ペンギンの飛び方

本を読んだりニュースを見たりして考えたことを、自由に書いていきたいと思います。

『ハクソーリッジ』と『小さな抵抗』

 

※映画のストーリーに関しての記述があります。

 

先日、映画『ハクソーリッジ』を見てきました。

沖縄戦において敬虔なキリスト教徒としての立場から戦場においても人を殺さず、それどころか武器すら持たずに衛生兵として数多くの兵士の命を救った、実話を基にした人物の話です。

僕は、この映画のあらすじを見た時から、以前読んだある本のことを思い浮かべていました。それが、タイトルにある『歌集 小さな抵抗』です。

この本の著者、渡部良三は、アジア太平洋戦争末期に学徒出陣によって中国戦線に送られ、そこで「度胸付け」として中国人捕虜を銃剣で突く刺突訓練に参加させられます。

彼はそこでキリスト者として捕虜殺害を拒否し、そのため凄惨なリンチを受けますが、それを耐えながら、戦場の体験を歌に詠み続けました。

『小さな抵抗』はその歌と、捕虜殺害を含めた戦場での体験が講演記録として収められている本で、戦場での道徳的な決断を、信仰という背景から下したという点から、『ハクソーリッジ』とは多くの共通点があるのです。

そういうことで僕は漠然と、『ハクソーリッジ』について、『小さな抵抗』での話と似たようなものが展開されるのだろうと予想していました。

ところが、僕の予想は裏切られました。

実際には『ハクソーリッジ』と『小さな抵抗』には、「汝、殺すなかれ」という戒律を実行に移すまでの回路に、大きな違いがあったのです。

具体的に言えば、『小さな抵抗』の渡部良三は、純粋にキリスト教の信仰に根差した「不殺」の決断でしたが、主人公デズモンド・ドスのそれは、信仰心からというよりもむしろ、カント主義的なものを僕は感じたのです。

 

まずデズモンド・ドスは、「日本の真珠湾攻撃に衝撃を受け」、「地元の仲間が皆志願しているから」という、当時実にありふれていたであろう動機から、自らの意思で陸軍に入隊します。

そこで彼は信仰心から、「人を殺さない」「武器を持たない」という決断をし、それを実行しますが、仲間からのリンチや軍法会議など度重なる困難に悩まされます。

葛藤を続けるデズモンドに、婚約者のドロシーは「プライドの問題なのではないか」と問いかけます。彼はそこで「そうかもしれない」「でもこれを破ったら、自分が自分じゃなくなる」と返すのです。

 これより前に、上官から「神の声が聞こえるのか?」と問われ「聞こえません。聞こえるという人はインチキです」と答えるシーンもあったのですが、それとドロシーとの問答を見て、僕の考えは確信に変わりました。

その考えとは、(映画の脚色の影響かは別にして)主人公デズモンドは、厚い信仰心からというよりも(信仰心はきっかけに過ぎず)、自らの意志の格率-「人を殺さない」「武器を持たない」-に従い自律的に行動する、カント主義的な道徳観を基に、これらの難しい決断を実行に移していたのではないか、ということです。

 

カントが定式化した道徳法則「定言命法」では、人間は、自らで定めた法則(格率)に義務の形で従う場合のみ、理性的な「人格」としての自由な存在となることができるとしています。

というのもカントは、本能や衝動を契機として、条件が常に伴う「仮言命法」(XのためにYする)によって行動するのであれば、人間は本能の奴隷に過ぎず、その意味で他律的で自由を持たない動物と変わらないと考えていたからです。

主人公デズモンドの「これを破ったら、自分が自分じゃなくなる」というセリフからは、戒律がいつの間にかアイデンティティとして自らの内に入り込み、それを遵守することが自分を自分たらしめている、つまり一個の人格として成り立たせているのだという確信が(その具体的な理路の自覚の有無は抜きにしても)垣間見えます。

捕虜の殺害を拒否した渡部良三はその点、刺突訓練で次が自分の番だと予感し、祈る中で神の声(「汝、キリストを着よ。すべてキリストに依らざるは罪なり。虐殺を拒め、生命を賭けよ!」)を聞き、それが最終的な決断の後押しとなるのです。

