ペンギンの飛び方

本を読んだりニュースを見たりして考えたことを、自由に書いていきたいと思います。

「日本スゴイ」と「内集団バイアス」

 

現在様々なメディアで取り上げられることの多いこの「日本スゴイ」という言説。各所で語られてる話題ですが、今回の記事ではこの件を、社会心理学的な観点から考えてみたいと思います。 

 

僕が見るにこれらの言説には、大きく2種類のものがあるように思います。

まず一つは「日本は優れている」というもの。そしてもう一つは「日本には独自性がある」あるいは「日本は特別なものを持っている」というものです(日本の後には「人」という言葉を入れてもいいです)。

カギカッコで示したこれらの言説には、ある共通点があります。それは、「他国との比較」が必要であるという点です。

「優れている」とか「特別である」といった物言いは、比較の対象となる基準のための「日本以外の国」、というアクターが存在しなければ成立しません。

したがってこれらの言説は全て、それがはっきりと言明はされなくとも「他国と比べて」という枕詞が存在しているわけです。

 

さて、こうした集団間の比較の際に、注意する必要のある現象があります。それがタイトルにある「内集団バイアス」、もしくは「内集団ひいき」と呼ばれるものです。

この現象は、自分の所属する集団、つまり「内集団」(や、その成員)を(過剰に)肯定的に評価し、好意的な態度を取る一方で、自分の所属しない集団「外集団」を不当に評価し、そのために貶めたり差別したりすることを指しています。

人間は誰しも、個人的な人間関係の中だけでなく、自身の「社会的カテゴリー」、例えば「人種」や「性別」、「国籍」などからもアイデンティティを形成しています(これを「社会的アイデンティティ」と呼びます)。

人間は一般的に、自己を肯定的に評価することで自尊心を維持、あるいは高揚しようという性質を持っていますが、まさにこの性質のために、「内集団バイアス」は生じます。

つまり、本題の「日本スゴイ」に関して言えば、日本や、その成員を肯定的に評価することで、同じ日本人である自分の自尊心も高まるわけですが、こうした営為の中に、他国やそこに住む人々への貶めや差別が紛れ込んでくるわけです。

 「内集団バイアス」は基本的に、自己と所属集団を一体視する傾向が強い人ほど、つまり、対象の社会的カテゴリーへの帰属意識が高く、それに自己を強く依拠する人間ほど生じやすいということが明らかとなっています。

しかしその一方で、実験のため一時的に分けられた実質的には無意味な集団間においても生じることも判明しており、このことは、自集団を「客観的」に、また他者を傷つけることなく評価することの難しさを物語っているように思います。

 

さて、これまでは集団間の比較におけるバイアス、その中でも「外集団」 に対して危害が及ぶ可能性のあるものについて説明してきましたが、実はこの攻撃の矛先が内集団の成員へと向かうバイアスも存在します。

それが「黒い羊効果」と呼ばれるものです。

この現象は、これまでの「内集団バイアス」が「内集団」に向けて作用させてきた効果を、正反対にしたものであることにその特徴があります。

つまり「黒い羊効果」とは、「内集団」の中で、劣った成員、あるいは集団の価値から逸脱していると認識された成員を過剰に低く評価し、集団から排除する現象のことを指しています。

この現象は、「内集団バイアス」と同じく、所属集団へ自己を強く依拠し、集団と自己を一体視する人間ほど、そしてまた「内集団バイアス」を強く持つ人間ほど生じやすいことが実験により明らかとなっています。

「内集団バイアス」と「黒い羊効果」、一見矛盾する この2つの現象が、なぜ共存するのでしょうか。

 この疑問については、「内集団バイアス」の説明の中で触れた「社会的カテゴリー」とそれを利用した「自尊心の維持・高揚」の話を応用すれば理解できます。

つまり、「国籍などの社会的な属性に強く自己を依拠し、それによって自尊心を高めようとする人間」、言い換えれば、「自己と所属集団を一体視し、集団への評価が自分の評価へと直接に結びつく人間」にとって、集団の価値を落とし、そこから逸脱する「劣った」人間は、ひどく邪魔な存在となってしまうのです。

