ペンギンの飛び方

本を読んだりニュースを見たりして考えたことを、自由に書いていきたいと思います。

Twitterにおけるコミュニケーションについて

 先日Twitterで、このようなハッシュタグがトレンドに上っていました。

 

「#オブラートにブスと伝えよう」

 

(このタグの文法上のおかしさはとりあえず措いておきます。)

このような文言がTwitterというネットサービスの中では大衆性の高い領域で数多く言及され、それがたくさんの人々の目に入ることそれ自体については、様々な意見があると思います。

しかしここではこのタグの是非については論じません。

僕はこれを見てまず最初に、「まるで(男子)中学生の内緒話のようだ」と感じました。

中学生がクラス内の異性に聞かれたらまずいと考えて仲間内だけでヒソヒソと話すような、そんな光景をこのタグを見て僕は連想したのです。

そういう流れで僕は、いつまにか自身の中学生時代の記憶を辿っていましたが、ふいにある一つの疑問が浮かんできました。

それは、「このタグで大喜利をしている人にとって、インターネットはどういう存在なのか」というものです。

 

社会学者のアーヴィング・ゴフマンによれば、人間は、自身が他者から期待されている役割を演ずるパフォーマーとして振る舞い、自己の印象を操作し、同時に場の秩序を保つ「表舞台」と、本音や陰口を言うことで表舞台とのバランスを図る「舞台裏」を行ったり来たりする存在だとしています。(同じく社会学者の奥村隆は、この表舞台を「思いやり」の領域、舞台裏を「陰口」の領域と捉えています。)

 そして彼は、この舞台の2つの領域はその性格上厳密に分離されなければならないと言います。というのも、この分離がうまく行かなければ、表舞台における演技は一挙に空虚なものとなり、舞台の秩序は崩壊してしまうからです。(ゴフマンは例としてホテルの従業員達の行動を挙げています。彼らは宿泊客の前では従業員としての役割を完璧に一方で、控室では客を戯画化し、徹底的にこき下ろすのです。)

通常、社会と呼ばれるような(大衆性の高い)場では、「表舞台」の論理によってそこでの秩序は保たれ、人々は安全に自身の「面子」を保つことができています。

 

これまでの議論からすると、このハッシュタグは、通常舞台裏でなされる種の話題であることは間違いないように思われます。

というよりこのタグは「オブラート」の語が示すように、これからの表舞台での「演技」を想定した打ち合わせのような雰囲気さえ漂わせています。

 

では、ここで当初の疑問に戻りたいと思います。このタグで大喜利をしている人々は、このように通常舞台裏に持ち込まれるような話をTwitterで話題にしていますが、彼らはこのTwitterなどインターネットをどのような存在として捉えているのでしょうか。

率直に、彼らは「舞台裏=陰口」の領域として捉えていると僕は考えています。

それは何に対しての「裏」なのでしょうか。おそらく、ネットとの対照においていわゆる「現実」とか「リアル」と呼ばれるものに対してのものだろうと推察されますが、ここで面白いのが、この舞台裏は、裏と言いつつ実際には「全世界に」公開されているという点です。

つまりここでは、表舞台よりも舞台裏の方が大規模で露出度が高いという逆転現象が起きているのです。

もちろんインターネットを使いコミュニケーションをする人が、全員そこを舞台裏とみなしているわけではないであろうことは確かです。

例えばTwitterのプロフィールに実名や職業を書いているような人は、インターネットを表舞台として扱い、求められる役割演技をしている傾向が(他よりは)強いような印象を受けます。

このように考えるとインターネットは、その場が表か裏かコンセンサスが得られないままに、様々な目的を持った人々が同居している混沌とした空間であると言えるのかもしれません。

 

