ペンギンの飛び方

本を読んだりニュースを見たりして考えたことを、自由に書いていきたいと思います。

ナチズムの精神 (ハロウェル『イデオロギーとしての自由主義の没落』 読書メモ)

 

以前私が読了した本にハロウェル『イデオロギーとしての自由主義の没落』というものがある。

この著作は「(ナチ時代のドイツにおいて)1933年以前には公然と自由主義と名乗っていた優れた教授、裁判官、法律家、および公務員たちが、自由主義の基本前提を拒否するばかりでなく地上から凡ゆる自由主義制度を追放しようと積極的に努力する暴虐政治を承認し、或る者に至っては歓迎さえすることがどうしてできたのか」という疑問に対して回答を与えるという目的意識のもと著されたものだ。

要旨を簡潔に示すならば、「統合的自由主義自然権の存在を認め個人を自律した道徳的人格を持つ自由な存在であると定めたうえで、この自由の担保のために非個人的な権威として法があるとする考え)が、実証主義の法学への流入により倫理的内容を抜き取られ、法が単に最強(多数派)の意志の表れであり、それに対する服従が背後の強制力によって確保されていると認識されることによって、自由主義がもっぱら形式的なものとなり、それに伴い法の限界が消滅し、またそれに反対する論拠も失われ、ナチスの(反自由主義的な)主張をみすみす受け入れてしまった」というようなものになるだろう。

私にはこの主張が実態にどれほど近いのは不明だが(納得感はあるものの)、それでもその内容には非常に刺激的かつ示唆的なものが含まれていると思われるので今回いくつか引用する。

 

法が次第に「人民の意志」と、或いは特に議会内の多数派の意志と、同一されるようになるにつれて、法の正当性はその内容に依存せしめられることが次第に少くなり、それが発出した源泉の方に次第に依存せしめられることが多くなって行った。結局においては、「法」(Recht)は力と同一なものにさせられる。……法の形式だけが重要であると考えられるときは、専断に対して何らの実体的制限はあり得ない。

ハロウェル(1943=1953)『イデオロギーとしての自由主義の没落』創元社 p.p169-170

 

恐らく自由主義が犯した致命的な過失は、罪と無知とを同一視しようとする楽天的な試みであった。現代の自由主義者を描いて、ルイスマンフォードは言う、

「彼らの道徳的価値に対する色盲症が、彼らの政治的欠陥を理解する鍵である。だからこそ、彼らは野蛮と文明とを区別することができない。....プラグマティックな自由主義者は、悪という根本的な問題を認めることを拒んでいるので、悪人たちの意図と闘うことができない。…」

 

…又、アウレル・コレ ナイは言う、

「その『相対主義』、『寛容』、および『中立主義』("indifferentism") の信仰に おいて自由主義的精神は決定的にやり過ぎてしまったのだ。
ここには、一方においては最も野放図な主観主義に、他方では専断的な暴虐政治に広く開け放つところの、おとなしくて気前が良いと同時に身勝手で無責任な気分がある。…
…気取った批評は、終には恥知らずの非合理主義になる。洗練されすぎた科学的懷疑は、残忍なプラグマティズムになる。精神に対する不信は”物神崇拝的都族生活”への復帰となる。『心の寬さ』は、専制と階級的あるいは民族的排他主義との臆病な甘受になる。」…

 

 

自由主義的な政治的·経済的制度は、人々に対して自由と平等とを約束した。十九世紀になって、自由が放縦に堕し、実体的な機会の平等が形式的な法の前の平等に堕したとき、人々は自由主義的な政治側度に対する信頼を失いはじめた。自由主義的秩序が拠って立っていた価値さえも、多くの人々にとっては、存在しないとは言わざるまでも、幻想的なものとして映じた。
信仰にさからって信じたドイツ国民は、混沌から秩序をもたらそうと約束した人々に、彼らに対して何らかの安心感を与えようと約束した人々に、既に崩れつつある一制度の否定的批評から成る綱領を掲げた人々に、頼った。ナチスドイツ国民に対して、彼らが積極的に肯定し得るようなものは何も与えなかったとしても、少くとも彼らは、殆どすべての人々が歓迎し得るような、堕落した自由主義的制度の批判を提供した。国民は民族社会主義を信じた、といろよりも、むしろ彼らは自由主義的時代の約束を信じなかったのである。或る著述家が巧みに証明したように、ファシズムは他に代るべきものがなかったので入り込んで来たのである。…

