ペンギンの飛び方

本を読んだりニュースを見たりして考えたことを、自由に書いていきたいと思います。

フェイクニュースサイトの2類型

 

www.buzzfeed.com

 

このbuzzfeedさんの記事を見て、少し前から考えていたことを書こうと思います。それは、フェイクニュース(サイト)の形態についてです。2つあります。

 

「breitbart」型

まず、buzzfeedさんの記事で取り上げられているようなフェイクニュースを、去年の米大統領選でも大きな影響力を持ったと言われる、嘘や陰謀論に満ちた記事を掲載するニュースサイト「breitbart」にちなんで、「breitbart」型としておきたいと思います。

「breitbart」型のフェイクニュースサイトの特徴は、記事の執筆者自身が、人々の耳目を集め、特定の集団や人物に憎悪を仕向けるような虚偽の情報をでっち上げ、それを記事、つまりニュースとして発信する点です。

この形態のフェイクニュースにおいては、「記事の内容」そのものがサイトの肝であり、それに注目が集まり外部に拡散されてゆくことで「フェイク」が「ファクト」になり、憎悪は増幅されていきます。

 こうしたサイトに人々がおもむくのは、記事に書かれた「ニュース」を見たいからであり、これがSNSなどを使って拡散されることで、サイトに積極的には訪れない多くの人の目にも触れ、結果、サイトは世論を変える力を持ちます。

 

まとめサイト」型

もう一つの形態はまとめサイト」型です。(僕はこの型が日本のフェイクニュースの主流だと考えています。)

このまとめサイト型のフェイクニュースの特徴は、記事の執筆者が、記事そのものを書いていないというところにあります。

この形態のフェイクニュースサイトでは、どこか別のニュースサイトの記事(これには上記の「breitbart」型のフェイクニュースサイトも含まれる)や新聞記事、あるいは個人のツイッターやブログ等への、「カキコミ」=「無数の匿名の人々の反応」を集めたものがサイト内のニュース、つまり「記事」となります。

 したがってこの「記事」の執筆者はこの「反応」をまとめてタイトルをつけているだけで、記事そのものを書いているわけではありません。

そしてこのようなサイトの肝は、冒頭に掲載される元々の別のニュースサイト記事にではなく、それに対する「匿名の人々の反応」にあるのであり、それを見ることが人々がサイトを訪れる理由となっています。

 

「反応」について

まとめサイト」型で考えなければならないのが、この「反応」というものです。

僕の考えでは、これらの記事内の「反応」は、ある面において「breitbart」型のフェイクニュースサイトにおいてSNSが担う役割と似たような役割を持っています。

「breitbart」型において虚偽の情報による記事が真実となるには、それが多くの人々に拡散されることが重要で、それにはSNSの力が欠かせませんでした。

この場合SNSは、情報を多くの人々の目に触れさせるだけではなく、自分以外の人も知っている、共有しているのだという「雰囲気」を作り出す役割を担っています。

嘘が真実になるためには、多くの人がその情報を目にすることも勿論重要ですが、自分以外の人間が共有している(信じている)ように見えることも同じくらい重要です。

SNSはこの点、シェアボタンやニュースに対するコメント欄のようなもの(記事に対するコメントをまとめて見れる機能)の存在によってこの2つの課題をクリアしているわけです。

まとめサイト」型では、「反応」がこの後者の役割を担います。つまり、「嘘→SNS→共有→真実」という過程を、元々の記事とそれに対する「反応」をパッケージ化することで、サイト内で完結させているのです。

したがってここでは、「反応」が作り出すサイト内の「空気」がフェイクをファクトに変えています。

もちろんこれだけではSNSの「多くの人の目に触れさせる」という機能は持ちえませんが、少なくともサイトを見た人にとっては、無数の匿名の人々が反応を寄せるその記事は、信頼性の高いもののように映るでしょう。