もしかするとインターネットは、そこを表舞台とする人々にとって不利な場であると言えるのかもしれません。

なぜなら場の秩序などお構いなしに自由気ままに発言する人々と、同じ舞台に立たなくてはならないからです…

…と言いたいところですが実は事態はそんなに単純ではないようです。

なぜなら上述のホテルの従業員のように、場が舞台裏であることによる陰口の「共犯関係」がここでは成立しないからです。

従業員の控室での陰口は、そのメンバー内においてそれを咎める人はいませんが、Twitterなどでは、その大衆性の高さゆえにメンバーの外部からそれを咎める人が出現する可能性が常に存在しています。

したがってこの舞台裏は、ここが表舞台だと考える真面目で(彼らにとっては)厄介な同僚がいつでも侵入する危険性のある、気の休まらない控え室であると言うこともできるのかもしれません。

 

続きです。

human921.hatenablog.com

 

 

色々な「Make America Great Again」の派生系

 

アメリカ大統領選の共和党候補ドナルド・トランプ氏の掲げる公式スローガン

「Make America Great Again」は、彼の高いメディア露出もあいまって、非常に有名なフレーズとなりました。(ただ、最初に使用したのはレーガン大統領だそうですが)

今回はそこで、僕がこんなのもあるかもしれないとツイッターハッシュタグなどを調べた結果、実際に存在し、かつある程度の規模があったものをいくつか紹介したいと思います。(かぎ括弧は見やすいように僕が付けてます)

 

 

国・地域系

#make「germany」greatagain

#make「britain」greatagain・#make「uk」greatagain

#make「england」greatagain

#make「russia」greatagain

#make「france」greatagain

#make「sweden」greatagain

#make「mexico」greatagain

#make「australia」greatagain

#make「europe」greatagain

#make「rome」greatagain

#make「earth」greatagain

 

 文化系

#make「music」greatagain

#make「hollywood」greatagain

#make「disney」greatagain

#make「anime」greatagain

#make「pokemon」greatagain

 

企業系

#make「apple」greatagain

#make「nintendo」greatagain

#make「twitter」greatagain

 

スポーツ系(サッカー)

#make「manu」greatagain(manchester manutd)

#make「chelsea」greatagain

#make「liverpool」greatagain

#make「arsenal」greatagain

 

 

使われた文脈が分からないので何ともいえませんが、思った以上に種類がありました。特に国なんかはどこの国名を入れてもある程度はヒットしました。

調べ方や言語の問題もあるので、実際はもっと色々な使われ方をしていると思います。

よく考えるとこのフレーズ、何かの威光を取り戻したいときのスローガンとしてはとても分かりやすく汎用性が高いので、皆さんも機会があれば使ってみるといいかもしれません。

 

 

「好きでいてほしい国」と「嫌いでいてほしい国」

 

今回は過去の記事で扱ったYouTubeのサジェスト比較について自分なりの考察を加えてみたいと思います。

考察対象として、当記事では過去記事で挙げたサジェストの中でも「日中韓露」に的を絞ってみたいと思います。

というわけで過去記事から一部を貼り付けます。(すべて2016年4月5日の検索結果です)

 

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各国のサジェストにおける相違点

まずこのサジェストを見てすぐ目に付くのは、中国、特に韓国に対するそれの異常さであると思います。

これら二国のサジェストにおいては、ナショナリズムの非常に悪い面が発露しているように思われます。

確かに国同士での関係が良好ではない現在、このような結果になってしまうのはすんなり受け入れるとまでは行かないまでも、容易に考えられる事態であるのかも知れません。

が、とりあえす日本のYouTubeには、国家にアイデンティティを依拠し、そこでの「快感」の為に情報を集める人々が、少なくともサジェストにはっきりと影響を与える程度にはいる、ということは厳然とした事実であるように思います。

 

しかしそのように考えるとあるひとつの疑問が生まれます。

それは、なぜ中国や韓国と同じく日本と対立のあるロシアのサジェストには中韓と同じ傾向が見られないのかというものです。

むしろそれどころか「ロシア人 日本好き」というワードすらあります。(さらに言うなら「○○人」と入力して「日本好き」と出てくるのは僕がいくつか調べたところロシアだけでした)

