本は優れている」というもの。そしてもう一つは「日本には独自性がある」あるいは「日本は特別なものを持っている」というものです(日本の後には「人」という言葉を入れてもいいです)。

カギカッコで示したこれらの言説には、ある共通点があります。それは、「他国との比較」が必要であるという点です。

「優れている」とか「特別である」といった物言いは、比較の対象となる基準のための「日本以外の国」、というアクターが存在しなければ成立しません。

したがってこれらの言説は全て、それがはっきりと言明はされなくとも「他国と比べて」という枕詞が存在しているわけです。

 

さて、こうした集団間の比較の際に、注意する必要のある現象があります。それがタイトルにある「内集団バイアス」、もしくは「内集団ひいき」と呼ばれるものです。

この現象は、自分の所属する集団、つまり「内集団」(や、その成員)を(過剰に)肯定的に評価し、好意的な態度を取る一方で、自分の所属しない集団「外集団」を不当に評価し、そのために貶めたり差別したりすることを指しています。

人間は誰しも、個人的な人間関係の中だけでなく、自身の「社会的カテゴリー」、例えば「人種」や「性別」、「国籍」などからもアイデンティティを形成しています(これを「社会的アイデンティティ」と呼びます)。

人間は一般的に、自己を肯定的に評価することで自尊心を維持、あるいは高揚しようという性質を持っていますが、まさにこの性質のために、「内集団バイアス」は生じます。

つまり、本題の「日本スゴイ」に関して言えば、日本や、その成員を肯定的に評価することで、同じ日本人である自分の自尊心も高まるわけですが、こうした営為の中に、他国やそこに住む人々への貶めや差別が紛れ込んでくるわけです。

 「内集団バイアス」は基本的に、自己と所属集団を一体視する傾向が強い人ほど、つまり、対象の社会的カテゴリーへの帰属意識が高く、それに自己を強く依拠する人間ほど生じやすいということが明らかとなっています。

しかしその一方で、実験のため一時的に分けられた実質的には無意味な集団間においても生じることも判明しており、このことは、自集団を「客観的」に、また他者を傷つけることなく評価することの難しさを物語っているように思います。

 

さて、これまでは集団間の比較におけるバイアス、その中でも「外集団」 に対して危害が及ぶ可能性のあるものについて説明してきましたが、実はこの攻撃の矛先が内集団の成員へと向かうバイアスも存在します。

それが「黒い羊効果」と呼ばれるものです。

この現象は、これまでの「内集団バイアス」が「内集団」に向けて作用させてきた効果を、正反対にしたものであることにその特徴があります。

つまり「黒い羊効果」とは、「内集団」の中で、劣った成員、あるいは集団の価値から逸脱していると認識された成員を過剰に低く評価し、集団から排除する現象のことを指しています。

この現象は、「内集団バイアス」と同じく、所属集団へ自己を強く依拠し、集団と自己を一体視する人間ほど、そしてまた「内集団バイアス」を強く持つ人間ほど生じやすいことが実験により明らかとなっています。

「内集団バイアス」と「黒い羊効果」、一見矛盾する この2つの現象が、なぜ共存するのでしょうか。

 この疑問については、「内集団バイアス」の説明の中で触れた「社会的カテゴリー」とそれを利用した「自尊心の維持・高揚」の話を応用すれば理解できます。

つまり、「国籍などの社会的な属性に強く自己を依拠し、それによって自尊心を高めようとする人間」、言い換えれば、「自己と所属集団を一体視し、集団への評価が自分の評価へと直接に結びつく人間」にとって、集団の価値を落とし、そこから逸脱する「劣った」人間は、ひどく邪魔な存在となってしまうのです。

したがって、劣った成員を過剰に低く評価し、例外として処理する「黒い羊効果」は、内集団の価値や評価の維持のために行われており、外集団を貶め、内集団を高く評価する「内集団バイアス」と、同じ目的(=自尊心の高揚)から生まれたもの(ゆえに共存する)、と言うことができるわけです。

 

日本スゴイ」の是非(?)を巡るいくつかの議論の中には、「内集団バイアス」による他国、つまり外集団への蔑視や差別については危惧するものは多くありますが、僕が見た限りでは、この「黒い羊効果」について言及するものはあまり多くないようです。

しかし、僕自身は、「黒い羊効果」の方も、十分に怖いものだと思います。

そこで近年の日本におけるこの現象の具体例として、僕が考えてるものを一つ挙げてみたいと思います。

それは、「貧困問題」にまつわる言説です。

特に貧困を取り上げるテレビ番組のニュースや特集に顕著ですが、こうした番組に対して「自己責任」とか「本当の貧困じゃない」などの感想が集まったり、あるいはそうした議論(「本当に救うべき貧困か?」)が交わされたりすることが多々あります。

こうしたことの背景には、もちろん様々な要因があるとは思いますが、僕はその中の一つにこの「黒い羊効果」があると感じています。

社会の中に貧困という問題があり、それが一定の規模を越えた場合、それは社会の、なんらかの機能不全を意味します。

こうした問題を直視し、社会(の)問題として取り上げ、改善に向けて努力してゆくことが、本当の意味での社会集団の価値の向上、前進のためには必要なわけですが、「黒い羊効果」が強く現れている人間にとっては状況が異なります。

というのも、自分の所属する社会(集団)が、そのようなひずみを生んでいるという事実それ自体が、内集団(の評価)に自己を強く依拠する人間の自尊心を傷つけてしまうからです。