したがって、劣った成員を過剰に低く評価し、例外として処理する「黒い羊効果」は、内集団の価値や評価の維持のために行われており、外集団を貶め、内集団を高く評価する「内集団バイアス」と、同じ目的(=自尊心の高揚)から生まれたもの(ゆえに共存する)、と言うことができるわけです。

 

日本スゴイ」の是非(?)を巡るいくつかの議論の中には、「内集団バイアス」による他国、つまり外集団への蔑視や差別については危惧するものは多くありますが、僕が見た限りでは、この「黒い羊効果」について言及するものはあまり多くないようです。

しかし、僕自身は、「黒い羊効果」の方も、十分に怖いものだと思います。

そこで近年の日本におけるこの現象の具体例として、僕が考えてるものを一つ挙げてみたいと思います。

それは、「貧困問題」にまつわる言説です。

特に貧困を取り上げるテレビ番組のニュースや特集に顕著ですが、こうした番組に対して「自己責任」とか「本当の貧困じゃない」などの感想が集まったり、あるいはそうした議論(「本当に救うべき貧困か?」)が交わされたりすることが多々あります。

こうしたことの背景には、もちろん様々な要因があるとは思いますが、僕はその中の一つにこの「黒い羊効果」があると感じています。

社会の中に貧困という問題があり、それが一定の規模を越えた場合、それは社会の、なんらかの機能不全を意味します。

こうした問題を直視し、社会(の)問題として取り上げ、改善に向けて努力してゆくことが、本当の意味での社会集団の価値の向上、前進のためには必要なわけですが、「黒い羊効果」が強く現れている人間にとっては状況が異なります。

というのも、自分の所属する社会(集団)が、そのようなひずみを生んでいるという事実それ自体が、内集団(の評価)に自己を強く依拠する人間の自尊心を傷つけてしまうからです。

このため、「本当の貧困じゃない」と言って貧困問題をないものとしたり、「自己責任」としてその人個人の問題(彼らの努力を過剰に低く評価)とするわけです。*1

そして「自己責任」として切り捨てられた人々は、往々にして「内集団」の成員から排除されます。実際の日本の例に当てはめれば、彼らは、「日本人以外の人間」として認識されるようになります。

なぜなら、「黒い羊効果」が強く現れているような人間は、国民を集めた総体としての「日本(社会)」に依拠するだけではなく、その成員の総称である「日本人」という「内集団」にも自己を依存していると考えられるからです。

したがって、「自己責任」によって貧困に陥るような怠惰な日本人は、日本人の価値を落とす危険性があるという理由から、日本人という「内集団」ではない、「外集団」の成員として認識される可能性があるのです。

 

ここまで長々述べてきましたが、だからといって僕は「内集団」、つまり日本や日本人を肯定的に評価するのはやめよう、という気は全くありません。

そうではなく、そういう言説にはある程度の危険性がつきものだということを言いたかったのです。

なんだか説教くさくなってしまいましたが、これらのリスクに自覚的になることが、結果的には日本人みんなの生きやすさにもつながるのではないか、と僕は考えています。

 

参考

山岸俊夫著 2001年 『社会心理学キーワード』有斐閣双書

大石 千歳・吉田富二雄『黒い羊効果と内集団ひいきー社会的アイデンティティ理論の観点からー』「心理学研究 第73巻 第5号」pp.405-411

 

*1:厳密に言えば前者は「黒い羊効果」ではないですが、そうした認識の理由が集団の評価に自己を依拠しているから、という点では同一です

差別と「社会的距離」

 

トランプ大統領が誕生したことで、以前にも増して注目が集まっている差別問題、人種問題ですが、今回の記事では、これらの問題と密接に関わる「社会的距離(Social Distance)」について考えてみたいと思います。

「社会的距離」とは、個人や集団間の親近、疎遠の感情の程度のことを指しますが、アメリカの社会学者ボガーダスは、これに「社会的距離尺度」導入することによって「距離」の尺度化を試みました。