 これまでの記述は、主に元々の記事が嘘だった場合に注目したものですが、これがしっかりとしたニュースサイト、例えば新聞社のデジタル記事の場合はどうでしょうか。

実際のところこの場合も、事態はあまり変わらないように思えます。なぜなら、この「反応」それ自体にも、嘘が大量に含まれているからです*1

したがって根っこの記事が普通のものでも、そこに嘘や偏見に満ちた「反応」が集まることで、結局フェイクは作られ、そしてその場ですぐにファクトになり、憎悪は増幅してしまうわけです*2

 

まとめサイト」型の効用

これまで「反応」がもたらす「まとめサイト」の特徴を述べてきたわけですが、そもそもこの特徴は、「反応」がある 一定方向に切り取られなければ成立するものではありません。

そう考えるともしかするとまとめサイトは、この点にもっとも大きな特徴があるのかもしれません。

これらのサイトの多くは、各々のサイト独自に、無数の匿名の「反応」を一定方向に切り取っています。中には、サイト名からその方向性が分かるようなものもあります。

こうしたサイトは、サイトで取り上げられた元々の記事に対しての、自分とは異なる感想を見るかもしれないリスクや、それによる心理的ストレスを取り除いてくれます。

 嘘が真実となるため、あるいは自分の考え(感想)が正しいのだと確信するためには、他人との情報(感想)の共有(感)が必要ですが、それを確認するためのニュースのコメント欄やSNSはこのようなリスクをはらむため、ここでジレンマが生じるわけです*3

まとめサイトはこのリスク、不安を一掃し、ジレンマを解消してくれます。サイト内の出来合いの「世論」が嘘を真実にする過程を一通り行い、自分の正しさを証明してくれるからです。

 信じたいもの(嘘の情報)を提示する場が「breitbart」型のフェイクニュースサイトだとすれば、「まとめサイト」型のそれは、信じたいものを心置きなく信じるために、より快適な環境に改良されたニュースサイトだと言えるのかもしれません。

 

*1:「反応」と言うと「感想」だけのようにも聞こえますが、もちろんそれだけではありません。

*2:この場合嘘の出所が分からないという点でも厄介です

*3:SNSはコメント欄よりも「安全」ですがまだノーリスクとはいえないように思います

「本音」の矛先が自分に向かうとき

 

過去の記事ではトランプさんの当選を出発点に、インターネットと政治と本音の関係について論じました。その最後の部分で、僕は次のようなことを書きました。

 

 ここ日本でも、政治において(インターネット発の)「本音」は力を持ち始めています。

思えば、こないだの待機児童の問題を糾弾した「日本死ね」も、あえて荒っぽい言葉を使うことで当人の心からの叫び、「本音」の発露だと捉えられたからこそ、注目を集め、多くの人々の共感を得ることが出来たのだと思います。

しかし同時に「本音」は、記事が掲載されていたブログタイトルの通り、先日の元アナウンサーの方のような主張にも使われることがあるのです。

インターネットの普及、またSNSの隆盛によって、私たちはいつでも見知らぬ人々の大量の「本音」を見ることが出来るようになりました。

私たちにはこの「本音」がどのようなもので、どこまで尊重されるべきものなのかを、ある程度厳しくみることが、今求められているのかもしれません。

もちろん、「自分は行き過ぎたPCに対して批判しているのであって、それ自体を否定しているわけではないし、差別も肯定していない」 と考えている人も多くいるでしょう。

しかし、あのような発言を繰り返した人物が政治という公共領域に躍り出て、それを特に撤回もしないまま国のトップにまで上り詰めたことの影響は、深く考える必要があるように思います。

それは、いつか誰かの耐えようのない「本音」が自分自身に向いてしまった時に後悔しないためにも、必要なことだと僕は考えています。

 

引用元↓

human921.hatenablog.com

 