 

僕は『ハクソーリッジ』を見て、「人を殺せ」と命令される場面において、「殺さない」という道徳的な行動に至るには実に様々な回路があるのだということに改めて気づかされました。それがたとえ、信仰心によるものだとしても、その内実には、多くの要素が絡んでいるのです。

もちろん、極限状態において人間を道徳的な行動に導く宗教の力というのも見過ごせません。デズモンドと渡部の二者の根底には、やはりキリスト教への帰依がありました。

ところで、政治哲学者のハンナ・アーレントは、「汝、殺すべし」と命令されていたナチス体制下において、ユダヤ人を助けたドイツ人の行動について、道徳や良心の観点から考察しています。

彼女によれば、これらの人々は、必ずしも宗教的な人ではなく(それどころかアレントは、宗教的な信念はあまり役に立たなかったとも述べています)、さらには命令や法に従うか反抗するかについて葛藤もなく、ただ「わたしにはできない、死んだほうがましだ。もしもわたしがそんなことをしたら、生きる意味がなくなってしまう」と考える人々であったそうです。

このような分析からすると、デズモンドと渡部は、法を無視しユダヤ人を助けたドイツ人とは別の道徳観を持っていたようにも思えます。というのも、両者ともまず宗教がその道徳的な判断の基礎となっていますし、決断までの葛藤も非常に激しいものだったからです(特に渡部は刺突拒否の宣言のその直前までどうするか悩んでいます)。

とは言え、アーレントはまた別の重大な指摘もしています。それは、ユダヤ人を助けた人々は、「孤独」の中で「自己との間で無言の対話を続ける『思考』」を続け、立ち止まって考え、判断することを止めなかった者たちである、という指摘です。

『ハクソーリッジ』では、主人公デズモンドが、孤独に聖書を読むシーンが多くあります。そして、『小さな抵抗』の渡部良三は、厳しい軍隊生活の中で700首の歌を詠みました。このような創作活動は、多くの場合、自分と向き合う孤独な時間がなければ成しえないことです。

その意味で両者に共通して言えるのは、戦場での軍隊生活という凝集性の非常に高い共同体の中で、周囲とのコミュニケーションを断絶し、独りで自分と向き合うことのできる私的な時間・空間を持ち得ていた、ということではないでしょうか。

先ほど道徳的な決断までには様々な回路がある、と述べましたが、集団の支配的な規範が「汝、殺すべし」と命じるような極限の状況では、この「孤独」とは、そのような規範に立ち向かう勇気を生み出す必須の要素なのかもしれません。

 

 

 

 参考文献

渡部良三 2011年『歌集 小さな抵抗――殺戮を拒んだ日本兵岩波現代文庫

ハンナ・アレント 2016年『責任と判断』ちくま学芸文庫

 

「日本スゴイ」の時代比較

 

過去の記事では、近年のいわゆる「日本スゴイ」言説を、社会心理学(的な)観点から論じてみました。

それによれば、「日本スゴイ」という言説には、「内集団バイアス」と「黒い羊効果」という一見矛盾するようなロジックが内包されていたのでした。

詳しいことは当該記事を見てもらうとして、今回の記事では「日本スゴイ」の時代比較をー特に戦前から近年のそれの2地点に絞ってー試みたいと思います。

僕がこのようなことをやってみたいと考えたのは、今現在みられる「日本スゴイ」に対する論評や評価の中に、戦前行われていたそれと今のそれを同一視するものが多くみられたからです。

僕はこのような同一視に、何か心にひっかるものがありました。

というのも、「日本スゴイ」という帰結は一緒でも、そこへ向かう回路には全く異なるものが潜んでいるのではないかと感じていたからです。

今回は僕の心のとっかかりを、前回と同じく社会心理学的な観点から文章に起こしてみたいと思います。

 
2つの視点の導入ー「差異化」と「同一化」ー

 前回の記事では、「日本スゴイ」を論じるうえで、社会的アイデンティティの理論を用いましたが、今回の記事も土台は一緒です。

しかし、前回出た視点だけでは戦前と現在のそれを比較することは難しいと僕は考えました。そこで、「差異化」「同一化」という視点を新たに加えます。

 