この尺度は、被験者の所属集団と、異なる民族・人種集団との距離を測定する7つの質問によって構成されており、具体的には「結婚によって新しい縁を持っていいか」「隣人として街に迎え入れてもいいか」「職場の同僚として迎え入れてもいいか」「市民権を与えてもいいか」「自国から追放するか」などの質問への回答によって他集団に対する差別や排外意識、偏見の程度が測られることになります。

現在日本では、内閣府の外交に関する世論調査の一環として、毎年特定の国に対しての「親近感」が調査されていますが、この調査が当該国の政治状況に左右される外交的なものであるとすれば、この「社会的距離」は他集団の人々に対しての、市民の「肌感覚」により近いものであるといえるでしょう。

いくつかの研究の結果、この「社会的距離」は、被験者が対象となる他人種や民族集団を「内集団」とみなせるか否かが重要な要素となっていることが明らかとなっており、その中でも特にエスニックアイデンティティが大きな影響力を持っているとされています。

つまり、人種や民族といった区分の中で、内集団と見なせる他集団に対しては社会的距離は短くなり、そうでない外集団に対しては長くなる傾向にある、というわけです。

実際ボガーダスがアメリカの非移住者の白人に行った調査でも(この調査は大量の移民流入という背景の中で1920年代におこなわれたものですが)、カナダ人やイギリス人など、アングロサクソン系の白人に対しての社会的距離はより短く、トルコ人や日本人などの有色人種に対してはより長く(ちなみに日本人の方がトルコ人よりも長い)なるという結果になりました。

 

さて、ここで気になるのは私たち日本人が持つ、他人種・民族への社会的距離です。これまでの議論をあてはめれば、日本人が持つ他集団への社会的距離は、黄色人種に対して、中でも民族、文化的にも近い東アジアの人々に対して短く、それ以外の人種や民族に対しては長くなるだろうということが想定されます。

ところがいくつかの調査によれば、こうした社会的距離に関する法則は、日本においては当てはまらないことが明らかとなっています。

具体的に言えば、日本において社会的距離が最も短いグループは、北アメリカとヨーロッパの国々の人々で、アジア人に対してのそれはより長いのです(この傾向は近隣諸国の中では韓国も共通しています。が、データを見るに日本ほど極端ではありません)。

これらのことは何を意味するのでしょうか。

まず考えられるのは、全体として日本人においては、黄色人やアジア人といった自身の人種(民族)上の属性が他集団の内外の評価に影響を与えていない(傾向にある)ということです(このことは日本人のアジア人へのアイデンティティ帰属意識が低いことを意味しません)。

そして同時に、日本人は人種・民族的に近いアジアの国々の人々よりも、相対的に欧米の人々に対して「内集団」としての意識を持っている可能性があるという事になります。

「考えられるのは~」からの文章は僕の推論でしたが、僕はこの「社会的距離」が日本における差別言説のいくつかを特徴付けている気がしていて、とても注目しています。

 

 

 

 参考文献

我妻 洋・米山 俊直、1967年『偏見の構造―日本人の人種観』NHKブックス

五十嵐彰、2015年『東アジアにおけるエスニックヒエラルキーに関する研究-Mokken Scale Analysis による EASS 2008 データの分析-』「日本版総合的社会調査共同研究拠点研究論文集」 pp.41-50


 

フェイクニュースサイトの2類型

 

www.buzzfeed.com

 

このbuzzfeedさんの記事を見て、少し前から考えていたことを書こうと思います。それは、フェイクニュース(サイト)の形態についてです。2つあります。

 

「breitbart」型

まず、buzzfeedさんの記事で取り上げられているようなフェイクニュースを、去年の米大統領選でも大きな影響力を持ったと言われる、嘘や陰謀論に満ちた記事を掲載するニュースサイト「breitbart」にちなんで、「breitbart」型としておきたいと思います。

「breitbart」型のフェイクニュースサイトの特徴は、記事の執筆者自身が、人々の耳目を集め、特定の集団や人物に憎悪を仕向けるような虚偽の情報をでっち上げ、それを記事、つまりニュースとして発信する点です。

この形態のフェイクニュースにおいては、「記事の内容」そのものがサイトの肝であり、それに注目が集まり外部に拡散されてゆくことで「フェイク」が「ファクト」になり、憎悪は増幅されていきます。