そして先日、2016年の新語・流行語大賞が発表され、引用で触れていた「保育園落ちた日本死ね」がトップ10に選出されました。

このことはどうやらネット上で様々な議論を呼んでいるようですが、僕はこの件は、誰かの鋭い「本音」が自分自身に向かうということがどういうことなのかを、図らずも私たちに擬似的にではあれど示してくれたのではないかと感じています。

この「日本死ね」は比喩的な表現であり、当然これは特定の他者を攻撃したり迫害する意図はありません。

しかし「日本」という言葉を据えられ、一応日本で権威があると見なされている流行語大賞に選出され政治的に力を得、あたかも公共領域に持ち込んでもいい正しい表現であるというお墨付きが与えられたように見えることで、それに対し不快感を感じ反発する人が多く出てくるようになりました。

「日本」という言葉の為に、もともとこの言葉は自分自身への攻撃だと感じる人(日本と自身を一体化している人など)が出る可能性のある表現だったのですが、これが公の場で力を持ち賞まで与えられることで、大きな反発を呼び込んだのです。

 

このネット発の本音が、もっと攻撃的で、矛先となった人々にリアルな身の危険まで感じさせるまでに(実際にある)過激化し、それが政治領域に持ち込まれ、その主張者が国のトップまで上り詰めたのがアメリカです。

しかし日本では、これに対しそこまで危機感を募らせるような意見はネット上でも、あるいは既存の大メディアでも主流ではありませんでした。

むしろ非常に楽観的な意見や、「本音」を言うことを憚られてきたアメリカ国内のマジョリティに同情するような意見も目立ちました。*1実際には、この「本音」には日本や、米国内の日本人も含めたマイノリティに向けられたものもあったにも関わらずです。

所詮は海の向こうのことで自分とは関係ないと考えられていたのかは定かではありませんが、もしそうだとするとこの「日本死ね」は、(今回の件ではそのように見えるだけではあるけれど)自分を標的とするネット発の「本音」が、自分の住む国で公的領域に進出し、公の場で主張してもいい表現であると認められることによって生まれる恐怖や不快感を、私たちに示してくれたのではないでしょうか。

誰かの耐えようのない本音の「鋭さ」は、どうやらそれが自身に向かってきたときにはじめて真に理解されうるものなのかもしれません。

 

冒頭の引用でも示したように、ネットやそこから生まれたSNS等の普及により、既存の大メディアの影響力が相対的に低下している現在、これからもネット発の本音が公共領域に進出し注目を集める、ということは頻繁に起き、一つのムーブメントのようになるでしょう。

しかしそれが本当に尊重されるべきものなのかは、たとえその矛先が自分に向かうものではなくとも、深く考える必要があると僕は思います。

(なお、個人的には今回の件に関して、あの匿名の投稿が待機児童の問題を議題として設定する効力を持ったところまでは良かったけれど、流行語大賞に選出されたことや、その受賞者が国会議員だったことはかなり野暮だったかと思います。)

 

*1:もちろんこれは誰が言ったかにもよると思います。というのも仮にトランプ現象なるものがアメリカでなく近隣のアジア諸国で起きた場合、その中で生まれる日本に向けた攻撃的な表現を、国内のマジョリティの抱えた不満が原因だと、同情的かつ客観的に捉えるひとは多くないと思われるからです。

「Post-Truth」時代の情報との向き合い方(インターネット版)

 

オックスフォード大出版局が選出した今年の英単語が「Post-Truth」だったということで、日本でもにわかにこの単語が注目を集めています。

さて、この「Post-Truth」ですが、この言葉の意味する「客観的な事実や真実が重視されず、真実のように感じられることがそのまま真実となる時代」は、インターネットやそれによるSNSの普及がその興隆に一役買っていると、ここ最近頻繁に指摘されるようになってきています。

 

www.buzzfeed.com

 