中国や韓国と程度の違いはあれどロシアも日本とは領土問題や歴史的な点で(去年はシベリア抑留の記憶遺産の件でひと悶着ありました)問題を抱えています。

そのような背景から世論調査では、日本人のロシアへの親近感は中国と同程度に低いということが明らかになっています。

このようなことを踏まえると、中韓のサジェストとロシアのそれとの違いは、やはり不可解であるように思えます。

YouTube中韓が崩壊する、嫌われているという情報を集めるほど悪い意味でナショナル・アイデンティティが高揚した人々は、なぜ同じく日本と対立を抱えるロシアに対しては、その憎悪を向けないのでしょうか?

今回はこれら三国のサジェストの傾向の違いが生まれる要因を、「社会的アイデンティティ理論」「下方比較」という面から論じてみたいと思います。

 
社会的アイデンティティと自尊心

まず「社会的アイデンティティ」という用語の意味について説明します。

この理論では、人間は自分独自の性格や記憶が構成要素である個人的アイデンティティに対して、ある集団(カテゴリー)の一員としての自己を定義するとされています。

この集団には、たとえば、男性や女性、日本人とかアメリカ人とか○○県民など、様々なものが当てはまります。

そしてこの「社会的アイデンティティ理論」によると、自尊心の高揚は、この「社会的アイデンティティ」を通じて行われるとされています。*1

この議論をふまえると「日本」・「日本人」のサジェストのいくつかは説明が可能ですが、さらにこの理論を応用して、ロシアにだけ「ロシア人 日本好き」というサジェストが出てくる疑問にも考察を加えてみたいと思います。

 

僕が考えたのは、もしかするとロシア人は、日本にアイデンティティを依拠し、それによって自尊心を高揚させようとする人々にとって、自集団を好きでいてくれると自尊心が特に高まる人々であって、同時に嫌ってほしくない国民なのかもしれない、というものです。

社会的アイデンティティ理論においては、自集団が高く評価されている、あるいは好かれているという情報は、当該集団にアイデンティティを依拠する個人にとって多分に自尊心の高揚につながります。

そのような背景がある中、国同士の対立が存在し、ともすれば自然と相手国民に嫌われている、国民同士憎しみあっている、というような認識が出来上がってしまうのは、その国民に好かれたい人々にとって死活問題であるわけです。

したがってそのような場合は、あえて好かれているという情報を積極的に集めざるを得ません。

国同士で対立がある。でも嫌ってほしくない、好きでいてほしい。だからそれを覆すために彼らは、ロシア人は日本が好きという情報を集めることに躍起になっているのかもしれません。

もちろんこれだけではこれら三国の違いを説明するには弱すぎます。

そこで次に「下方比較 」という観点から論じてみたいと思います。

 
下方比較のしやすい相手・しにくい相手

「下方比較」とは、自分より下(と認識できる対象)を見つけ、あるいは自ら作り出した上で、自身とその対象を比較し自尊心を高めることを言います。

これを上記の「社会的アイデンティティの理論」と組み合わせると次のようなことが言えます。

それは、人間は自分の所属する内集団と対象の外集団を比較し(≒下方比較)、自集団を肯定的に認知することで、自尊心を高めることができる、ということです。

なるほどこの観点から見れば、「すごい・感動的な愛される日本」 と「崩壊し、嫌われている中国・韓国」という「対比」は、ナショナルな括りにアイデンティティを依拠する人々にとって、自尊心を高める上で最高の組み合わせであると言えます。

 

しかしここで重要なのは、一体どういった集団が下方比較での比較対象に選ばれるのか、という点です。

まず、集団同士が「対立」を抱えているというのは不可欠な要素であると思われます。

これは下方比較が本来持つ性質から来るものですが、この「比較」の上ではどうしても対象となった外集団を貶める、あるいは否定的な認知の出来る情報を集めるというプロセスが必要です。