 こうしたサイトに人々がおもむくのは、記事に書かれた「ニュース」を見たいからであり、これがSNSなどを使って拡散されることで、サイトに積極的には訪れない多くの人の目にも触れ、結果、サイトは世論を変える力を持ちます。

 

まとめサイト」型

もう一つの形態はまとめサイト」型です。(僕はこの型が日本のフェイクニュースの主流だと考えています。)

このまとめサイト型のフェイクニュースの特徴は、記事の執筆者が、記事そのものを書いていないというところにあります。

この形態のフェイクニュースサイトでは、どこか別のニュースサイトの記事(これには上記の「breitbart」型のフェイクニュースサイトも含まれる)や新聞記事、あるいは個人のツイッターやブログ等への、「カキコミ」=「無数の匿名の人々の反応」を集めたものがサイト内のニュース、つまり「記事」となります。

 したがってこの「記事」の執筆者はこの「反応」をまとめてタイトルをつけているだけで、記事そのものを書いているわけではありません。

そしてこのようなサイトの肝は、冒頭に掲載される元々の別のニュースサイト記事にではなく、それに対する「匿名の人々の反応」にあるのであり、それを見ることが人々がサイトを訪れる理由となっています。

 

「反応」について

まとめサイト」型で考えなければならないのが、この「反応」というものです。

僕の考えでは、これらの記事内の「反応」は、ある面において「breitbart」型のフェイクニュースサイトにおいてSNSが担う役割と似たような役割を持っています。

「breitbart」型において虚偽の情報による記事が真実となるには、それが多くの人々に拡散されることが重要で、それにはSNSの力が欠かせませんでした。

この場合SNSは、情報を多くの人々の目に触れさせるだけではなく、自分以外の人も知っている、共有しているのだという「雰囲気」を作り出す役割を担っています。

嘘が真実になるためには、多くの人がその情報を目にすることも勿論重要ですが、自分以外の人間が共有している(信じている)ように見えることも同じくらい重要です。

SNSはこの点、シェアボタンやニュースに対するコメント欄のようなもの(記事に対するコメントをまとめて見れる機能)の存在によってこの2つの課題をクリアしているわけです。

まとめサイト」型では、「反応」がこの後者の役割を担います。つまり、「嘘→SNS→共有→真実」という過程を、元々の記事とそれに対する「反応」をパッケージ化することで、サイト内で完結させているのです。

したがってここでは、「反応」が作り出すサイト内の「空気」がフェイクをファクトに変えています。

もちろんこれだけではSNSの「多くの人の目に触れさせる」という機能は持ちえませんが、少なくともサイトを見た人にとっては、無数の匿名の人々が反応を寄せるその記事は、信頼性の高いもののように映るでしょう。

 これまでの記述は、主に元々の記事が嘘だった場合に注目したものですが、これがしっかりとしたニュースサイト、例えば新聞社のデジタル記事の場合はどうでしょうか。

実際のところこの場合も、事態はあまり変わらないように思えます。なぜなら、この「反応」それ自体にも、嘘が大量に含まれているからです*1

したがって根っこの記事が普通のものでも、そこに嘘や偏見に満ちた「反応」が集まることで、結局フェイクは作られ、そしてその場ですぐにファクトになり、憎悪は増幅してしまうわけです*2

 

まとめサイト」型の効用

これまで「反応」がもたらす「まとめサイト」の特徴を述べてきたわけですが、そもそもこの特徴は、「反応」がある 一定方向に切り取られなければ成立するものではありません。

そう考えるともしかするとまとめサイトは、この点にもっとも大きな特徴があるのかもしれません。

これらのサイトの多くは、各々のサイト独自に、無数の匿名の「反応」を一定方向に切り取っています。中には、サイト名からその方向性が分かるようなものもあります。

こうしたサイトは、サイトで取り上げられた元々の記事に対しての、自分とは異なる感想を見るかもしれないリスクや、それによる心理的ストレスを取り除いてくれます。

 嘘が真実となるため、あるいは自分の考え(感想)が正しいのだと確信するためには、他人との情報(感想)の共有(感)が必要ですが、それを確認するためのニュースのコメント欄やSNSはこのようなリスクをはらむため、ここでジレンマが生じるわけです*3