ヒットラーが未だ登場して来ないずっと前に、自由主義時代の価値は破壊されてしまっていたので、大多数のドイツ国民は、単なる誓いの行為によって少なくとも安心感を回復することを約束した新しい権威を信頼する用意ができていた。彼らはブラグマティストとして、あたかもヒットラーが常に正しいかのように行動する用意があった。そしてその指導者の絶対無謬性の擬制の上に、…民族社会主義の構造が立っている。それは、このような擬制自体が放棄されるときにのみ、崩壊するであろう。この擬制を維持することが宣伝省と軍事組織との本質的任務の1つである。ただ決定的な軍事的敗北のみが、よくこの絶対無謬性の擬制を震撼し得る、―そのときはじめてドイツ国民は、彼らが現在混沌に代る唯一のものとして甘受している専制の外に、別のものがあることを知り得るであろう。…

 

…絶望のあまりに彼らは、ヒットラーの絶対無謬性を信仰する道を選んだ。そしてその信仰は、いかに逆説的であろろと、ペーター・ドルッカーが指摘する通りますます増大する絶望の深みから更新される。…この明白な逆説は、ドルッカーによって次の如く説明されている。


「大衆は何ものかを持たねばならない。…彼らは全体主義が提供しようとするものに深い不満を感じているけれども、他に何物をる得ることができない。したがって全体主義は妥当な解答たらざるを得ない。全体主義が与えるものに彼らが満足しなければしないほど、ますます彼らはそれで十分だと自らを 説得しようと努めねばならない。 彼らは深刻に不幸であり、深刻に失望しており、深刻に幻減を感じている。しかし彼らは、幻減を感じ不満を感じていればこそ、 全力をつくして全体主義を無理矢理に信仰しようとしなければならない。.…
…信仰に反対して信仰し、証拠を無視して信頼し、注意ぶかい暗論のあとで自発的に喝来するように不断に自己を説得することの、知的緊張は非常に大きいので、…彼らは矛盾したものが一つになるような一種の『ディーモン』を、超人であり魔術者であるものを発明しなければならない。彼においては邪は正であり、偽は真であり、幻想は現実であり、そして空虚が実体であるような、この『ディーモン』たることが即ち「指導者」の任務である。」

 

ハロウェル(1943=1953)『イデオロギーとしての自由主義の没落』創元社 p.p218-222

 

 

 

 

ネットは個人間の意見の相違を強調する?

 

最近ネット(Twitter)で、おおむねの意見の方向性は一致している(と思われる。普段のツイートからして)のに、ある問題に対しての些細な意見の相違で、互いをきつく言い合っている(さらに自らのフォロワーに相手への攻撃を遠回しにけしかけていた)のを目にした。

研究者同士の学問上の論争ならまだしも、そうでない一般の個人が、互いに実際に面識のない相手に対してたった140字でそのような「論争」をするのは、当人たちからすれば重要な見解の相違なのかもしれないが、外部の立場から見ると当人自身も、そのフォロワーも必要以上の消耗をしているように思えた。

僕の観測範囲では、このようなネットの光景は頻繁に目にする。そしてそのたびに、かつての「仲間」は袂を分かつ。その断絶はときに、最初から「仲間」とは認識されていない相手とのそれよりも深くなっているように思われる。

なるほど確かに、自由で多様な議論の中からより良い「真理」が生まれるとする知識論からすれば、この事態は歓迎すべきかもしれない。しかし、ネットはある点では、必要以上に個人間の意見の相違を強調し、もともとあった分断をより強く、さらには生まれるはずのなかったそれを作り出しているように僕には思われる。

