ペンギンの飛び方

本を読んだりニュースを見たりして考えたことを、自由に書いていきたいと思います。

憎悪と恐怖の世界

 

この前の金曜日、僕が働く職場の上司(30代)が、業務時間中に、近隣諸国の国民全体ををひどく差別するような発言をしました。

これまでも、その人物はその種の発言(すべてが現在インターネットで流布しているもの)を何度も繰り返してきましたが、今回のそれは、あまりに度が過ぎていたため(少なくとも僕はそう感じた)、僕は驚きと悲しみでよくわからない気持ちになりながら、自分の経験から、こういう考えもあるんじゃないかというようなことを口から絞り出し、その会話は終わりました。

その後の業務終了後は、いつものように他愛もない話題で談笑して、別れ、帰宅しました。

ところで、僕の職種は、一般的にほかの多くの職種よりも、高い倫理観を持つべき、とされていて、そのような目で世間からも見られています。また、現在の僕の職場は職員の人数はとても少ないですが、冒頭の上司以外にも、このような発言をする人物が複数います。いずれの人たちも、家庭を持っていて、職務に対しても真面目で、2年目の僕に対しての接し方もいたって普通です。

ところが、彼らがときおり話す内容には、耳を疑うようなものがいくつもあります。「今日はいい天気ですね」くらいの感覚で発せられるそれらの言葉はどれも、僕に向けられたものではありません。しかしそういった発言が飛び出すたび、僕はどうしていいかわからなくなります。

うんうんと相槌をうって同意することは、僕にはできません。でもだからといって、発言に対してはっきりと異を唱えるも、業務上、まだまだ教えを請わなければならない立場である自分と、相手とのこれからを考えれば、それもできません。

 

「社会」に出るってこういうことなのでしょうか?

昔から、このような発言は職場でもどこでも、「社会人の世界」では見られるものだったのでしょうか?

生まれてからこれまで、普段の会話では聞くことのなかった種の差別、憎悪にまみれた発言を、社会人として、働き始めてからたくさん聞いてきました。

僕は以前このブログで、インターネットは「リアル」の社会に対し、「舞台裏」としての機能を担っていて、そこでは「表舞台」では言えない「本音」ーこれには差別的な考えも含まれるーが書き込まれていて、その意味で「本音の領域」である、というような考えを書きました。

その記事では、僕は職場を「表舞台」の例として挙げています。ところが最近の職場の人たちの発言を聞くたびに、それは間違っていたのではないかという思いが強くなります。

記事を書いた当時、僕は大学生でしたが、そのとき表舞台では言えない本音だと考えていた様々な言葉を、職場で、何度も聞いてきたからです。

 

哲学者のラッセルは、彼がケンブリッジ大学に入ったとき、知性や明晰な思考が評価される世界に自分が置かれていると気づき、感動を覚えたと語っています。

僕は職場が、必ずしもそのような場所でなければならないとは考えません。でも働く前は、そういう方向とは別に、高い倫理観と、責任感と、公平な視点をもって全体のために仕事に取り組む、そういう姿勢がよいとされるこの仕事を、自分もこれから携わるということに、一種の期待のようなものを感じていました。

この期待は、ある面ではかなえられています。職務に対しての姿勢や、後輩に対しての指導、あるいは仕事上の「客」への対応は、彼らにも、尊敬する部分が多くあるからです。

でも、根本のところで、おかしいのです。

僕が彼らの意図する攻撃の対象ではないことを当然視して、彼らはこれからも、差別と憎悪のにまみれた話題をぼくに振ってくるでしょう。

他集団に向けられる彼らの残酷さ、それを知ってしまった僕は、本当ならもう彼らと一緒に仕事をしたくはありません。でも、僕はこのことで、仕事を辞めたいと考えるほど悩んでいるわけでも、正直ないのです。率直に言うならそれは、現状、僕自身にこれらの発言の矛先が向けられてはいないからです。

もちろん、僕のような態度は、状況を悪化させるだけであるとは、僕自身もわかっています。

でも、世の中全体が、そうした発言を許容する雰囲気になっているのならば、つまり、職場が表舞台ではなく、実は本音の領域である裏舞台だったなどということではなく、実際のところ、あの種の考えが、もはや隠すべきものとしてみられなくなっているのだとすれば、あのような会話に遭遇した一人の人間に、できることはほとんどないようにも感じてしまうのです。

下記に続くナチ時代を過ごした言語学者の告白が、最近、僕の頭の片隅に常にあります。

 

「気がついてみると、自分の住んでいる世界はー自分の国と自分の国民はーかつて自分が生れた世界とは似ても似つかぬものとなっている。いろいろな形はそっくりそのままあるんです。家々も、店も、仕事も、食事の時間も、訪問客も、音楽会も、映画も、休日も…。けれども、精神はすっかり変っている。にもかかわらず精神をかたちと同視する誤りを生涯ずっと続けてきているから、それには気付かない。いまや自分の住んでいるのは憎悪と恐怖の世界だ。しかも憎悪し恐怖する国民は、自分では憎悪し恐怖していることさえ知らないのです。誰も彼もが変って行く場合には誰も変っていないのです」*1