まず「差異化」ですが、これは内集団と外集団の差異を故意に、そして時に根拠もなく大げさに作り出すことを指します。

この現象は、「内集団バイアス」の性質上、必然的に起こると考えられるものです。

なぜなら、そもそも集団間の「差異」がなければ、内集団と外集団の比較の中で内集団を肯定的に認知し、その成員である自らの自尊心を高揚させるというプロセスが成立しないからです。

したがって集団間の性質が似ているほど、「差異化」への欲求は高まると考えられます。

次に「同一化」ですが、これは自(内)集団を、より(潜在的に)優位だと考えられている集団と同一視することを指します。

この現象は、内集団が相対的に劣位な状況に置かれ、所属集団から得られるアイデンティティが否定的な場合に起こる現象です。

内集団への評価が低い場合、それによって成員の自尊心を高めることは難しくなります。そこで、より優位な地位を持ち、そこへの仲間入りを果たすべきだと考えられる集団(準拠集団)と自らを同一視することで、肯定的なアイデンティティを得ることの必要性が高まるわけです。

 

ところで、この 「差異化」「同一化」は、互いに矛盾するものではありません。異なる対象を相手に、同時進行で行われることもあり得ます。

例を挙げます。

僕は東北地方の出身ですが、何らかの理由、例えば「田舎である」、などの理由で東北地方の出身であることや、その中のある県で生まれ育ったことに負の感情を抱いているとします。

この場合、僕が出身地から得られる社会的アイデンティティは否定的で、当然そこから得られる自尊心も低いものにとどまります。

僕のこの感情は、東北地方全体の性質(≒「田舎」)から生じるものであるので、このようなケースにおいては、東北地方という大きな集団から自らを離脱させるような(認知を与える)論理を構築しなければなりません。

したがってここで差異化は、自分の出身県と東北地方の他の県の差異を作り出す方向に、そして同一化は、その出身県を他の優位な地方(この例でいえば関東地方)と同化させる方向に向きます。

それにより「自分の県は東北の他の県が田舎な一方で、都会が多く、そのことは関東地方の人々も認めていて、彼らは我々を仲間だと思っている」、というような物語を作り上げるのです。

 

導入が長くなりましたが、これまでの議論を踏まえたうえで、ここから本題の「日本スゴイ」の時代比較をしてみたいと思います。

 
「戦争」と同一化の不存在

まず最初に戦前の「日本スゴイ」を考えてみたいと思いますが、それには考慮しなければならない重要な前提があります。

それは「戦争」、それも特に太平洋戦争と、それに付随する日本と欧米列強の対立です。僕はこの特異な時代状況が、明らかに当時の「日本スゴイ」にも影響を与えていると感じます。

まず差異化についてみてみます。

僕は早川タダノリさんの『「日本すごい」のディストピア』(青弓社)をはじめ、その他著作をいくつか読みましたが、この時代、もちろん例外はあれど差異化の対象にされている外集団は、多くが米英をはじめとした欧米列強です(独・伊はここでは措きます)。

戦時中のスローガン「鬼畜米英」が示すように、集団間の比較のため差異化され、貶めれられ、内集団である日本の価値向上の踏み台にされる外集団は、多くが欧米なのです。

しかしこの事態は、それまでの文明開化以降の日本を特徴づける言葉脱亜入欧とは全く一線を画しているように思えます。

明治期以降、その制度や文化を取り入れ、同一化の対象だった欧米が、なぜ差異化の対象になったのでしょうか。

そこに戦争と、それに前後する国家間の対立が関係しています。

一般的に言って、ある集団の別集団への同一化は、そもそも同一化の可能性がなければ、つまり、準拠集団への仲間入りを果たすことができると希望が持てる程度の、集団間の流動性がなければ、その実現は難しくなります。