というわけで今回は、自らへの覚書という意味でも、インターネットで情報を収集する際の心得のようなものを、かなり簡単にではありますが主に社会(認知)心理学用語を交えながらここで一度まとめておきたいと思います。

なお、分かりやすくするため3段階に分けて説明します。

 

 

1.情報を集める段階

この段階で(というよりおそらく全段階を通して)最も注意しなければならないのは、「確証バイアス」(「選択的認知」でもいい)です。

 

確証バイアスとは・・・

一度持った認識の枠組みや信念にそって、その後の情報収集を進めることで、その認識を強化するような情報のみを集め、それを覆すような情報をスルーしてしまうこと。

 

クリックという動作の介在やSNSの特徴的なシステムによって、自らが見たい情報だけを見るという行為は以前よりも容易になっているように思えます。

情報を見る以前のこのバイアスに自覚的になることが、インターネットを使った情報収集にはまず欠かせません。

 

 

2.情報を見る段階

この段階では、まず情報の出所を探りそれが信頼できるものなのかを見極めることが、他のなによりも優先されなければなりません。問題は、この先です。

先ほどの確証バイアスと関連して、「サブタイプ化」に注意する必要があります。

 

サブタイプ化とは・・・

一度作られた認識の枠組みや信念を覆すような情報に出会ったとき、それをサブタイプ、つまり例外であると処理し、持っていた信念の変化を防ぐこと。

 

また、特に犯罪報道など、ネガティブな要素のある事柄を伝えるニュースに触れる場合は、「錯誤相関」に特に気をつけなければなりません。

 

錯誤相関とは・・・

多数派に対して相対的に少数である集団のネガティブな行動が、その集団の成員であることと関連付けて認知されること。

たとえば人数が10人の集団Aに属するメンバーの内、2人が望ましくない行動をとり、5人の集団Bの内1人が同じように望ましくない行動をとったとする。

数字の上ではどちらも全体のうちの望ましくない行動をするメンバーの割合は5:1だが、錯誤相関が働くと集団Bの方が望ましくない行動をとりやすいと認識される。

 

 

3.情報を見終わった段階

ここに潜む危険性は、僕が見る限りこれまでの段階の危険性よりも、あまり問題視されていないというか、見過ごされがちです。しかし、大量の情報を息つく間もなく次々とはしごする現代人にとって実はこの情報に触れた後の段階が、非常に重要なのではないかと思います。というわけで、この項は少し長く書きます。

僕が考えるに、このタイミングでもっとも注意するべきは「スリーパー効果」です。なぜならこれは、これまでの段階で触れた認知上のバイアスにいくら注意を払っていたとしても、避けることが難しい現象だからです。

 

スリーパー効果とは・・・

時間の経過によって情報の送り手が誰かという記憶が減退することで、情報の信頼性の問題が希薄化し、信頼性の低い情報の内容に説得力を感じるようになること。

 

 この現象は、信頼性の高い情報も低い情報もごった返し同じ土俵に乗ってしまうインターネットにおいては、特に注意する必要があります。

なぜならこの効果が働くと、いくら情報の信頼性を気にかけていたとしても、信頼性の低い情報が目に入ったことそれ自体によって、後々の自身の態度が変容してしまうからです。

これに関連して「マイノリティ・インフルエンス(少数派影響)」にも気をつけなければなりません。

 

マイノリティ・インフルエンスとは・・・

 少数者が一貫して同じ主張を続けることで、多数者の意見を変容させること。

 

インターネットでは、その広大さから社会生活において普段見られない主張や常識とは異なる意見が目に入ることがありますが、大体においてその主張者は一貫しており、また、インターネットはそのような人々を特定の場所に集める作用があるので(少数者にとっては自分と同じ主張をする人を見つけるのにインターネットは優れたツールである)、何か特定の、少数ではあるけれども数としては無視できない規模の集団が、そのような意見を主張しているように見えてしまいます。