 

 

*1:丸山眞男『現代における人間と政治』杉田敦編 2010「丸山眞男コレクション」平凡社ライブラリー p.405 ミルトン・メイヤー『彼等は自由だと思っていた』より

ある種の寄付の呼びかけに対する違和感

 

「あの時○○人は私たちにたくさんの寄付をしてくれた。だから今度は私たち××人が、その恩返しをする番だ」

このような言説を、(特定の)諸外国で災害が起きた際に見聞きしたこと、みなさんはあるでしょうか。

この種の寄付の呼びかけには、時に「義務」を迫るようなものも存在しますが、僕はそういったものを見聞きするたびに、いつもどこか心にひっかかるものがありました。が、それがなぜなのかはよくわかりませんでした。

ところが最近この違和感は、僕の中の「道徳的個人主義」からくるものだと気づき少し納得したというか、自分の価値観の、ひとつの方向性を発見して、少し驚いています。

 

以下にこのような言説に対する、道徳的個人主義の観点から見た違和感を、いくつか挙げてみたいと思います。

なお、今回の記述は、だから上記のような寄付の呼び掛けはやめるべきだ、と主張するものでも、また、そうした結論を導くものでもないないということを、はじめに断っておきます。

さらに、最終的な寄付の多寡を重視する結果主義、功利主義を視野にいれたものでもないことも同時に断っておきます(もちろん、これらの原理からの批判は可能だとは思いますが…)

では、いくつか挙げてみます。

 

1.その寄付は○○人として行われたのか

まず一つ目は、これです。 外国で起きた災害に対して寄付するという行為は、寄付する側の国籍という社会的アイデンティティが、直接的に作用した結果なのでしょうか?寄付した人間は、自らの国籍を念頭において、○○人という属性を根拠として、○○人として寄付を決断したのでしょうか?

同じく例えば国内で災害が起きた際、それに寄付する国民は多いと思われますが、それは国籍を意識した結果、「同じ国民だから」という理由でなされるものなのでしょうか。

むしろ、国籍という条件が「結果的」にもたらす、社会的、心理的、地理的距離、または実際に被害にあっている家族、親類がいるという事実、あるいはその災害に関する情報の膨大さ、そして寄付の窓口の多さ、しやすさが影響しているのではないでしょうか。

これは、中東におけるテロと、欧米先進国でのテロに対しての、人々の関心度の違いを生む構造と少し似ています。

人が自分以外の人々の苦難に心を痛め、その悲しみを共感できるのかは、国籍そのものというよりも、国籍やその他の諸条件が結果的にもたらす、上記のような要因によって、自己とその集団の近接性が本人にとってどう感じられるかにかかっています。

寄付という行為は、そのような意味で感情的なものです。したがって寄付する際、「○○人として」、というある種の義務論的な要素は多くの場合入ってきません。そのような属性は、結果的に寄付という行為を生じさせるかもしれませんが、その作用は上記のように、間接的なものにとどまるように思われるのです。

したがって個人的には、外国からの寄付を国籍で括り、それを「恩返し」の根拠として持ち出すのは、寄付した人々を単純化する、寄付を受けとる側の理屈だと感じます。

 

 2.その寄付は××人として受け取ったのか

1.と同じ理由で、この疑問も生まれます。その寄付は、○○人が、災害が起き、困難な状況にあるのが××人であるということを直接の根拠として、行ったものなのでしょうか?

そして寄付を受け取る側は、災害に苦しむ人としてではなく、××人として、それを受け取るのでしょうか。

1.の議論からすると、このような考えも同様にしっくりこないような感じがします。

 

 3.××人として寄付の恩返しする義務はあるのか

1.2.の議論から必然的に導かれるのが、この疑問です。○○人が、自らの国籍と、災害の起きたのが××という国であるということを直接の根拠として寄付をしたのでなければ、××人の方も、××人として恩返しする義務はないということになります。

そもそも寄付という行為の考え方からすると、義務的な寄付の呼びかけは少しずれているような感じがするのですが、社会における「返報性」(『影響力の武器』参照)の原理からすると、過去に受け取った寄付に対しての義務論的な考え方は多くの人が持っているものだと思われます(僕も持っています)。

しかしそれでも、これまでの議論から考えると、たまたま○○人が多くの寄付をしたからといって、寄付を受けた被災者の住む××という国の××人全員が、その国籍を根拠として、○○人という抽象的な属性に対して、「恩返し」という義務を背負うわけではありません。

返報性の原理からの、このような国籍という属性でくくるような寄付の呼びかけには、間に大きな飛躍があるように思われるのです。

 