あまりに差異のある、そして仲間であると承認される可能性もない外集団を、自集団と同一化することは非常に困難が伴うのです。

したがって戦争というこの時代特有の状況は、明治以降の日本の欧米との同一視の流れを、一時的に停止させていたと考えられるのです。

続けて同一化です

上の早川さんのものを始め、いくつかの文献を見る限り、この時代、同一化のための特定の外集団はありません。「日本スゴイ」の論拠は、多くの場合、日本人自らの手で構築した理論が基になっています。

つまり、「なぜ自分たちが優れているのか」を、他集団への同一化によらず、「自分たちの言葉と論理」で説明しているのです。

これには、かつて同一化の対象だった欧米が差異化の対象になったことや、植民地主義のこの時代に、同一化することで内集団の価値が向上すると考えられる、欧米以外の他集団が存在しなかったことが理由として考えられます。

しかし最も大きいのは、戦争遂行の正当化のためであると僕は考えます。

欧米列強の覇権を崩し、今まさに八紘一宇のもと世界の統治者とならんとするという目的のためには、その論拠を、日本以外の他集団との同一化による内集団の価値の向上に頼ることはできません。それでは論拠が弱すぎます。

このような壮大な目的においては、日本が唯一無二の絶対的な価値を持った優秀な国家であり民族である、と説かなくては手段の正当化は果たされないのです。

 

これまでの議論を踏まえれば、この時代の「日本スゴイ」は、戦争という特異な状況のもと出現した、特殊なものだったと言うことができます。

つまり、近年の「日本スゴイ」に関して参照される戦前のそれは、明治期以降の大きな時代の流れの中では、特定の時代背景をもとに、限られた期間の間にのみ有効であった、一種の突然変異であったと考えられるのです。

 
「同一化」の復活と切実な「差異化」

ここから時代を現代へと移します。まず差異化についてです。

端的に言って、近年の差異化の対象は、主に近隣のアジア諸国となっています。

それも特に、日本と文化的にも歴史的にも交流が深く、民族や人種上の形質も近い中国や韓国の二国に、「内集団バイアス」における自集団の価値向上のための外集団が設定されています。

では、かつての差異化の対象であった、英米をはじめとした欧米諸国はどうなっているのでしょうか。

僕が見る限り、これらの国々は現在では、明治期の「脱亜入欧」のように、再び「同一化」の対象となっています。

テレビや雑誌など、さまざまなメディアで展開されている「日本スゴイ」の言説の中で大きな比重を占めるのものに、外国人、それも特に欧米の人々が日本を褒めるというモチーフがあります。

この「褒める-褒められる」の関係は、既に挙げた東北地方の例の「自分の県は都会が多く、そのことは関東地方の人々も認めていて、彼らは我々を仲間だと思っている」、というものと非常によく似ています。

ここで展開されるのは、劣位にある集団が、より優位な集団、準拠集団から承認(≒褒められる)され、そのことをもって優位な集団との同一化を図るという構造です。

ここにおいては、もはや戦前のように内集団の優秀性を、自らが作り出した言葉と論理で説明する、というようなことはありませんし、そのような労力も無駄です。

戦争という極端な状況でもなければ、八紘一宇のような大きな目的もないからです。

ただひたすら、他のアジア諸国と自国との差異を作り出しながら、そのような国々とは「本質的に」異なる日本が、その優越性を欧米諸国に承認されるという言説を生産させ続ければ、日本の価値は向上(したように認知され)、その成員の自尊心も高揚するのです。

この論理を徹底させた書籍が、今年出版されたケント・ギルバート儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇 』(講談社+α新書)だと僕は考えます。

アメリカ人の彼が、日本と中国、韓国の差異を強調し、これら二国にはない日本の価値を「褒める」という構図が繰り返されるこの書籍は、内集団バイアスにおける「差異化」と「同一化」のプロセスを一冊の中で完結させた、ある意味で非常に合理的な書物なのです。

 