なぜなら、そうしなければ「下方」比較が出来ないからです。そしてそれは相手集団がより自集団と似ている場合、より一層求められることになります。

しかし、仮に対象集団が自集団と友好な関係であった場合、そのような集団を貶め、否定的な情報を集めることは本人に強い抵抗感をもたらします。

自分を好きでいてくれる相手を貶すことは誰にとっても難しいことだと思います。

したがって下方比較の対象は自集団と対立を抱える集団となる可能性が高いと考えられるのです。

 

このことを踏まえると、ナショナルなアイデンティティで以って自尊心を高揚させる人々にとって、中国、韓国、ロシアは下方比較の対象としては「使える」外集団と言えるのではないでしょうか。

だからこそ、中国や韓国のサジェストは上記のようなものとなっているわけです。

しかしこれまでも言っているように、ロシアからはこれら二国と同じ傾向はうかがえません。むしろ「好き」であるとする情報を集める人々が多いのです。

僕はこの原因は、彼らにとってロシアが下方比較のために必要な、「下に見る(見なす)」ことの出来ない集団であるからではないかと考えていますが、それがなぜなのかは当記事では追いません。

とりあえずここではこのように仮定して議論を進めたいと思います。

 
建前との矛盾

中韓のサジェストの ナショナリズム的傾向を生み出している人々は、それを日本という社会的カテゴリーを利用した自尊心の高揚のためにやっているということをあけっぴろげに言うわけにはいきません。

なぜならこの行動は、これら二国が日本と対立を抱え、日本の「国益」を害しているから、そしてそれを憂う自身の「愛国心」の発露という建前で初めて、「差別」という批判を退け、客観的な正当性をかろうじて担保できているからです。

つまり相手がこんなことやってるんだからこっちだって~という「目には目を」の論理です。

したがってこの建前を壊すことは、中国や韓国を貶める情報を集めるという自身の行動の正当性を失わせてしまうのです。

しかしこの点から言うと、愛国心国益などの建前で自身の行動を正当化し、本来の自尊心の高揚という目的をカモフラージュする人間にとって、日本とロシアの対立は非常に厄介な存在です。

なぜならこれまで挙げた要因によって、中韓露に対して行動の一貫性が保てず、建前との矛盾が生じ、「自尊心の高揚」という「愛国心」とは程遠い「利己的な」本来の目的と、自身の中韓への「差別意識」が、客観的に明らかとなってしまうからです。

これを防ぐための最後の手段が、「ロシア人 日本好き 」なのではないかと僕は感じています。

つまり、国同士の対立を抱えているけれども、「実は」相手国民は日本のことが好きなのだから、自分はロシアのことを貶めないのだ、ということにするのです。

 

まとめ

これまでの議論をまとめてみます。

  1. YouTubeでサジェストに影響を与えるほどの規模を持ち、中国・韓国のネガティブな情報を集める「彼ら」は、国益愛国心のためと言うよりは、むしろ社会的アイデンティティ理論の観点で見た場合、アイデンティティである日本国籍を使った自尊心の高揚が目的であり、それが行動の指針となっている。
  2. その意味で「彼ら」にとって日本は、愛する母国というよりは自尊心の高揚という目的達成のための「道具」でしかなく、その道具が通用しない相手、つまりロシアなどには沈黙せざるを得ない。*2

 

これらの仮説を踏まえると、国籍に自身のアイデンティティを依拠しそれによって自尊心を高める中で、日中韓露のサジェストのナショナリズム的な傾向を生み出している人々にとって、世界には大きく二つの国が存在していると言えるのかもしれません。

 

ひとつは、自尊心の高揚と、下方比較の難しさから自国を「好きでいてほしい国」

ふたつめは下方比較の正当化と抵抗感の軽減の為に自国を「嫌いでいてほしい国」

 