それによって、たとえ彼らの主張する情報の信頼性が低くとも、言ってしまえば嘘でも、マイノリティの凝集と可視化によって特に「その話題に興味の無い人々」は影響されてしまう可能性が生じてくるのです。

 

SNSの発達、それらの持つ特徴的なシステムによって、自身と同じ意見や価値観を持った者同士が集まり、彼らの発した主張を見、共感を伝えることは以前よりも容易になりました。

このような状況では、集団極性化現象」その中でも特に「リスキーシフト」に注意を払う必要があります。

 

リスキーシフトとは・・・

個人の意思決定よりも、集団での討議した後の決定のほうが意思決定がより危険な方向へとシフトしてしまう現象。

この現象が作用すると、集団は意思の統一を目指す傾向が強く成員は個人的な疑問を抑え、自集団の道徳性や将来を過度に信頼しつつ、他集団への蔑視を始める。

 

例えばニュースへコメントをする場合、同じ価値観を持った人々が集まれば当然、そのメンバー内で意見は同じようなものになります。これによって人は自分の考えの正しさを再確認するわけですが、ここでは特に集団におけるリスキーシフトの危険性に自覚的である必要性があるでしょう。

 

その他

ここでは補足として確証バイアスにおける「認識の枠組みや信念」つまり、「信じたい情報」が何に由来しているのかに自覚的になるための用語を紹介しておきます。

 

内集団びいき

自分が所属する集団、つまり内集団を、所属しない外集団よりも高く評価したり、特別であると感じたりすること。 

そのために外集団を貶めてしまうこともある。

 

外集団同質性バイアス(外集団均質性効果) 

自分が所属していない集団(外集団)に対して、自分が所属する内集団よりもステレオタイプ化された単純かつ均質な認識をしてしまうこと。

たとえば「XX県民は冷たい」だとか「YY国民は気難しい」などだが、容姿などの外見的な特徴に対する認識の中にもこの現象が見られる場合がある。

 

 

参考文献

上瀬由美子著「ステレオタイプの社会心理学-偏見の解消に向けて」サイエンス社 2002年

山岸俊夫著 「社会心理学キーワード」有斐閣双書 2001年

斉藤勇編著 「図説社会心理学入門」誠信書房 2011年

「本音」と政治とインターネット

 

アメリカの次期大統領がトランプさんに決定しました。

今回の結果については、専門家の方々が詳細な分析をするはずで、遠い国の出来事でもあるので僕なんかが特別何か言うことなんて無いんですが、つい最近「インターネットと本音」についての記事を書き、そこでちょうど政治と本音の関係性について触れたところだったので、この記事を書いてみようと思いました。

まずこの「インターネットと本音」についてですが、僕はこのブログで何度かインターネットにおける「本音」の発露について、ゴフマンの「表舞台・舞台裏」の概念を使って論じてきました。

その内容をここで簡潔にまとめるとすると、「インターネットは、密な人間関係の中で社会的役割を演じる『リアル』という『表舞台』に対して、そこでは言えない『本音』を言う『舞台裏』の領域を担っている」というような感じになるかと思います。

 

今回の選挙の結果については、様々な解釈がネット上ではなされていますが、その一つに「ポリティカル・コレクトネス」(以下PC)への反発というものがあります。

 

togetter.com

 

つまり、PCへの反発をくみ上げ、人々の「本音」を代弁したのがトランプさんである、というのがこの論の要旨です。

 

さてここからは、この「PCへの反発説」にのっとった上で、本題である「本音」と政治、そしてインターネットの関係について考えてみます(以下数行は過去記事をほぼなぞります)。

まず「本音」についてですが、修学旅行の夜に仲間内で好きな人を言い合うのが盛り上がるように、確かに「本音」や「秘密」「真実」を伝え、知ること、あるいはそれを共有することは非常に楽しいものです。