これまでの議論からすれば、現在の「日本スゴイ」は、差異化と同一化という観点からは、明治期以降の大きな流れに戻ったという一面もあるように思われます。

戦前のある時期に、人種や民族、文化的にも明らかに異なる欧米の国々を、わざわざ差異化の対象とすることは、そもそも不自然なことだったのです。

自集団に近い集団を差異化のための比較対象とし、準拠集団と自らを同一化させる…。こちらのほうが自然だし、準拠集団を欠くために同一化の対象を見失うこともありません。

よって自分たちの優秀性を説く論理を自分たちの言葉で調達しない分、客観的で公正であるようにも感じます。戦前の「偏狭」「独りよがり」の「日本スゴイ」は、結局、日本を破滅的な戦争に追いやったではないか…。

しかし、僕はこのような考えに(完全には)賛同できません。

なぜなら前述の通り、「差異化」やそれに伴う差別は、集団間の差異が小さくなり、ほとんど見えなくなるまさにその時に、より苛烈なものになるからです。

そもそも他のアジア諸国と日本を差異化し、欧米と自らを同一化することが明治以降の大きな流れなら、なぜ今になって「日本スゴイ」という言説がメディアを大きく賑わせ、それに注目が集まっているのでしょうか。

それはおそらく、他のアジア諸国が、経済発展し文化も欧化することで、日本とこれらの国々との差異が、自明のものではなくなったからだと考えられます。

社会的アイデンティティの観点から見れば、日本の優越性は、他のアジア諸国との差異の大きさと、それと表裏の欧米への近接性(という物語)によって担保されていましが、そのような構造は現在、大きく崩れています。

したがって現在の差異化は、戦前のそれより、ある意味では、切実なものとなっていると考えられるのです。

 

 

訪ねてまわったどこの土地でも、自己確認の対象として敵対するグループ同士、似ていれば似ているほどナショナリズムは暴力的だ。両者の違いが大きければ大きいほど対立は暴力を呼ぶというのが、理にかなった説明ではあるだろう。だが、少なくとも部外者には、セルビア人とクロアチア人の区別がつかぬのと同様に、アルスター人は見た感じも話しぶりもアイルランド人と変わらない。ところがその類似こそが、彼らをして、われらは対極にある者同士、と定義させてしまうのだ。*1

  

このようなアイデンティティの危機は、男らしさ、コミュニティ、国籍、宗教のいずれが焦点化されるにしても、アイデンティティを強化し明確化する要求を喚起する。文化のグローバル化の時代にあって、かつては異なっていた文化が国内的にも国際的にも似てきたということを考えると、これは困難になり、また切迫性を帯びるようになっている。

…差異は能動的に構築されなければならないものである。フロイトの用語でいえば、「小異にこだわるナルシシズム」は激しく強烈な紛争状態を生み出す。伝統は創造され、差異は即興的につくりだされる。*2

 

一般に信じられているところとは違い、ユダヤ人が集団虐殺の犠牲になったのは、彼らが同化の努力をしたにもかかわらず、虐殺政策から逃れられなかったのではない。そうではなくて、この同化の努力自体に対する反動として虐殺が行われたのだ。ユダヤ人が非ユダヤ化すればするほど、彼らはより恐怖の対象にされた。彼らの出身がばれないようになればなるほど、反ユダヤ主義の世論が彼らに投げかける呪いは激しさを増した。非ユダヤ化して他の住民の中に溶け込んでゆくことが、これほど激しい憎悪につながるなどと、啓蒙主義に育まれたユダヤ人にどうして想像できただろうか。彼らの敵が攻撃するのは、彼らの中に残存するユダヤ性だとばかり彼らは思いこんでいた。しかし実は非ユダヤ人というこの新しい身分こそが、まさに敵の恐怖と怒りを煽ったのだった。*3

 

 

参考文献

M.A.ホッグ/D.アブラムス 吉森護、野村泰代訳 1995年『社会的アイデンティティ理論ー新しい社会心理学体系化のための一般理論ー』 北大路書房

垂澤由美子/広瀬幸雄「集団成員の流動性が劣位集団における内集団共同行為と成員のアイデンティティに及ぼす影響」『社会心理学研究 第22巻第1号』pp.12-18 2006年

 