補記

これまでの推論は、ある程度の同一視を前提としています。

つまり「ロシア人 日本好き」とか「日本人 すごい」と検索する人々と中韓のネガティブな情報を検索する人々を同一集団であると仮定しているのです。

たしかに簡単に同一視できるものではありませんし、僕自身くわしく調査をしたわけではありません。

しかしこれらの動画に寄せられているコメントのユーザーページ、動画を挙げているチャンネルの他の動画や関連チャンネル、あるいは動画自体の関連動画などを見ると、社会的アイデンティティ論を使ったこの推論は、通低する行動指針の存在を仮定した場合の、これらの国々のサジェスト傾向とその相違点のひとつの説明として、そこまで的外れではないように思うのです。

 

 

*1:「自尊心」はその高低に関わらず一般的に高揚させようと動機付けられています

*2:これらすべては、恐らく本人たちが意識的にやっていることではなく、ほぼ無意識にやっていることだと思います

インターネット・ミームと「想像の共同体」

 

インターネットでは数多くのミームが生み出されてきました。

その中にはそれが生み出された背景や文脈を深く理解しないと意味が全く分からないものもあり、そのようなミームを多用し、一見何を話しているのか分からない会話を繰り広げ、ひとつの文化圏を作り出しているような場所も存在します。

僕は今となってはあまりそのような場所には訪れないのですが、かつてはよくそこを見に行ったりもしていました。

そして当時、僕はそこで頻繁に繰り広げられるある光景に疑問を感じていました。

というのは、そこにいる人々は、そこで使われるスラングが正しく使われないと非常に腹を立てるのです。さらに、それが外に持ち出され、その場所ではないところで使われているのを知っても、それは激しく怒り出すのです。

このような現象はその熱量は違えどネットの広範な範囲で見られます。

例えば特にネット発のミームがテレビ等の既存メディアに取り上げられた時、その際の感情は様々であっても、多くの人がそれに対して敏感な反応をしているということは共通しています。

というわけで今回は、スラングの誤使用と外部への持ち出しに対する怒りの背景を、タイトルにあるように政治学者ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」という議論から考えてみたいと思います。

 

アンダーソンは、著書「想像の共同体」で、国民の間の強力な共同体的意識はなぜ生まれたのかという問いをいくつかの観点から解明していますが、その中の概念のひとつに「出版資本主義」と呼ばれるものあります。

出版資本主義とは簡単に言えば、印刷技術の向上と資本主義の合流によって新しく一般民衆を対象にした、産業としての出版物の流通・販売の拡大の事を指しています。

出版資本主義はその利益追求の性格から、領域内の多数の人々が理解できる俗語をその出版物の言語として採用しなければなりませんでしたが、それは領域内において機械的に組み立てられた「出版語」の発明をもたらしました。

それは多様性のある口語の市場規模の狭さから考えると想定される成り行きで、これが公教育による識字率向上もあいまることにより、やがて限られた領域内において共通の(読み書き)言語が定着していきました。

このことは、それによって可能となった新聞や小説などの出版物を媒介とした共通体験や、人々の相互理解をもたらします。

アンダーソンによればこれによって、同じ言語を共有する領域内の人々の意識に、想像された共同体として「国民」(と、その集合体である「国家」)が作り出されたとしています。

さらに、言語が地球の全域においてひとつに統一されなかったことは、国家間の共通言語による民衆同士の相互理解を不可能にしましたが、これによっても共同体としての意識はより強いものとなりました。

というのは、それによって閉じられた領域内でのみ通用する共通言語の存在が際立つことになり、そこに独自性という価値が付与され、それを共有する集団内により一層の共同体意識が生まれるからです。

さて、これらの議論を今回のテーマに当てはめて考えてみたいと思います。

 

ここまでの議論から考えると、ネット上で互いにスラングを多用したコミュニケーションをしている人々は、その限定された領域でのスラングの共有と使用によって、一種の想像された共同体意識を持っていると考えられるのではないでしょうか。

つまり彼らは、国家における国民でもない、インターネットの限られた特定の領域において、特定のジャーゴンを媒介項とした共同体を作り出し、そこの住民としてその場所に帰属意識や共同体意識を抱いていると言えるのではないか、と考えられるのです。