「本音」で語り合うことによって生まれる深い理解は、人間関係や集団を結束させたり、それらをより良い道へと導く「前進」だとされています。

しかし、こと政治という領域に関しては、思想家のハンナ・アーレントの考えは違っていました。

アーレントは、多くの市民の目線が飛び交う公共領域で行われる「政治」においては、本音のようなものは私的領域にとどめ、各々が「仮面」を付けた上で、理性的な善き市民の役割を演じる中で執り行われるべきだとしていました。

というのは、彼女は、「仮面」や「偽善」の下に存在する「人間の本性」を善なるものだとは認めていなかったからです。

 

もし現代においてPCがこの「仮面」の役割を担っていたとするのなら、それを剥ぎ取って現れる「本音」なるものは、そこまで「きれい」な「尊重されるべき」ものなのでしょうか。

それは、人種(あるいは民族や宗教)のようなカテゴリーから発露された「本音」であると考えられるPCにおいては、一層深く考えなくてはなりません。

なぜなら、ここでの「本音」は、悪い言い方をすると「本能」に近いものであるからです。

社会心理学の知見からも分かるように、人間はふとすると無意識に自分と異なる属性の他者を偏見の色眼鏡で見てしまい、差別してしまう傾向を持っています。

もちろん差別は社会的学習によって身に着けてしまう場合もありますが、それで全て説明できるわけではありません。

この言ってしまえば本能のようなものが、教育と理性によって再帰的にモニタリングされることで抑制され、あらゆる差別は減少してきたのです。

そしていつしかそれは人間にとって正しい生き方だとされるようになりました。

これまで、既存の大メディアはこの論理でおおむね成り立っていました。というのも、まさにこれらは「多くの視線が飛び交う」公共領域であるからです。

しかし、この論理を飛び越えた新しい公共空間が新しく誕生しました。

それはインターネットです。

 

僕は、インターネットは表舞台の「リアル」に対して、本音を暴露する舞台裏的な使われ方をしているのにもかかわらず、その規模と可視性はどの「リアル」よりも大きいという、「表と裏の逆転現象」が起きているのでは、と上のリンク記事で述べました。

僕は特にこのことが、今回の大統領選にかなりの影響を与えたと考えます。

その具体的な機序は次のような感じになるかと思います。

 

1.インターネットによって「本音」が可視化される。

2.各々が自分だけが持っていると考えられていた、あるいは「持っていいのかどうかすら確証の持てなかった」意見や感情が人々に共有され、それらが一つの考えとして政治的な立場を確保する。

3.そのような考えを「リアル」で主張するトランプさんに対して、自身の感情に自信を持てた人々が代理満足的に支持する。

4.それが「リアル」の人間関係からは隔絶している(不可視である)という点ではインターネットと同一の、本音の場としての「投票」という営為に反映される。

 

僕はこれの特に4.のフェーズによって、今回の「隠れトランプ支持」現象なるものや、多くの既存メディアがトランプさんの不支持をしたにも関わらず彼が勝利したことの原因のいくらかを、説明できるような気がしています。 

 

ところで今回このようなデータがありました。

 

edition.cnn.com

 

出口調査ですから確定的なことは言えませんが、CNNのこの記事によれば、どうやら投票前の主だった報道が描いていた「物語」に反して、有権者の「収入」や「学歴」はそこまで投票先の傾向を分ける大きなファクターとはなっていません。

むしろ最も差がはっきりと表れているのは、「人種」です。

僕自身、PCに付随する全ての言論が正しいと思っているわけではありません。

しかし、仮にこの人種差(を生んだ選挙結果)が今現在よく言われているような人種的マジョリティのPCへの反発(本音)によってもたらされていたとするのなら、この「仮面」の下に隠されていた「本音」は、そのような文脈で簡単に肯定されるべきものだとは、僕には思えないのです。

 