 4.○○人以外の国はどうなるのか

結果主義的な話は視野に入れないと最初に断っておいてあれですが、この種の寄付の呼びかけと、それに伴う寄付の考え方がもたらすと思われることを一つだけ書いておきます。

それは、○○人以外、それも例えば貧困国の人々はどうなるのか、という問題です。

というのも、このような寄付の呼びかけには、多くの場合、過去の災害時の○○人からの寄付金の具体的な額が、恩返しという義務の発生要因として使われているからです。

この論理によって寄付が行われるとするならば、そもそも多くの寄付ができない経済的に苦しい人々が多く住む国やそこに住む人々は、いつまでたっても手厚い「恩返し」が期待できないということになります。

しかし実際には、一番寄付を必要としているのは、そのような国の人々なのです。

もちろん、こうした論理で寄付が行われていなくとも、寄付が近接性という感情的な要因で行われているとするならば、この種の問題は生じえます。

しかし、寄付金の多寡を国籍という属性で括り、そして同時にその属性によって受け取るならば、このような隘路から抜け出すことは非常に困難であると思われるのです。

 

 

 

 

「サプライズ家事」の論理と心理

 

先日、母から次のような話を聞きました。

 

ある晩、仕事が長引き、母がいつもより1時間ほど夜遅く家に帰ってくると、すでに帰宅していた父が(どちらもフルタイムの共働きです)、台所にあった水に浸された1.5合のお米(母は帰宅後の早炊きを習慣にしています)を炊飯器に入れセットしており、すでにご飯は炊きあがっていた。

しかし普段から家事をほとんど全くしない父は、その米が何合なのか分からず、2.5合だと判断して、その目盛りに合わせ水をいれていたため、炊きあがった米は非常に水っぽくなっていた(何とかして食べた)。

この件の数日前にもほとんど同じことがあり、その時は母が炊飯開始直後に帰宅したため事なきを得ていたが、その時にも米の量は1.5合だということは伝えていた。

しかし連絡や相談もないままに再び、父は2.5合の炊飯をしてしまい、帰宅した母に意気揚々と炊飯をした旨を報告した父は、母の指摘と炊きあがったご飯の出来にしょげていた。

 

この話を聞いて僕は学生時代のことを思い出していました。

僕の父は、上述のとおり普段ほとんど家事をしませんでしたが、散発的、また突発的に、あるいは「気まぐれ」に、母に相談や連絡をせず、難しい(これは言葉通りの意味だけでなく、本人の経験から考えて「本人にとって難しいと思われていること」も含む)家事に挑戦する=「サプライズ家事」をすることがありました。

炊飯器の例のようにこの挑戦は失敗に終わってしまうことも少なくなかったのですが、挑戦を終えた父はいつも母のリアクションを待ち遠しくしているのでした。

学生時代のあの光景は今も続いているのだと少し懐かしくなってしまった僕でしたが、同時に、「なぜ父は同じ失敗を繰り返すのだろう。なぜ役割として家事を少しでも引き受けないのだろう」という疑問も浮かんできました。

もちろんこれは今回が初めてというわけではなく、振り返れば一緒に暮らしていた学生時代から多少なりともこの疑問が頭に浮かぶこともありました。が、その時はこれについて深く考察することはありませんでした。

今回はこの「なぜ父は家事を役割として引き受けないのか」「なぜサプライズ家事で終わってしまうのか」という疑問について、家事をする「動機」という観点から、これらの手短に考えてみたいと思います。

 

まず家事を自らの役割として引き受ける場合を考えてみます。

習慣となった後は別にして、一般にあまり家事をしない夫(ここでは、おそらく実態として多いと思われる夫とします)がそれらを自らのものとして引き受けていく過程では、「家族の一員として家事には自らも参画する義務がある」というような思いが、(意識として感じられるかは別にして)多少なりとも行動の動機となっているように思われます。

もちろん、そのような「高尚」なものではなくても、「同じ家族として負担を押し付けるわけにはいかない」とか、もっと単純に「妻の助けになりたい」などの気持ちも、家事を自らのタスクとして認識する積極的な動機となるでしょう。

このような動機に根差した家事の実践は、突発的になることはほとんどなく、配分された家事を自らの役割のものとするために、まず簡単なことから始め、遂次妻に教わりながら、スキルを上達させ次第に習慣化させていくはずです。

なぜなら、そうでなければ長期的な視点から見て妻の負担を軽減させることができず、「妻の助けになる」ことや、家事を通しての「家族の一員としての参画」の実現からは程遠いものとなってしまうからです。

 

次に「サプライズ家事」をする場合を考えてみます。

これまでの考察をふまえれば、「サプライズ家事」には、上記の「家事を自らの役割として引き受ける」場合とは異なる動機があるように推察されます。

ではどのような動機が、夫を突発的で気まぐれな家事に向かわせているのでしょうか。

その一つには、単純ですが「褒められたい」という気持ちがあると僕は考えます。

ここでは、家事という行為は、義務論的なものでも、妻(の人格)を目的にするものでもありません。あくまで、家事を通して自らが妻に褒められることが目的なのです。

「サプライズ家事」の特徴に「突発性」とか「気まぐれさ」というものがありましたが、家事の目的が褒められることにあるとすれば、これらの特徴は夫の怠惰の結果なのではありません。