まとめサイトはこのリスク、不安を一掃し、ジレンマを解消してくれます。サイト内の出来合いの「世論」が嘘を真実にする過程を一通り行い、自分の正しさを証明してくれるからです。

 信じたいもの(嘘の情報)を提示する場が「breitbart」型のフェイクニュースサイトだとすれば、「まとめサイト」型のそれは、信じたいものを心置きなく信じるために、より快適な環境に改良されたニュースサイトだと言えるのかもしれません。

 

*1:「反応」と言うと「感想」だけのようにも聞こえますが、もちろんそれだけではありません。

*2:この場合嘘の出所が分からないという点でも厄介です

*3:SNSはコメント欄よりも「安全」ですがまだノーリスクとはいえないように思います

「本音」の矛先が自分に向かうとき

 

過去の記事ではトランプさんの当選を出発点に、インターネットと政治と本音の関係について論じました。その最後の部分で、僕は次のようなことを書きました。

 

 ここ日本でも、政治において(インターネット発の)「本音」は力を持ち始めています。

思えば、こないだの待機児童の問題を糾弾した「日本死ね」も、あえて荒っぽい言葉を使うことで当人の心からの叫び、「本音」の発露だと捉えられたからこそ、注目を集め、多くの人々の共感を得ることが出来たのだと思います。

しかし同時に「本音」は、記事が掲載されていたブログタイトルの通り、先日の元アナウンサーの方のような主張にも使われることがあるのです。

インターネットの普及、またSNSの隆盛によって、私たちはいつでも見知らぬ人々の大量の「本音」を見ることが出来るようになりました。

私たちにはこの「本音」がどのようなもので、どこまで尊重されるべきものなのかを、ある程度厳しくみることが、今求められているのかもしれません。

もちろん、「自分は行き過ぎたPCに対して批判しているのであって、それ自体を否定しているわけではないし、差別も肯定していない」 と考えている人も多くいるでしょう。

しかし、あのような発言を繰り返した人物が政治という公共領域に躍り出て、それを特に撤回もしないまま国のトップにまで上り詰めたことの影響は、深く考える必要があるように思います。

それは、いつか誰かの耐えようのない「本音」が自分自身に向いてしまった時に後悔しないためにも、必要なことだと僕は考えています。

 

引用元↓

human921.hatenablog.com

 

そして先日、2016年の新語・流行語大賞が発表され、引用で触れていた「保育園落ちた日本死ね」がトップ10に選出されました。

このことはどうやらネット上で様々な議論を呼んでいるようですが、僕はこの件は、誰かの鋭い「本音」が自分自身に向かうということがどういうことなのかを、図らずも私たちに擬似的にではあれど示してくれたのではないかと感じています。

この「日本死ね」は比喩的な表現であり、当然これは特定の他者を攻撃したり迫害する意図はありません。

しかし「日本」という言葉を据えられ、一応日本で権威があると見なされている流行語大賞に選出され政治的に力を得、あたかも公共領域に持ち込んでもいい正しい表現であるというお墨付きが与えられたように見えることで、それに対し不快感を感じ反発する人が多く出てくるようになりました。

「日本」という言葉の為に、もともとこの言葉は自分自身への攻撃だと感じる人(日本と自身を一体化している人など)が出る可能性のある表現だったのですが、これが公の場で力を持ち賞まで与えられることで、大きな反発を呼び込んだのです。

 

このネット発の本音が、もっと攻撃的で、矛先となった人々にリアルな身の危険まで感じさせるまでに(実際にある)過激化し、それが政治領域に持ち込まれ、その主張者が国のトップまで上り詰めたのがアメリカです。

しかし日本では、これに対しそこまで危機感を募らせるような意見はネット上でも、あるいは既存の大メディアでも主流ではありませんでした。

むしろ非常に楽観的な意見や、「本音」を言うことを憚られてきたアメリカ国内のマジョリティに同情するような意見も目立ちました。*1実際には、この「本音」には日本や、米国内の日本人も含めたマイノリティに向けられたものもあったにも関わらずです。