*1:マイケル・イグナティエフ 幸田 敦子訳 1996年『民族はなぜ殺しあうのか』p.346 河出書房新社 

*2:ジョック・ヤング 木下ちがや、中村好孝、丸山真男訳 2008年『後期近代の眩暈―排除から過剰包摂へ』p.82 青土社

*3:小坂井 敏晶『社会心理学講義〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉 』pp.206-207 筑摩選書(原文:Finkielkraut,A.(1980) Le Juif imaginaire,p.88,Seuil)

政治とクリシェ

www.asahi.com

 

最近、政治におけるクリシェ(常套句)の存在が再び注目を集めています。

「お役所言葉」という言葉もあるように、そもそも政治とクリシェは切っても切れない関係にあるのかもしれません。

しかし、このところ見られるそれは、実のところ単に失言を防ぐためとか、相手を煙に巻いて話を逸らすためなど、戦略的に用いられるという以外に、何か別の問題もはらんでいるような気もするのです。

 ( なお、僕は過去二回の記事で、報道における「アクター中心主義」というものについて考えてきました。政治の場でのクリシェは、この「アクター中心主義」的報道と、(悪い意味で)非常に相性が良いのですが、その点この朝日新聞の記事で紹介されている記者さんたちの質問は、このようなクリシェと真っ向から対決する姿勢を見せていて、とても勇気づけられました。)

 

冒頭の記事も含め最近の政治の場から聞こえてくる言葉を聞いていて、僕が頭の中に浮かべていたのが、アーレントアイヒマンに対する記述でした。今回は以下にその記述を手短に引用し、記事を終えたいと思います。

 

アイヒマンは)その時々の気分にふさわしい皮相な決まり文句を、自分の記憶の中で、あるいはそのときの心の弾みで見つけることができればしごく満足で、〈前後矛盾〉などとといったことにはまったく気づかなかった*1

 

アイヒマンは愚鈍なのではなく、奇妙なほどにまったく〈思考すること〉ができないのでした。…

いつも使う決まり文句の数はかなり限られたものでしたが、…アイヒマンがまったく無縁になるのは、こうした決まり文句を使えない状況だけでした。…*2

 

 クリシェ、十八番の台詞、表現と行動の伝統的な決まりを遵守することは、わたしたちを現実から保護するという社会的に認められた機能をはたします。どんな出来事や事実でも、それが起こったということによってわたしたちの注目を集め、思考をかきたてるものですが、こうしたものは思考の要請からわたしたちを保護してくれるのです。

…しかしアイヒマンの異例なところは、こうした思考の要請をそもそもまったく知らないことがはっきりしていたことです。*3

 

*1:中山元 2017年『アレント入門』ちくま新書 p166-167

*2:ハンナ・アレント 2016年『責任と判断』ちくま学芸文庫 p295-297

*3:同上

「駆け引き報道」と「抱負報道」

 

前回の記事では、僕は報道における「アクター中心主義」という概念を提起しました。

「アクター中心主義」とは、「対象の『人物』が現在、何を言ったのか、しているのかについてを中心に報道(ニュース)番組を構成すること」を意味し、換言すれば、「ニュースの焦点が「人物」から離れない」という点にその特徴があります。

この種の報道形態は、その内容が「誰が何をした、言った」から先へ進まず、人物から離れた言動それ自体の検証(例えば発言の真偽性や過去のそれとの整合性の検証)をしなかった場合に、問題となります(この問題が実際に起きてしまっているものを、特に「アクター中心主義」と呼ぶ、と前回の記事で僕は述べました)。

以下では、この報道における「アクター中心主義」が、実際に(悪い意味で)表出した例を、「駆け引き報道」「抱負報道」という2つの区分を元に示したいと思います。

(なお、今回の記事も含めこの「アクター中心主義」とは、報道の中でも特に政治に関するそれを念頭に置いたものです)

 

「駆け引き報道」

この報道形態は、一つのニュースの結末を、全て集団間の対立や攻防、つまり「駆け引き」に収斂させてしまうことにその特徴があります。

これは、「アクター中心主義」報道の根幹、「ニュースの焦点が『人物』から離れない」、を突き詰めていけば必然的に起こるものであると僕は考えていますが、以下に最近の例を示したいと思います。