むしろ、「褒められる」という目的のための手段だと考えられます。

というのも、ある家事が習慣として、その人の役割として一度認識されてしまえば、もはやその家事をするたびに、褒められるということはなくなってしまうからです。

やって当たり前、やれて当たり前になれば、日々多くの家事をこなす妻が、一つの家事をするごとに毎日、逐一、賞賛され感謝されることもないのと同じように、日常の光景として処理されることになります。

つまりここでは、「気まぐれさ」は、家事という行為の新鮮さを保つための技法として使われているのです。

「事前の相談や連絡の不存在」や、「難しい家事への挑戦」も同じです。家事に際してのサプライズ感が高ければ高いほど、その分賞賛の度合いは高くなるという想定がそこでは働いていると考えられます。

 もちろん、「褒められたい」という気持ちが、家事を自らの役割として引き受けている場合に、一切ないというわけではないと思われます。

重要なのはその程度で、それがあまりに強すぎるときに「サプライズ家事」の生まれる可能性が高くなるのだと僕は考えています。

 

イニエスタのようにボールを扱うにはどうすればよいか 

 

少し煽ったようなタイトルになってしまいましたが、今回の記事では僕の5年間ほどの彼のプレーの観察と、実践(草サッカーではありますが…)によって到達した、一定の結論を述べてみたいと思います。

 

スペイン代表でFCバルセロナ所属のMFアンドレス・イニエスタのボールの持ち方には1つの大きな特徴があります。

この特徴がイニエスタのほぼ全てのプレーの土台となっていて、あの唯一無二で華麗な動きを可能にしています。

この特徴は、私たちがサッカーについていわゆる「テクニック(技術)」と言うときの、ボールコントロールの正確さに関連したものではありません。

よって彼のボールの持ち方は、それを意識して正確に実践すれば、誰にでも身につけることができますし、そうすればすぐに、イニエスタ程とまでは言えないまでも、飛躍的なプレーの質の向上が見込まれます(ただ、後に述べますが、この持ち方にはいくつかの欠点も存在しています)。

これから論じていくことを先取りし簡潔に述べれば、彼のボールの持ち方は、サッカーという競技の性質上、「原理的に上手い」と言うことができるでしょう。

イニエスタがあのような優雅なプレーが出来るのは、ボールコントロールが異常に正確だからでも、類まれなひらめきがあるからでも、あるいは、足が速いからなのでもありません。(最後の一つは措くとして、前の二つは確かにイニエスタイニエスタたらしめる要素の一つではあります。が、決定的なものではありません)

秘密は彼のボールの持ち方にあるのです。

(これから述べていくことはイニエスタのプレーの観察から得られた仮説と、僕自身の実践のフィードバック・ループの繰り返しで得られた僕なりの結論です。よって議論の中には、僕の主観的な経験や身体感覚から得られた知見も含まれています。僕自身は残念ながら人体の専門家ではありませんので、純粋に客観的で科学的な議論ではないことをご了承ください。)

 
ボールに対して体を斜めに45度開く

最初に、イニエスタ以外の大多数のサッカー選手のボールの持ち方を見てみます。

まず両足を肩幅ほどに開きます。(この幅については状況や選手に応じて変動します)

そしてボールを両足の間の15~30cm前方(この長さも状況や選手によって多少変動します)、それも右足寄りに置きます。(これ以降、特に断りが無い場合利き足は右足を想定しています)

これが普通の一般的なサッカー選手のボールも持ち方、あるいはボールの置き所です。

では次にイニエスタについて見てみます。

足を肩幅程度に開き、ボールを両足の間の約15cm前方の右足寄りに置くまでは、他の選手と変わりありません。しかしこの後が大きく違います。

イニエスタはこの後、体を右に45度開きます。すると足はそれにつられて、左足はボールの横15~20cm、前方5~10cmに位置することになります。

右足に関しては位置だけでなく足(つま先)の向きすらも変わっています。右足は、ボールの10~35cm後方(この距離は状況によって様々です)にあります。そして今にもインサイドキックかインフロントキックをしそうな状態です。つまり、足は75度~85度ほど右へ向きを変えているのです。

この一連の変化はいったい何を意味しているのでしょうか。この謎を解くには、サッカーにおいて、効率的で隙の無いボールの動かし方とはどういうものなのかについて考える必要があります。

 

「横移動」の合理性

100mや50m、いや10mでもいいですが、これらの距離を最も早いタイムで移動するにはどのような体の動かし方が適切でしょうか?