その要因はとりあえず二つほど挙げられる。

一つは、ネットが非常に大きな公開性を持つことに起因する。場や相手に合わせて、多少の意見の方向付けや強調点を変えることは、意識しているかしていないかによらず、ついついやってしまうことだが、ネットでは基本的に発言は全世界に公開されているので、そのような「小細工」はできない。よって、例えばTwitterであればフォロワーの7割が賛同するつぶやきであっても、残りの3割は異なる見解を持っている可能性がある。そしてその3割はフォローしていた相手との意見の相違を、140字という大いに誤解を生みだしがちな文字数で(文字というメディアのみによるコミュニケーションという状況そのものも、見解の相違を強調するように思われる)、まざまざと見せつけられることになる。

二つ目は、ネットの匿名性である。面と向かっての「リアル」でのコミュニケ―ション、それも特に相手との交流が継続的に存在しているような場合には、多少の意見の相違はめったに表面化しない。したとしても、日常のコミュニケーションには通常影響しない。もし万一、その相違が何らかの大きな衝突につながることがあっても、その後は互いに落としどころを見つけ、再びいつもの日常に戻る。たとえばそれは、夫婦などの家族関係において顕著である。

ところがネットではそうではない。継続的な面と向かっての交流など、後にも先にもないのだから、意見の相違を相手に率直に伝えるデメリットがあまりない。少なくとも、心理的抵抗は格段に少ない。さらに言えば、妥協点を探るメリットもない。そういうわけで、目に入る140字以内の文字列に対して、私たちはたくさんの反対意見を、こちらも140字以内で送ることができるし、それを言いっぱなしにできる。

さて、このような状況で、個人はどのような行動をとるだろうか。Twitterの例で言えば、フォローするアカウントをその都度調整(意見の異なることが判明したアカウントのフォローを逐一外す)するという行動がまずは考えられる。

しかし、完全に意見の一致する自分以外の人格など存在しないのだから、この籠城作戦は徒労に終わる。だがその事実を分かっていても、毎日「発見」される差異を前に、それをやめることはできない。そうしてあるアカウントとそのフォロワーは、よりその意見の方向性を「純化」させていく。一方で、その外側にいる集団とは交流も少なくなり、見解の相違も(感覚的に)大きくなっていく。

このような流れの中で、ネット上のいたるところで分断が生まれるとどのような事態が引き起こされるのか。

テーマは異なるが哲学者のJ.S.ミルの著作の中で、異なった言語を持つ異なった諸民族間での代議制統治は可能かという疑問に対しての見解に、はっとさせられる部分があったので引用して、終わりにしたいと思う。(引用文中の「地方」を「あるアカウントとそのフォロワー」などというように適宜読み替えてみるとよみやすい)

 

同一の書物・新聞・パンフレット・演説が、それらの地方に達しない。ある地方は、他の地方でどのような世論、どのような論議が行われているかを知らない。同一の事件、同一の行為、同一の統治組織が、違ったやり方でそれぞれの地方に影響を及ぼすのであり、おのおのは、共通の裁決者である国家から加えられる侵害よりも、他の諸民族からの侵害をおそれている。かれら相互の反感は、概して、政府への嫌悪よりもはるかに強い。かれらのうちどれか一つが、共通の支配者の政策によってしいたげられていると感じれば、そのことは別のものに、その政策への支持を決定させるのに十分なのである。すべてがしいたげられているとしても、共同して抵抗するさいに他の忠誠を頼みにできるとはだれも思っていない。どのひとつの力も、単独で抵抗するのには十分ではなく、おのおのは、他をおしのけて政府の愛顧をえることが、自己の利益を最大限にはかることになると当然考えるだろう。*1 J.S.ミル (1861=1997)水田 洋訳『代議制統治論』岩波文庫 p.377

 

 

 

*1:この引用の意図は世論の分断が引き起こす諸問題を挙げることにあり、(異なる言語を持つ)多様な民族が同一政府の統治下に入り諸制度を維持できるかという疑問について、何か回答を与える意味合いはない。なおミル自身は、それが「ほとんど」不可能と述べているが今日の世界を見るとその指摘が正しかったとは言えないように思われる。

「抑圧された不満の表出に対する怒り」の最も古い指摘?