そこでは国家領域のそれよりも、その「言語」が厳格に、独占的に使用されます(と言ってもそれが達成されるているわけではないですが)。

なぜなら、おそらくネット上でのテキストを使ったコミュニケーションにおいて、共同体意識を作り出す方法は、国家領域におけるそれよりも数が限られているからです。

よって特定領域にしか通用しないジャーゴンを非常に厳格に運用することが、共同体意識のため、最も手軽で強力な、ほぼ唯一の手段として採用されます。

その意味では、ネットにおけるスラングを利用した共同体は、それによって共同体意識を高めているというだけでなく、スラングを用いたコミュニケーションそのものに、共同体としての本質があるようにも考えられます。

したがって正しくスラング≒「言語」を使えないことや、それを外に持ち出すこと、領域外の人間が使うことは、そこに帰属意識を持っていた人にとって、その閉鎖空間に穴を開け、それを用いたコミュニケーションによって成立していた共同体幻想を壊してしまう行為、と言えるのです。

 これらのことが彼らがあれほど腹を立てていた要因ではないでしょうか。

 

インターネットはここ10年ほどで非常に大衆性の高いものとなりました。この流れは特にSNSの出現によって拍車がかかっています。

したがってかつてのようにネット上の限られた空間で、特定の人々同士がひそひそと内緒話をするということは難しくなったように思います。

結果、ネット上のどこかで生み出されたミームは、面白いと評価されればすぐに拡散されネットの全体へと広がっていきます。*1

これは確かにそのミームが誕生したコミュニティの住人で、そこに強い帰属意識や共同体意識を持っていた人からは面白くない傾向かもしれません。

ただ、これをネット全体としてみるとどうでしょうか。新しく発明されたミームが発生した場所にとどまることなく広がり、ネット全体の共通言語・文化となる。

これは広い視点で見れば、インターネット全体をその領域とした、現実とは異なる言語圏を持つ、新しい巨大な想像の共同体の出現と言えるのかもしれません。

 

僕は21世紀になって、既存のメディアによって再生産されてきた従来の意味での国民としての共同体意識は弱まっているように感じています。

出版物意外にもテレビや音楽や映画など、確かにかつてより日本人ならみんなが知ってる○○というものは少なくなりました。*2

これはネットの出現がそうさせたのか、あるいはネットがなくても遅かれ早かれこうなっていたのかどうかは僕には分かりません。

ただ、このように国民としての共同体の紐帯が弱まったために、それを補う新しい帰属先としてインターネットが選ばれ、また、そこでの共同体意識の強化としてネットでは日々新しいミームが生まれそれが拡散されていく、ということは言えるのかもしれません。

 

補記

なおここではインターネットにおけるナショナリズム的(のように見える)言説の拡大は視野に入れていません。

これはもっと様々な観点から考える必要があるように思えます。

 

 

 

*1:正確に言えば評価されなくとも、そこの住民の多くがSNSなどを掛け持ちしていた場合、自然と広がる可能性は高まります

*2:といっても僕自身そのような時代をリアルタイムで経験しているわけではないです

太平洋戦争におけるアメリカの日本人像と現在

 

今回は少し重いテーマを扱ってみようと思います。

太平洋戦争では日米両方の陣営が相手国民への敵愾心をあおるために、多様なプロパガンダ戦略を展開したことはよく知られています。

アメリカの歴史学者で『敗北を抱きしめて』でも有名なジョン・ダワーは、著書『容赦なき戦争―太平洋戦争における人種差別』*1で、太平洋戦争においては両国の相手国に対する「人種差別」が、プロパガンダも含めた政府や軍部の政策や、戦場の兵士たちの行動に大きな影響を与えたことを指摘しています。

特にアメリカは、有利な戦争遂行のため当時の多くの著名な人類学者や社会学者等を動員して、遠く離れた有色人種の国家である日本の国民性・民族性を詳細に「診断」しました。

*1:旧訳は『人種偏見 太平洋戦争に見る日米摩擦の底流』

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