言うまでも無くそれは、足を前方に交互に動かし体の面に対し垂直に、要するに、「縦方向」に体を運ぶことです。

つまり、私たちがオリンピックの100m走で見るような、あの走り方ーそれはウサイン・ボルトでも運動会の徒競走でも変わりなくーが人体の移動におけるトップスピードを実現するには適した方法なのです。

しかし、この体の動かし方は、自分の足元にあるボールを猛然と奪おうとする人間が11人もいる、縦105m横68mの白線の中を、それを保持したまま移動するための手段としては決して適切なものとはいえません。

このような状況では、100mの距離を移動する早さではなく、せいぜい4,5m程の、それも多くの場合は数十センチほどの移動を繰り返したり、進行方向を変えたりする際の素早さや、体重移動のスムーズさが重要になります。もちろんこの際、足元のボールの存在を忘れてはいけません。

ここで登場するのが「横移動」です。僕はここからサッカーにおける横移動の合理性を検討するつもりですが、その前に上述でも触れたサッカー選手の一般的なボールの持ち方において、「縦方向」に移動するときの欠点を見てみたいと思います。

 まず、上述の持ち方では、ボールを体の面に対して垂直に、つまり縦に運ぶことは自然な成り行きです。なぜなら、足の前方にボールがあり、また、足はボールの方向を向いているので、体を前に進ませようと思えば自然にボールが足のつま先(や、甲の近辺)に当たるからです。

(サッカーにおいてはボールと体は前に運ばなければならないことを忘れてはいけません。ボールを取られないことは確かに重要ですが、この競技ではボールを相手ゴールのネットに入れるのが最終的な目的です)

さらにこれは前述の人体を最も早く移動させる方法とも一緒です。ですからこの動きは、一見非常に自然で魅力的なものに見えます。ところが実際にはこの方法は、多くの欠点を抱えています。

まず第一に、このやり方ではボールをタッチした後、ボールが体から大きく離れてしまいます。というのもこの移動方法は、右足でボールを前方に「蹴った」後、それを追いかけるという手順を基本にしているからです。

第二に、タッチ後のボールの動きと、その後の体の移動に連動性がありません。ボールの進む方向に体も移動させるには、ボールを蹴った右足の後ろに残った左足で強く踏ん張り地面を蹴る必要があります。タッチした右足にそのまま重心を移動させることはできないのです。

サッカーにおいては単純なミスを除けば、ボールを取られるときは基本的に2つの隙間を相手に突かれています。

1つは空間的な隙間。これはボールと体の距離です。

2つ目は時間的な隙間。ようするにラグです。これの例としては、ボールタッチを決断して体を動かし実際にボールを触るまでのラグや、タッチしてからの体の移動までのラグがあります。

体の前方に置いたボールをそのまま縦に蹴って運ぶ、というより追いかけるという方法は、このような隙間をいたるところに生み出すのです。

もちろん、それでもこれが、一定以上の距離を最も速いタイムでボールと体を一緒に移動させる方法であることには変わりありません。したがって、誰もいないピッチを端から端までドリブルするタイムを競うならこのやり方が理にかなっています。しかし、それはサッカーではありませんし、単にスピードを競えばいいのなら、ドリブルよりパスの方がボールの移動はよっぽど速いのです。

次に、横移動の利点の検討に移ります。

両足を肩幅に開いた後、右足の左真横にボールを置き、そのままインサイドでボールタッチし、左方向に体を移動(スライド)させてみましょう。そしてこれを数回繰り返してみてください。

横移動、つまり体の面に対して平行の移動においては、まずボールとタッチした足が離れることがありません。そして、タッチ後のボールの移動とそれを追いかけるための体重移動がほとんどラグなく行われていることに気づくはずです。つまり、ボールタッチとボールの転がり、体の移動が総てスムーズに連動しているのです。極端に言えば、体がボールを追いかけるのではなく、体の動きにボールが付いていく感じです。

これは、前述のボールを取られる際の2つの隙間が存在していないことを示しています。そしてもちろん、右方向への移動、つまりアウトサイドでのボールタッチにおいてもこの点は変わりありません。

僕は横移動がなぜこのようにスムーズなボール運びと体重移動を可能にしているのは説明できません。ただ、反復「縦」跳びと、反復「横」跳びでは、後者の方が速く出来ることが関係しているのではないかと感じています。

トップスピードに乗るには縦移動ですが、短い間隔を進行方向を変えながら反復するような動きは横移動の方が断然速い。サッカーで重要なのは後者のような動きの素早さやスムーズさであるとは、これまでに述べてきた通りです。

 

ここまで、(体の面に対して垂直という意味で)縦移動の欠点と、(体の面に対して平行という意味で)横移動の利点を説明してきました。

ですが、どこからともなく次のような声が聞こえてきそうです。

 

「縦に移動することの欠点は分かった。確かにボールを取られない為には横移動の方が合理的なのだろう。しかし、いつどんなときでも横移動するのか?サッカーは最終的には相手のゴールネットにボールを入れるのが目的だ。そのためにはボールを前に運ばなければならない。君は選手に、ベンチに体を向けながら、ゴールめがけてカニ歩きをしろというのか?」

 

この批判はある種の本質を突いています。

サッカーはボールを前に運ばなければならないスポーツです。ボールを保持する時間が長いチームが勝利というルールはなく、あくまで相手ゴールネットにボールを入れた回数で勝敗が決まります。