 

僕は数年前、このブログで「デモはなぜ冷めるのか」という疑問について考えたことがあります。

当時は保育園の待機児童問題への不満を赤裸々に語った匿名の投稿が話題になっていた時期であり、当初はネット上でもその投稿に賛同を示すものが多かったように思います。しかしその不満がデモという形をとり、国会でも議論されるようになると、「冷める」という感情を示す人が多くなりました。

僕はこの変化の原因を、いくつかの原因に分けて考えてみましたが()、その際非常に参考になったのがアンカテさんの「冷たい怒り」という記事でした。

 

essa.hatenablog.com

 

「冷たい怒り」の詳細については上の記事を見てもらうことにして、この現象について近い指摘をした記述を、イギリスの哲学者J.S.ミルの著作からも確認できました。

時代も国も異なりますが、それだけに、これがある意味人間の普遍的な傾向の一つなのではないかと思われたので、とりあえず備忘録として紹介したいと思います。

 

それらの害悪を匡正できないものとして容認する習慣は、きわめて長いあいだ持続していたので、多くの人びとはそれらの害悪を、できるならば喜んで匡正したいことがらだと考える能力を、失ってしまったように思われる。

治療ができないという絶望から、その病気の否認にいたるまでの距離は、あまりにもしばしば、ほんの一歩にすぎないのであり、このことから、匡正が提案されることを、まるでその提案者が、害悪からの解放を提案するのではなくて害悪をつくりだしているかのように、嫌悪する気持ちが出てくる。

国民は、それらの害悪に全く慣れてしまっているので、それらについて不満をのべることを、まちがってはいないにしても不合理なことであるかのように感じる。*1

 

問題は本当に人間にこのような傾向があったとして、だから(課題が解決できなくても)しょうがないとするのではなく、これを自覚しつつ、だからこそ物事を変えるためには一層の努力が必要であると考え、行動していくことができるかどうかなのだと、(月並みながら)思います。

 

 

*1:J.S.ミル (1861=1997)水田 洋訳『代議制統治論』岩波文庫 p.179(太字は筆者による)

消費主義は専制を防げない、ではどうすればよいか

 

民主主義国家において参政権を持つ私たちは、(方法さえ間違わなければ)ある程度の正しい情報を入手し、そこから国家の政策の変更、自らの代理人の決定を、平和裏に、選挙やその他意思表示の手段を通じて、自らの自由な判断で何度も行うことができる。

しかし、政府からもたらされる情報が改ざんされたり、意思表示の手段が法的に制限されたりすると、私たちは、政治的判断の基準を失い、合法的かつ平和裏に政策や政府の変更を行うことができなくなる。

ところで民主主義国家においては、多数派の意志には理論上なんの制約も課されていない。自らの自由を奪う立法、さらには憲法の制定も可能である。

したがってもし多数派が、これらの自由を放棄し、政府にすべてをゆだねるという政治的判断をするのならば、合法的に「専制国家」が誕生することになる。

その場合、その最初の「すべてをゆだねる」という判断は、確かに各個人の自由な選択ではあるが、それ以降、国民は、自らの意志では(暴力的な革命に訴えるか、君主の慈悲以外では)元の状態には戻ることができない。

つまり民主主義国家においては、専制」という全く民主主義的ではない、非常に不可逆性の高い体制へとつながるルートが常に開かれているということになる。

それでも民主主義が専制を防ぐ防波堤だと一般的に考えられているのは、多数派が自らの自由を大幅に制限することに同意する可能性は、通常とても低いという事実に依る。

しかし歴史上、この想定を覆した例はいくつか存在している。

そこで仮に私たちが、これからもこの自由を行使したいと考えているのならば、特定の人物や党派の意志に、自らの運命をすべてゆだねるという決断をする勇気を持ち合わせていないのならば、この民主主義体制を守るために、重要な政治的判断をしなければならないときがある。