所詮は海の向こうのことで自分とは関係ないと考えられていたのかは定かではありませんが、もしそうだとするとこの「日本死ね」は、(今回の件ではそのように見えるだけではあるけれど)自分を標的とするネット発の「本音」が、自分の住む国で公的領域に進出し、公の場で主張してもいい表現であると認められることによって生まれる恐怖や不快感を、私たちに示してくれたのではないでしょうか。

誰かの耐えようのない本音の「鋭さ」は、どうやらそれが自身に向かってきたときにはじめて真に理解されうるものなのかもしれません。

 

冒頭の引用でも示したように、ネットやそこから生まれたSNS等の普及により、既存の大メディアの影響力が相対的に低下している現在、これからもネット発の本音が公共領域に進出し注目を集める、ということは頻繁に起き、一つのムーブメントのようになるでしょう。

しかしそれが本当に尊重されるべきものなのかは、たとえその矛先が自分に向かうものではなくとも、深く考える必要があると僕は思います。

(なお、個人的には今回の件に関して、あの匿名の投稿が待機児童の問題を議題として設定する効力を持ったところまでは良かったけれど、流行語大賞に選出されたことや、その受賞者が国会議員だったことはかなり野暮だったかと思います。)

 

*1:もちろんこれは誰が言ったかにもよると思います。というのも仮にトランプ現象なるものがアメリカでなく近隣のアジア諸国で起きた場合、その中で生まれる日本に向けた攻撃的な表現を、国内のマジョリティの抱えた不満が原因だと、同情的かつ客観的に捉えるひとは多くないと思われるからです。

「Post-Truth」時代の情報との向き合い方(インターネット版)

 

オックスフォード大出版局が選出した今年の英単語が「Post-Truth」だったということで、日本でもにわかにこの単語が注目を集めています。

さて、この「Post-Truth」ですが、この言葉の意味する「客観的な事実や真実が重視されず、真実のように感じられることがそのまま真実となる時代」は、インターネットやそれによるSNSの普及がその興隆に一役買っていると、ここ最近頻繁に指摘されるようになってきています。

 

www.buzzfeed.com

 

というわけで今回は、自らへの覚書という意味でも、インターネットで情報を収集する際の心得のようなものを、かなり簡単にではありますが主に社会(認知)心理学用語を交えながらここで一度まとめておきたいと思います。

なお、分かりやすくするため3段階に分けて説明します。

 

 

1.情報を集める段階

この段階で(というよりおそらく全段階を通して)最も注意しなければならないのは、「確証バイアス」(「選択的認知」でもいい)です。

 

確証バイアスとは・・・

一度持った認識の枠組みや信念にそって、その後の情報収集を進めることで、その認識を強化するような情報のみを集め、それを覆すような情報をスルーしてしまうこと。

 

クリックという動作の介在やSNSの特徴的なシステムによって、自らが見たい情報だけを見るという行為は以前よりも容易になっているように思えます。

情報を見る以前のこのバイアスに自覚的になることが、インターネットを使った情報収集にはまず欠かせません。

 

 

2.情報を見る段階

この段階では、まず情報の出所を探りそれが信頼できるものなのかを見極めることが、他のなによりも優先されなければなりません。問題は、この先です。

先ほどの確証バイアスと関連して、「サブタイプ化」に注意する必要があります。

 

サブタイプ化とは・・・

一度作られた認識の枠組みや信念を覆すような情報に出会ったとき、それをサブタイプ、つまり例外であると処理し、持っていた信念の変化を防ぐこと。

 

また、特に犯罪報道など、ネガティブな要素のある事柄を伝えるニュースに触れる場合は、「錯誤相関」に特に気をつけなければなりません。

 

錯誤相関とは・・・

多数派に対して相対的に少数である集団のネガティブな行動が、その集団の成員であることと関連付けて認知されること。

たとえば人数が10人の集団Aに属するメンバーの内、2人が望ましくない行動をとり、5人の集団Bの内1人が同じように望ましくない行動をとったとする。

数字の上ではどちらも全体のうちの望ましくない行動をするメンバーの割合は5:1だが、錯誤相関が働くと集団Bの方が望ましくない行動をとりやすいと認識される。

 