したがっていつかは危険を冒しても縦移動をしなくてはいけないのではないか。なぜなら、相手の守備網をかいくぐり、素早くボールを前に運び、シュートを打つ必要があるからです。その際には、横移動はひどく適さないように見えます。

イニエスタは、この横移動が本来的に持つ致命的な欠陥を、体を右に45度開くことで解決しました。

つまり、カニ歩きをすることなく、それなりの速度を保ったまま、横移動のときと同じか、それに近い体重移動の仕方で、ボールを前に運ぶことを可能にしたのです。

詳しく見ていきます。

体を右に45度開いた状態で、ボールを前に運ぼうとするとどうなるでしょうか?

実際にやってみると分かりますが、右足によるボールタッチの前に、左足がさらに一歩前に踏み込んでしまうことが分かると思います。

すると、左足は先ほどまであった場所ではなく、ボールの左前方(左斜め前)30cmほどの場所に移動します。当然この動きによって体の「開き」はより大きいものになります。つまり、45度から60~80度ほど、さらに右に開くのです。

踏み込んだ左足につられるように、次に右足でボールを前に運びます。右足は最初から右に大きく開いていますから、このタッチはインサイドで行われることになります。

するとどうでしょうか。結局このボールタッチとそれに続く体の動きは、体の開きと両足の位置関係や向きからして、インサイドによる左方向への横移動と、ほとんど変わらないものとなるのです。

そして、前段階の左足の踏み込みのあとは、実はアウトサイドでの後ろ方向(体との関係では右方向)への横移動も可能になります。つまり、体を45度開いた姿勢からの一連の動きによって、単純な横移動だけでなく、前後への移動の際にも、横移動に近いスムーズなボール運びが可能になるのです。

さらに、左足を踏み込む距離や、体を45度開く際の両足の微妙な位置の変化によって、あるいは、そもそも最初にどこを「0度」にするかによって、実際には全ての方向への移動を横移動か、それに近い体重移動の仕方で行うことが出来ます。

つまり、イニエスタのボールの持ち方は、横移動の利点を常に、最大限活用する為に、前後の移動に弱いという横移動の欠点を克服し、擬似的な横移動に瞬時に移ることを可能にするためのものだったのです。

 

「45度」の欠点

もちろん、イニエスタの持ち方も、万能ではありません。いくつかの欠点があります。主なものを、以下に示します。

①ドリブル時のトップスピードが遅くなる

②左足をあまり使えなくなる

②強いシュートが打ちづらくなる

 

1つ目は、基本的に無視できるものです。サッカーにおいてボールを保持した状態では、単純なトップスピードよりも、狭い範囲内での動きのスムーズさの方が、ほとんどの場面において重要だからです。

2つ目は、欠点として挙げましたが、特徴といっても差し支えないものです。この持ち方においては、左足はあまりボールを触る役割を持つことはありません。体重移動の先鞭をつけたり、ボールキープ時のブロック役として活躍することになります。つまり、左右の足で分業体制になるわけです。(完全な両利きの場合はともかく、ボールコントロールの正確さの観点で見れば、ボールを触るのはできるだけ利き足で行うことが望ましいと僕は思います)

最後に3つ目は、ある程度重大なものです。というのも、軸足である左足がボールより前にある状態では、ボールが体の懐に入りすぎてしまい(そもそもこれがこの持ち方の特徴です)、強いインパクトでボールをミートすることができません。というより、そもそもインステップでボールを蹴ること自体がいくらか難しくなります。

もちろん、だからといってこの持ち方がFWには適さないというわけではありません。シュートでボールにミートするその瞬間まで、45度体を開くことの利点を活用することが出来るからです。(とはいえ、例えば多少の「使い分け」は必要になるかもしれません)

 

最後に、イニエスタ以外でこのような持ち方をすることがある、あるいは近い持ち方をする選手を以下にあげておきます。

シャビ、ブスケッツ、イスコ、アザールモドリッチ、アルトゥール(グレミオ

なお日本では、フロンターレ大島僚太選手です。

 

 

 

 

「共同体の罪」に対する責任と「歴史修正主義」

 

小池都知事の最近の言動や、8月に放送されたNHKスペシャルの影響もあってか、過去の歴史と、現在を生きる私たちとの関係、あるいはそれに対して私たちが持つ責任などの議論に再び注目が集まっています。

今回の記事ではこのような議論に関連して、「共同体の(過去の)罪」に対して私たちは責任を負う必要があるのか(そもそも負うことが「できる」のか)についてのサンデルの見解を見たうえで、昨今メディアでもよく耳にするいわゆる「歴史修正主義」について、考察してみたいと思います。

 

共同体の過去の罪、つまり「先祖の罪」を現在の世代が償うべきか、あるいはそのような義務を生じさせる道徳的責任を我々が持つのかどうかという問題は、非常に根深いものです。