そこで投票という行為について考えてみる。

投票の際、スーパーやネットショッピングなどのように、商品を選ぶような感覚で投票先を決める人も多いように思われる。

例えば、自分の考えにあった政策や主張を掲げる政党や、実行力のありそうな候補者に投票する、という判断がまずは考えられる。また、そのようなお目当ての「商品」がなければその中でも「マシ」なものを選んだり、そもそも何も買わない(誰にも投票しない)という選択肢もありうる。

このような投票における消費主義は、「平和な時代」にはあまり問題にはならない。しかし閉塞した時代状況になると、人々の自由を奪い、民主主義的土台を切り崩すような主張を掲げる勢力が出現することがある。

残念ながら消費主義はこのような場面に対処できない。

例えばこのような勢力は、私たちの選好にあう、魅力的な政策を展開するかもしれない。また、ほかの集団よりも一見すると実行力があるように映るかもしれない。

したがって消費主義的観点からは彼らに投票するという判断が導かれうる。もちろんここでも投票をしないという方向性もある。が、それは結局、状況を追認することと同義である。

なぜ投票という政治的判断において、消費主義は専制を防げないのか。

それは消費主義が、政治権力の網羅性と至高性を見落とすからだと考えられる。

政治権力はスーパーで買う商品とは異なり、購買した個人の生活をよりよくする一要素にとどまることはない。それは、個人のライフスタイル、時々の選択、つまりは生活全般に対して多大な影響を与え、制限し、それを方向づける。

究極的には、政治権力とは、個人の生命に直接作用し、それを奪うことができる権力である。

そして個人は、それから逃れることはできない。「商品」を買った後、それを消費してしまえばそれで終わりというわけでもなければ、使わなければ(無関心で)いいというわけでもない。たとえ当該商品を買わなかった人々も、多数派がそれを選択したのであれば、その決定に応じざるをえない(影響は同じように受ける

また多数派の支持を得た専制的な政治権力は、そもそも公正な「商品」の競争を阻害するかもしれない。

つまり、自らの「成分表示」やそれの効能について虚偽の情報を提示したり、他の商品が商品棚に並ぶことを禁止したりする可能性があるということだ。

こうしたことは、一般的な競争市場であれば、それを監督する第三者の機関によって法的に抑制され、発覚すれば罰は免れない。

ところが、政治権力においてはそうしたルール(法)を決めるのが多数者の意志によって代表された「商品」自身なのだから、(専制においては)そうしたことは期待しえない。

市場では各商品が(一応)公正で平等なルールのもと自らの魅力を発信し、商品棚に一様に並んで消費者の前に提示されている。

ところが政治の世界は違う。強大な専制権力のもとでは、むしろ彼らが消費者(国民)に対して主導権を握る。

消費主義はこれら重大な点を見逃す。よって専制の誕生を防げない。

したがって、正しい情報のもと、自らの判断で平和裏に政策や代表の変更を行うという機構を維持したいのならば、スーパーやネットショッピングでするように、多様な商品の中から自らの選好を満たす商品を購買する自由をこれからも享受したいのであれば、わたしたちはこの機構を破壊するような主張や立法を行う勢力を立法機関から排除しなければならない

消費主義はこれまでの議論で示した通りその方法を教えてはくれない。よって別の思考でもって対応する必要がある。

具体的に言えば、私たちは、投票の際に、こうした民主的諸制度や政治的自由を否定する政党(商品)とは異なる、数的に競合する他の政党(商品)に、投票をしなければならない(購入しなければならない)

たとえ支持する政党がなく、さらにいえば、その競合する政党の提示するマニフェストが、自分が選好するものとは異なるものであったとしても。

これは、そうした危険な政党に対する世論の支持が高くなるにつれてその緊急性は高くなる。

上記の通り、絶対に避けなければならないのは、専制、つまり正しい開かれた情報と公正なルールのもとで、自由に自らの代表や政策を変更、交代できなくなる事態である。よって切迫した状況では、よりそうした苦渋の決断が迫られる。