ここ日本でも、政治において(インターネット発の)「本音」は力を持ち始めています。

思えば、こないだの待機児童の問題を糾弾した「日本死ね」も、あえて荒っぽい言葉を使うことで当人の心からの叫び、「本音」の発露だと捉えられたからこそ、注目を集め、多くの人々の共感を得ることが出来たのだと思います。

しかし同時に「本音」は、記事が掲載されていたブログタイトルの通り、先日の元アナウンサーの方のような主張にも使われることがあるのです。

インターネットの普及、またSNSの隆盛によって、私たちはいつでも見知らぬ人々の大量の「本音」を見ることが出来るようになりました。

私たちにはこの「本音」がどのようなもので、どこまで尊重されるべきものなのかを、ある程度厳しくみることが、今求められているのかもしれません。

もちろん、「自分は行き過ぎたPCに対して批判しているのであって、それ自体を否定しているわけではないし、差別も肯定していない」 と考えている人も多くいるでしょう。

しかし、あのような発言を繰り返した人物が政治という公共領域に躍り出て、それを特に撤回もしないまま国のトップにまで上り詰めたことの影響は、深く考える必要があるように思います。

それは、いつか誰かの耐えようのない「本音」が自分自身に向いてしまった時に後悔しないためにも、必要なことだと僕は考えています。

 

twitter.com

 

human921.hatenablog.com

 

 

電車内での化粧と「儀礼的無関心」

 

最近の記事ではゴフマンを何度か取り上げましたが、先日電車内での化粧についての記事を見かけたので、前々から書いておこうと思っていたこれら電車内でのマナーについて、ゴフマンの「儀礼的無関心」と絡めながら考えてみたいと思います。

anond.hatelabo.jp

 

まず儀礼的無関心の意味についてですが、こちらのページを見ていただければ大体分かると思います。

 

d.hatena.ne.jp

ようするに「儀礼的無関心」とは、見知らぬ人が多く集まる公共空間において、互いの尊厳と場の秩序を維持するための技法のことを指しています。

例えば電車では、閉ざされた空間で見知らぬ人間同士が密着せざる負えない状況が日々作り出されていますが、まさにそうした場でこの儀礼的無関心は必要となってきます。

電車の場合よく挙げられる無関心の例に「むやみに他人を凝視しない」というものがありますが、今を生きる私たち現代人は、無意識にこのような「儀礼」を駆使して日々を暮らしているわけです。

 

さてここで電車内での化粧について考えてみましょう。

電車という公共空間は先ほど説明した儀礼的無関心によってその場の秩序が保たれているわけですが、そこでの化粧はその場にどのような影響を与えるのでしょうか。あるいは電車内の人々にどのような印象を持たせるのでしょうか。

 

まず考えられるのは化粧のような一般的に自宅などの公共空間からは見えない私的領域においてされるような行為を公共空間に持ち込むことは、周囲の人間に「自分を完全に無視している」(≒疎外感)と受け止められる可能性があるということです。

ここで重要なのは、電車内で必要とされる無関心はあくまで「儀礼的」、つまり「ポーズ」や「フリ」なのであって、最初から周囲に対して「完全に」無関心であることは想定されていないという点です。

したがって電車内での化粧は、周囲の人々、空間に対しての当人の完全な無関心の態度の証左とされるとともに、公共空間での私的領域の拡張、私的行為への没頭ととらえられ、儀礼的無関心に拠って成り立つ電車内の秩序に対する潜在的脅威とみなされてしまうのです。

この構造は携帯電話の通話やイヤホンからの音漏れ等の電車内でのほかのマナー違反にも当てはめることが出来ます。

電車内での会話が許容されている一方で、これらのことがマナー違反とされるのは、前者はそれがその「空間内」のメンバー同士でなされることで、周囲の環境に対する関心を完全に遮断するものとは考えられてはいないからです。

つまり電車内においてある行為がマナー違反なのかそうでないのかは、上記の例で言えば「騒音」という観点からみた音の大小などのように、必ずしも具体的に周囲の人間に害を与えるか否かという基準では決められていないのです。