サンデルは著書『これからの「正義」の話をしようーいまを生き延びるための哲学ー』で、こうした責任の存在や、それに基づいて歴史上の罪に対して謝罪することを、原理的に否定するある主張を紹介しています。

それは、「歴史上の不正について謝罪する義務があるのは、あるいはそのような立場をとることができるのは、実際にその不正に関わった人間だけである。したがって自分が生まれる前の共同体の罪に対して、道徳的責任を持つことも、もちろん謝罪する必要もない」という主張です。

サンデルはこうした原理的反対論を退けるのは容易ではないと指摘します。なぜならこの反対論は、「道徳的個人主義という、現代政治や法律の基盤となっているような、魅力的な考え方に因っているからです。

 

道徳的個人主義の原理は…自由であるとは何を意味するかを主張しているのだ。道徳的個人主義者にとって自由であるとは、自らの意志で背負った責務のみを引き受けることである。他人に対して義務があるとすれば、何らかの同意ー暗黙裡であれ公然とであれ、自分がなした選択、約束、協定ーに基づく義務である。

…この考え方は、われわれは道徳行為者として自由で独立した自己であり、従前の道徳的束縛から解き放たれ、みずからの目的をみずから選ぶことができるという前提に立っている。習慣でも伝統でも受け継がれた地位でもなく、一人一人の自由な選択が、われわれを拘束する唯一の道徳的責務の源である

         (マイケル・サンデル 2011年『これからの「正義」の話をしようーいまを生き延びるための哲学ー』p335 ハヤカワ文庫)

 

こうした考え方は、明らかに近代化とともに進行し、また近代化そのものを形作ってきました。身分や伝統、地縁・血縁などの封建的なしがらみから抜け出し、自分の運命を自分で選択し切り拓いていく。こうした自由観は現代では多くの人が共有しています。もちろんこうした自由は、選択する個人に、それに伴う「責任」も、―時に耐えがたいほどの重さで―引き受けさせようとします。しかしだからといって例えば江戸時代のように、生まれた家によって人生がほぼ完全に決まってしまう時代に戻りたいと考える人は少ないでしょう。

このようにしてみると、共同体の過去の罪に対しての原理的反対論は、意外にも、私たちの日常感覚や直観に根ざしたものであると言うことができるように思われます。近代化を推進してきた自由主義リベラリズム)の論理を、純粋な形で敷衍させれば、「連帯責任も、前の世代が犯した歴史的不正の道徳的重荷を背負う義務も、ほとんど入る余地がない」のです。*1

 

サンデルは、こうした原理的反対論の有効性を認めたうえで、この主張の土台となる自由観には欠陥があると指摘します。そして、リベラリズムのいわゆる(しがらみから解き放たれ自由に選択できるという)「負荷なき自己」(unencumbered self)という自己観に対して、共同体の文化や伝統、歴史の中に「位置付けられた」あるいは「埋め込まれた」存在として、「負荷ある自己」(encumbered self)という概念を提起します。

サンデルはこの「負荷ある自己」という前提を基に、共同体の過去の歴史的不正に対しての現在世代の、「世代を超えた集団としてのアイデンティティから生じる道徳的責務」の存在を認めるのです。

 

リベラル派の自由の構想の弱点は、その魅力と表裏一体だ。自分自身を自由で独立した自己として理解し、みずから選ばなかった道徳的束縛にはとらわれないと考えるなら、われわれが一般に認め、重んじてさえいる一連の道徳的・政治的責務の意義がわからなくなる。そうした責務には、連帯と忠誠の責務、歴史的記憶と信仰が含まれる。それらはわれわれのアイデンティティを形づくるコミュニティと伝統から生まれた道徳的要求だ。自分は重荷を負った自己であり、みずから望まない道徳的要求を受け入れる存在であると考えないかぎり、われわれの道徳的・政治的経験のそうした側面を理解するのは難しい。

                              (同上 p346)

 

このような過去の歴史と今の私たちとの関係に関する議論は、戦争責任などのような国家的な問題だけにみられるものではありません。

例えば、最近は下火ですが、数年前中国人観光客のいわゆる「爆買い」がメディアを賑わせたとき、彼らの観光地でのマナーが大々的にメディアで取り上げられました。

雑誌や新聞、テレビやインターネットでも、中国人観光客のマナーは悪いという言説があふれ、それを国民性や民族性と結びつけるような議論もありました。

そんなおり、そのような風潮を戒めるようなものとして、次のような言説も目立ち始めました。それは「日本人も、バブルのころは海外観光地でのマナーはとても悪かった。現地の人からの評判は悪く、顰蹙を買っていた。」というものです。

このような物言いは、明らかにサンデルの言う「負荷ある自己」という自己観を下敷きにしています。

中国人観光客のマナーについて悪く言う人が、過去に海外の観光地で同じことをしていたなら別ですが、もしそうでないのなら「日本人だって」という指摘は、どれほど妥当性のあるものなのでしょうか。少なくとも、バブル以降に生を受けた日本人や、その時期小さい子供だった世代には理不尽な物言いであると、「道徳的個人主義者」は言うでしょう。*2