そしてその際、専制的な傾向を示す人物や勢力を見分けることは、自らの望む政策を展開する候補者を探すよりも、はるかに簡単で、(結果の面で)確実である

なぜならば、私たちは彼らが発するいくつかの重要なキーワード(例えば「自由」)や、異なる意見や政治上の論敵に対する態度や言動に、多少の注意を向けていればよいからだ。

そして、自らの国家の政治体制が幸運にも専制的でない状態であるうちは、私たちは時々の政治上の判断のミスを、何度でも修正することができるのである。

 

【補記】

もちろんそもそも民衆に政治的自由など必要ないとする考えもあるかもしれないが、この議論はそのような考えを変えるために書かれたものではない。

集団主義的な利己主義について

 

前の記事でも取り上げたポパーは、プラトンを批判する文脈で、次のような分類を提示します。

(A)個人主義 は (A)´集団主義に対する。

(B)利己主義 は (B)´利他主義に対する。

 ポパーは、こうした分類から、プラトンが(本来違うものであるはずの)個人主義と利己主義を同一視して、その反映として、集団主義利他主義をセットにすることで、個人主義の価値を不当に貶め、集団主義を擁護したと批判しています。

さて、これだけでは話が分かりづらいので、もう少し詳細に考えてみます。

まず、ポパーの分類からすると、このカテゴリーの内部では人間は次の4つのタイプに分けることができるといえそうです(もちろん傾向としてそうであるというだけですが、ここでは議論上、単純化して話を進めます)。

 

個人主義的利己主義 ②個人主義利他主義

集団主義的利己主義 ④集団主義利他主義

 

①に関しては言うまでもないでしょう。「自らが属する共同体のことにはなんら関心なく、己の利益のみを追求する」という文脈での個人主義批判はプラトンの時代から現代に至るまで、様々な場面で見ることができます。

次にとばして④ですが、これもなじみ深いものでしょう。「集団に自己を依拠させ、自集団に対する愛着から、そうした共同体のため、あるいはその成員のために自らを犠牲にする」という人物像はあらゆるフィクションで、(肯定的に)登場してきます。

次は②の個人主義利他主義です。プラトンはこのタイプを無視することで個人主義を攻撃したわけですが、こうした種類の人物を想像することはそう難しくはありません。

貧困や紛争に苦しむ人々は世界中に存在しているわけですが、②に属するタイプの人間は、そのような人々の国籍、民族、思想信条にかかわりなく心を痛め、彼らの手助けをしたいと感じることでしょう。なぜなら、どのようなバックグラウンドを持っていようとも、苦しみにあえぐのは同じ人間であり、彼ら一人一人にはそれぞれの幸福を実現するための権利を持っているのだと、②の人々は考えるからです。

もちろんこれは国内での問題についても言えます。国内に貧困や差別などに苦しむ人々がいれば、②に属する人々は、仮にこのような問題が自らの生活とは直接関係がなくとも、問題を解決しようと努めるでしょう(理路は違えど結果の面でいえば、この点で②個人主義利他主義は④集団主義利他主義と重なります)。

注意したいのが②に属する人々であっても国内問題と国外問題では寄せる関心に多少の差はみられるだろうということです。地理や言語などの問題から、私たちの想像力の範囲は残念ながら限られていますし、それは彼らとて例外ではありません。

ただ、彼らの住む国が民主主義国家であれば、自らが主権者として下した政治的判断の結果である法律や政治体制、社会システムが生み出す種々の問題に対して、他国のそれよりは責任を持つということはある意味で当然という考え方もできるように思います。

最後に③集団主義的利己主義です。これは簡潔に言えば「自らの属する集団の利益のみを考える」というタイプです。これも、容易に想像することができる考え方でしょう。

しかしこの思考様式には見逃せないある前提、ー「集団の利益と自らのそれが連動している」ーが存在しています。集団の規模が大きいケース、例えば国家などの場合、そうした「連動」が発生しない状況は簡単に起こりえます。

よって③において普通想定される集団の規模は、階級であったり、特定の職種だったりするわけですが、時代状況によってはこうした「中間集団」の利益を代弁する組織が弱いか、あるいは存在しないために集団の利益を促進する機会がないという場面が出てきます。