 

3.情報を見終わった段階

ここに潜む危険性は、僕が見る限りこれまでの段階の危険性よりも、あまり問題視されていないというか、見過ごされがちです。しかし、大量の情報を息つく間もなく次々とはしごする現代人にとって実はこの情報に触れた後の段階が、非常に重要なのではないかと思います。というわけで、この項は少し長く書きます。

僕が考えるに、このタイミングでもっとも注意するべきは「スリーパー効果」です。なぜならこれは、これまでの段階で触れた認知上のバイアスにいくら注意を払っていたとしても、避けることが難しい現象だからです。

 

スリーパー効果とは・・・

時間の経過によって情報の送り手が誰かという記憶が減退することで、情報の信頼性の問題が希薄化し、信頼性の低い情報の内容に説得力を感じるようになること。

 

 この現象は、信頼性の高い情報も低い情報もごった返し同じ土俵に乗ってしまうインターネットにおいては、特に注意する必要があります。

なぜならこの効果が働くと、いくら情報の信頼性を気にかけていたとしても、信頼性の低い情報が目に入ったことそれ自体によって、後々の自身の態度が変容してしまうからです。

これに関連して「マイノリティ・インフルエンス(少数派影響)」にも気をつけなければなりません。

 

マイノリティ・インフルエンスとは・・・

 少数者が一貫して同じ主張を続けることで、多数者の意見を変容させること。

 

インターネットでは、その広大さから社会生活において普段見られない主張や常識とは異なる意見が目に入ることがありますが、大体においてその主張者は一貫しており、また、インターネットはそのような人々を特定の場所に集める作用があるので(少数者にとっては自分と同じ主張をする人を見つけるのにインターネットは優れたツールである)、何か特定の、少数ではあるけれども数としては無視できない規模の集団が、そのような意見を主張しているように見えてしまいます。

それによって、たとえ彼らの主張する情報の信頼性が低くとも、言ってしまえば嘘でも、マイノリティの凝集と可視化によって特に「その話題に興味の無い人々」は影響されてしまう可能性が生じてくるのです。

 

SNSの発達、それらの持つ特徴的なシステムによって、自身と同じ意見や価値観を持った者同士が集まり、彼らの発した主張を見、共感を伝えることは以前よりも容易になりました。

このような状況では、集団極性化現象」その中でも特に「リスキーシフト」に注意を払う必要があります。

 

リスキーシフトとは・・・

個人の意思決定よりも、集団での討議した後の決定のほうが意思決定がより危険な方向へとシフトしてしまう現象。

この現象が作用すると、集団は意思の統一を目指す傾向が強く成員は個人的な疑問を抑え、自集団の道徳性や将来を過度に信頼しつつ、他集団への蔑視を始める。

 

例えばニュースへコメントをする場合、同じ価値観を持った人々が集まれば当然、そのメンバー内で意見は同じようなものになります。これによって人は自分の考えの正しさを再確認するわけですが、ここでは特に集団におけるリスキーシフトの危険性に自覚的である必要性があるでしょう。

 

その他

ここでは補足として確証バイアスにおける「認識の枠組みや信念」つまり、「信じたい情報」が何に由来しているのかに自覚的になるための用語を紹介しておきます。

 

内集団びいき

自分が所属する集団、つまり内集団を、所属しない外集団よりも高く評価したり、特別であると感じたりすること。 

そのために外集団を貶めてしまうこともある。

 

外集団同質性バイアス(外集団均質性効果) 

自分が所属していない集団(外集団)に対して、自分が所属する内集団よりもステレオタイプ化された単純かつ均質な認識をしてしまうこと。

たとえば「XX県民は冷たい」だとか「YY国民は気難しい」などだが、容姿などの外見的な特徴に対する認識の中にもこの現象が見られる場合がある。

 

 

参考文献

上瀬由美子著「ステレオタイプの社会心理学-偏見の解消に向けて」サイエンス社 2002年

山岸俊夫著 「社会心理学キーワード」有斐閣双書 2001年

斉藤勇編著 「図説社会心理学入門」誠信書房 2011年