(とは言え、この例での「日本人も」という応答は、共同体の過去の罪に対する「責任」に関してのものというよりも、マナーの悪さを国籍とか民族と結び付けがちな当時の言説に対して、相対的なものの見方を提示して、そのような差別的な推論を防ぐために提示されたものであると考えられます。しかしそれでもこの「日本人も」という指摘が、日本という共同体への帰属を基にしたものであるということには変わりありません。)

 

ここまで、共同体の過去の不正に対する道徳的責任に関してのいくつかの議論を見てきました。これらをふまえた上でここからようやく、「歴史修正主義」について考えてみたいと思います。

まず「歴史修正主義」は、共同体の過去の不正に対する道徳的責任を拒否するという点では、上記の自由主義(「負荷なき自己」)をバックボーンとした道徳的個人主義者と同じです。

しかしその「拒否」という結論までの理路は異なります。

道徳的個人主義者は既にみたように、共同体の歴史上の不正について謝罪する責務があるのは、その不正に関わったものだけであるとする立場から、現在世代の道徳的責任の存在を否定するのでした。

一方「歴史修正主義」者は、そのような立場をとりません。彼らが現在世代の道徳的責任を拒否するのは、共同体の過去の罪に自身が関わっていないからではなく、そのような罪がそもそも存在しなかったと、彼らが考えているからです。

罪がもとよりなければ、それを償う義務は初めから存在しません。したがって彼らにとってみれば、現代世代だけではなくそのような「不正」を行ったとされる時代を過ごした先祖にも、責任はないのです。

こうした理路の違いからは、この二者の自己観に大きな相違があることが推察されます。

というのも、道徳的個人主義の考え方からすれば、過去の罪に対する現在世代の責任の拒否はしても、長年の学問的研究によって定説となっている歴史までも(明らかな嘘まで取り入れて)修正し、その罪の存在自体を否定する動機がないからです。

むしろ、道徳的個人主義者の立場からすれば、自己は共同体から独立しているのだから、共同体の過去の罪を認めることに、おそらく躊躇はありません。罪を認めたうえで、それでも自分に責任はないと主張することができます。

このように考えると歴史修正主義」者は、道徳的個人主義の前提となっている「負荷なき自己」という自己観ではなく、逆に「負荷ある自己」という自己観を持っているということが予想されます。

道徳的責任だけでなく、罪の存在までも否定するのは、共同体に「埋め込まれすぎている」、あるいは「位置付けられすぎている」*3がゆえに、その共同体の歴史が個人に課す責任、重荷(burden)に耐えられないからです。*4

しかし、もし仮に「歴史修正主義」者が共同体に「埋め込まれすぎている」ほど「負荷ある自己」なら、共同体の過去の不正も、責任をもって受け入れる方向もあるのではないでしょうか。

サンデルはまさにその論理で先祖の罪に対する道徳的責任の存在を認めているのです。同じ「負荷ある自己」という前提から、なぜ異なる結論が導かれるのでしょうか。

ここでそれについて詳しく論じることはしないですが、こうしたことの背景には、共同体への帰属という社会的アイデンティティの、自尊心高揚のための道具的利用があるのではないか、と僕は感じています。

ようするに、共同体の文化や歴史などが、その共同体の一員としての自分に名誉と誇りを与えるものである場合のみ、彼らはそれを受け入れるのです。しかしそうではない場合、つまり「不名誉」なものと感じられるときには彼らはそれを拒絶します。

それはおそらく、彼らが共同体を、サンデルをはじめとしたコミュニタリアンのように、自己を解釈し、発見するための場として、ある種運命的にとらえているわけではないからだと思われます。つまり彼らは共同体を、自身の名誉や自尊心を高めるための装置のようなものに過ぎないと考えているのです。*5

 

 

 

*1:とは言え現代のリベラリズムは、このような連帯責任や過去の罪に対する道徳的責任などを完全に否定するわけではありません。国民統合の手段として、共同体への帰属に根差したアイデンティティを形成することの重大性は認識しており、その中には歴史意識や相互義務の意識の共有も含まれます(リベラル・ナショナリズム)。そして何より、そうした歴史上の不正の多くはリベラリズムの考える「正義」と、全く相容れるものではないことがほとんどです(人種差別等)。したがってこのような罪を無視したり、あるいはなかったことにしたりすることは、リベラリズムの立場からは許すことができないものなのです。

*2:このような議論は、いわゆる「パクリ」問題についても言えます。

*3:このことを「国家と自分を一体視している」とか、「国籍に対する社会的アイデンティティが強い」などというふうに言えるかと思います。

*4:このような重荷に耐えられるかそうでないかは、他には経済状況や、社会関係資本など、さまざまな要素が絡んでいるのではないかと僕は感じています。

*5:これは、過去の記事で取り上げた「内集団バイアス」と「黒い羊効果」の議論にも関係していると思われます。