このため、「本当の貧困じゃない」と言って貧困問題をないものとしたり、「自己責任」としてその人個人の問題(彼らの努力を過剰に低く評価)とするわけです。*1

そして「自己責任」として切り捨てられた人々は、往々にして「内集団」の成員から排除されます。実際の日本の例に当てはめれば、彼らは、「日本人以外の人間」として認識されるようになります。

なぜなら、「黒い羊効果」が強く現れているような人間は、国民を集めた総体としての「日本(社会)」に依拠するだけではなく、その成員の総称である「日本人」という「内集団」にも自己を依存していると考えられるからです。

したがって、「自己責任」によって貧困に陥るような怠惰な日本人は、日本人の価値を落とす危険性があるという理由から、日本人という「内集団」ではない、「外集団」の成員として認識される可能性があるのです。

 

ここまで長々述べてきましたが、だからといって僕は「内集団」、つまり日本や日本人を肯定的に評価するのはやめよう、という気は全くありません。

そうではなく、そういう言説にはある程度の危険性がつきものだということを言いたかったのです。

なんだか説教くさくなってしまいましたが、これらのリスクに自覚的になることが、結果的には日本人みんなの生きやすさにもつながるのではないか、と僕は考えています。

 

参考

山岸俊夫著 2001年 『社会心理学キーワード』有斐閣双書

大石 千歳・吉田富二雄『黒い羊効果と内集団ひいきー社会的アイデンティティ理論の観点からー』「心理学研究 第73巻 第5号」pp.405-411

 

*1:厳密に言えば前者は「黒い羊効果」ではないですが、そうした認識の理由が集団の評価に自己を依拠しているから、という点では同一です

差別と「社会的距離」

 

トランプ大統領が誕生したことで、以前にも増して注目が集まっている差別問題、人種問題ですが、今回の記事では、これらの問題と密接に関わる「社会的距離(Social Distance)」について考えてみたいと思います。

「社会的距離」とは、個人や集団間の親近、疎遠の感情の程度のことを指しますが、アメリカの社会学者ボガーダスは、これに「社会的距離尺度」導入することによって「距離」の尺度化を試みました。

この尺度は、被験者の所属集団と、異なる民族・人種集団との距離を測定する7つの質問によって構成されており、具体的には「結婚によって新しい縁を持っていいか」「隣人として街に迎え入れてもいいか」「職場の同僚として迎え入れてもいいか」「市民権を与えてもいいか」「自国から追放するか」などの質問への回答によって他集団に対する差別や排外意識、偏見の程度が測られることになります。

現在日本では、内閣府の外交に関する世論調査の一環として、毎年特定の国に対しての「親近感」が調査されていますが、この調査が当該国の政治状況に左右される外交的なものであるとすれば、この「社会的距離」は他集団の人々に対しての、市民の「肌感覚」により近いものであるといえるでしょう。

いくつかの研究の結果、この「社会的距離」は、被験者が対象となる他人種や民族集団を「内集団」とみなせるか否かが重要な要素となっていることが明らかとなっており、その中でも特にエスニックアイデンティティが大きな影響力を持っているとされています。

つまり、人種や民族といった区分の中で、内集団と見なせる他集団に対しては社会的距離は短くなり、そうでない外集団に対しては長くなる傾向にある、というわけです。

実際ボガーダスがアメリカの非移住者の白人に行った調査でも(この調査は大量の移民流入という背景の中で1920年代におこなわれたものですが)、カナダ人やイギリス人など、アングロサクソン系の白人に対しての社会的距離はより短く、トルコ人や日本人などの有色人種に対してはより長く(ちなみに日本人の方がトルコ人よりも長い)なるという結果になりました。

 

さて、ここで気になるのは私たち日本人が持つ、他人種・民族への社会的距離です。これまでの議論をあてはめれば、日本人が持つ他集団への社会的距離は、黄色人種に対して、中でも民族、文化的にも近い東アジアの人々に対して短く、それ以外の人種や民族に対しては長くなるだろうということが想定されます。

ところがいくつかの調査によれば、こうした社会的距離に関する法則は、日本においては当てはまらないことが明らかとなっています。

具体的に言えば、日本において社会的距離が最も短いグループは、北アメリカとヨーロッパの国々の人々で、アジア人に対してのそれはより長いのです(この傾向は近隣諸国の中では韓国も共通しています。が、データを見るに日本ほど極端ではありません)。

これらのことは何を意味するのでしょうか。

まず考えられるのは、全体として日本人においては、黄色人やアジア人といった自身の人種(民族)上の属性が他集団の内外の評価に影響を与えていない(傾向にある)ということです(このことは日本人のアジア人へのアイデンティティ帰属意識が低いことを意味しません)。

そして同時に、日本人は人種・民族的に近いアジアの国々の人々よりも、相対的に欧米の人々に対して「内集団」としての意識を持っている可能性があるという事になります。

「考えられるのは~」からの文章は僕の推論でしたが、僕はこの「社会的距離」が日本における差別言説のいくつかを特徴付けている気がしていて、とても注目しています。

 

 

 

 参考文献

我妻 洋・米山 俊直、1967年『偏見の構造―日本人の人種観』NHKブックス

五十嵐彰、2015年『東アジアにおけるエスニックヒエラルキーに関する研究-Mokken Scale Analysis による EASS 2008 データの分析-』「日本版総合的社会調査共同研究拠点研究論文集」 pp.41-50