また、集団そのものや個人の動きが流動的になっているために、そのような中間集団にあまり帰属意識を持たない、あるいは利益を考えても意味がないという事態も生じてくるでしょう。

こうした状況で③集団主義的利己主義はどうなるのか。これが僕の問題関心ですが、まず一番には、①個人主義的利己主義に思考様式を変えるというルートが存在するでしょう。

「属する集団の利益の向上を介して自分も~」という道が険しいのならば、己の力を信じて努力するほかありません。この道もやはり相当に困難なものですが、前者よりも回りくどくなくある意味わかりやすいといえます。

しかし言うまでもなく、自らの力で道を切り開くということは誰にでもできることではありません。そこで考えられるもう一つのルートが、③集団主義的利己主義にとどまったままで、その方法と認識を変えるというものです。

まず方法についてですが、③本来の、集団の利益から個人のそれも高める、という流れではなく、利己主義的な思考をまず土台に据え、その後集団を考えるというものになります。つまり、己の利益のために集団を使うという道具的な思考でもって集団を考えるということです。

このため、時々で選ばれる集団は状況によって様々です。 己の利益を最大化する集団が数ある選択肢の中から選ばれます。

そして認識についてですが、「利益」とこれまで書いてきましたが、ここでは利益とは、もはや普通考えられるような、実体のあるものではありません。ここでいう利益とは、自らが属すると決めた集団がそれによって自分に与える高揚感、自己肯定感のことを指しています。

仮にこの思考様式を⑤ネオ集団主義的利己主義と呼んでみるとして、これがもたらす思考の結果を例を挙げて考えてみると次のようになります。

例えば国内の貧困問題に関してですが、 ⑤のような考えの傾向を持つ人々にとっては、こうした問題は非常に目障りとなります。というのも、そうした社会問題を生んでいることそれ自体が、自らの依拠する共同体(国家)の価値を貶め、結果的に自らのそれも削いでしまうと彼らは感じるからです。

よって彼等は、貧困問題をなかったことにしたり、あるいは自己責任だとしてそれを処理します。問題に対して無関心なだけの①個人主義的利己主義とはその点が異なります(もちろん①の人々も自己責任論を唱えることがありますが、その理路が⑤とは違います)。

次に国家間や民族間において生じる問題や論争についてですが、⑤の人々は、自らの属する国家や民族よりもより弱い(と彼らが考えている)相手に対するときは高圧的にふるまう一方で、そうとは考えられない場合は、そうした問題をなかったことにしたり、実際は仲間であるとふるまったり、それも難しいときは、認識上において、自らが相手と同じ集団に属すると判断します。

このように、⑤に属する人々は、集団内部の問題はそれをないものとして処理し、集団間の様々な対立の中では、状況に合わせて、一方よりも(権力や腕力、その他種々のカテゴリーでの「ヒエラルキー」において)より強いと思われる集団に自己を依拠させ常に強者としてふるまうことで、自己の安定を図ります。

この⑤ネオ集団主義的利己主義の厄介なのは、外形的には、集団の利益や価値について熱く語っているという部分において、通常の③集団主義的利己主義、さらには④集団主義利他主義と見分けがつかない点にあります(特に国家間の対立の際それは顕著です)。

しかし、実際には彼らは、自らの集団やその成員の利益や価値、運命について本質的な関心があるわけではなく、それが認識上において自己に何をもたらすかという間接的な関心しか持っていません。

しかもそのような集団すらも、結局、認識上では交換可能な対象であるのです。

ここまで書いてきて、この⑤ネオ集団主義的利己主義は、言ってしまえばいわゆる権威主義なのではないかと感じていますが、それは措くとして、自らの利益の表現をする適切な手段が、個人、集団問わず奪われたとき、あるいは手段としてあっても難しいものであったとき、このような思考が生まれるのではないかと思われます。

 

 参考

 K.R.ポパー(1944=1980)小河原誠 他訳『開かれた社会とその敵 第一部 プラトンの呪文』p.p108‐114 未来社