ここでは当該行為が儀礼的無関心の範囲を逸脱したものかそうでないのかが、重要なファクターとなるわけです。

 

とはいえ僕自身は、電車内での化粧と今挙げたような携帯電話の通話やイヤホンの音漏れを、マナーという括りで一緒に論ずることには抵抗感があります。

というのも、携帯やイヤホンに関しては、曲がりなりにも「音」という具体的な形で周囲に悪影響を与える可能性のある要素があるのに対し、化粧にはそのようなものがないからです。(中にはファンデーションの粉が飛ぶからという意見もありますが、その割には啓蒙ポスターや広告にはそのような文言はめったに登場せず、「みっともないから」というフワッとした理由付けが多く感じます)

そもそも化粧が問題視されるのなら、同じく周囲への無関心を想起させうるスマホの使用、ゲーム、読書はどうなるのでしょうか。これらの行為は空間から隔絶された外部メディアへの接続という点では、化粧よりもその無関心の度合いが高いといえなくもありません。

いや、それよりも「睡眠」はどうでしょうか。よく考えれば「睡眠」ほど周囲への完全なる無関心を示す行為はありません。なぜなら覚醒してないのですから。ついでに言えば一般的に睡眠は自宅などの私的領域で営まれることでもあることから、その私秘性もある程度高いと言えるでしょう。

しかし電車内での睡眠は特にマナー違反とみなされてはいません。

こうなるとやはり化粧に関しては何か別の観点から考える必要があるように思えます。

僕が今考えているのは化粧に対する人々の認識の違いです。僕は化粧をしないのでくわしいことは良く分からないのですが、化粧を何のためにしているのかは、人によってかなりばらつきがあるような気がしています。

例えば仕事のため仕方なくする人、化粧自体が好きで外出するときはいつもする人、誰か特定の人に会うためにする人、社会人として他人に会うときはするのが常識だと思っている人…などなどです。

このようなばらつきがある中で、例えば仕事の為に仕方なく化粧をする人が、時間がないためにやむを得ず電車で化粧をした場合、それを見た外出して他人に会うとき(他人の目に触れるとき)は化粧するのが常識だと思っている人はどのような印象をその人に持つでしょうか。

おそらくそこでの疎外感、化粧をする人から発せられる自身に向けられた無関心の度合いは、他のマナー違反のそれとは一線を画す程強く感じられるものとなるでしょう。

僕は記事の最初の方に「化粧のような一般的に自宅などの公共空間からは見えない私的領域においてされるような行為」と書きましたが、なるほどこの認識は浅いところでは多くの人に共有されたものではあるけれども、上記のように化粧に対する考え方の違いによって、その認識の度合いに差があることが、問題の一つの要因であるような気が現時点ではしています。

 

解決策として

マナー違反とされる行為は電車内の空間の儀礼的無関心に拠って作られた秩序への脅威とみなされるがためにタブーとなってしまうと説明しました。

マナー違反をする人、それを見て不快に思う人双方がwin-winの関係でこの問題を解決するためには、別の方法で電車内の秩序を構築するという方法が考えられます。

例えば、通常の車両と隔絶した、儀礼としての無関心の範囲を逸脱するとみなされたためにマナー違反となった行為を許容する車両を作る、というような方法です(もちろん周囲に実害を与えるような違反・犯罪はNoです)。

鉄道を運営する会社側がこのような「完全な無関心」を認める車両を一部設け、車内の状況・文脈を予め設定することで、人々に儀礼的無関心による秩序に依存しない公的空間を作るように仕向けるわけです。

特に時間的余裕の無い日本の朝の通勤時間帯においては、この車両は電車に乗る間に出来ることの選択肢を広げるので、多少の需要はあるような気もしています。

(とはいっても、その前に労働環境と朝の電車の混雑を改善する必要がありますが…)