ここ数ヶ月ニュース番組をにぎわせている「共謀罪(改正組織犯罪処罰法)」ですが、6月14日、与党はいわゆる「中間報告」という手法に打って出、15日の朝に当法案は可決成立しました。

いまだ国会での与野党の「駆け引き」が続いていた14日夜のあるニュース番組では、政治部記者を招き入れ、番組冒頭から約20分間、共謀罪に関して報道・解説していました。

僕はその番組を見ていて、不思議な感覚に包まれました。

共謀罪が、いつまで経っても議論の対象にならないのです。

番組の開始15分まで、記者やキャスターが熱心に語っていたのは、「中間報告」の意味と、その手法を与党がとった思惑、そしてそれに対する野党の反応でした。

彼らは、共謀罪そのものを論じるのではなく、共謀罪の採決を巡ってのアクターの「駆け引き」を長い時間をかけて「解説」していたのです。

そして残りの5分間は、共謀罪の争点を与野党など主要なアクターの主張を交互に紹介し、共謀罪のコーナーは終わりました(もちろん、その主張に対する「検証」などはありませんでした)。

今回のような重要な法案が、今まさに採決されるという段になって、このような「駆け引き」に焦点を当てるというのは僕は問題であると思います。

それは、報道から「法案とはどういったものなのか」という情報が欠落することで、視聴者の間で法案への理解が深まらないから、という理由だけではありません。

前回の記事でも述べましたが、法案をそのものが、国民には関係のない「政治ゲーム」(政局)の一要素としてしか見られないという傾向を助長するものであると考えられるからです(これは、政治不信とか政治的無関心が広がっていると言われて久しい現在においては、より切実です)。

「(与野党の)攻防が続いています」あるいは、「駆け引きが続いています」 で終わるニュースは多いですが、こういった報道には多くの問題があるように僕は思います。

 

「抱負報道」

前回の記事では、 僕は「対象となった人物が公共性の高い立場にいるとすれば、その人物の言動は自然とニュース性を帯びる」と述べましたが、その性質上、他より高いニュース性を持つと考えられるのが、アクターの発する「抱負」です。

「アクター中心主義」の特徴の一つ、というより特別にそのように呼ばれる条件として、「『誰が何をした、言った』から先へ進まず、人物から離れた言動それ自体の検証(例えば発言の真偽性や過去のそれとの整合性の検証)をしない」というものがありました。

したがって「アクター中心主義」が染み付いた報道においては、アクターが高らかに主張する抱負も検証されることがありません。

つまり、抱負に対しての現状はどうであるとか、過去の抱負を受け、実際それは達成されたのかなどが報道されることがないのです。換言すれば、「言いっぱなし」になるのです。

例を挙げます。

毎日のように宿題を忘れる(というよりやってない)小学生がいたとします。頭を悩ませる先生に、その小学生は毎回次のように言います。

「これからも、義務教育を受ける者としての務めを果たすべく、しっかりと宿題を提出していきたい」

明らかにこれは虚偽です。抱負と実際が伴っていないからです。ところが「アクター中心主義」報道では、アクターの言動の検証をしないので、抱負と矛盾する「毎日のように宿題を忘れる」という事実が掘り起こされることはありません。

したがって、この小学生の例は次のように報道されます。

 

小学生Aは、学生生活の中でも重要な要素の一つといわれる宿題提出について次のように述べました・・・。

これからも、義務教育を受ける者としての務めを果たすべく、しっかりと宿題を提出していきたい

小学生Aは、このように述べ、かねてからのスローガン「お手本となる小学生に」を目指すべく、最大限努力する方針です・・・。

 

 これに上述した「駆け引き報道」が組み合わさると、次のように報道は続きます。

 

これに対し先生Bは、「A君は十分に宿題を提出していない」と反発し、小学生と先生の駆け引きは続いています・・・。

次のニュースです。

 

報道する側は、その気になれば独自に、A君が宿題を全くやっていないという事実を明らかにすることが出来ます。 

しかし「アクター中心主義」の報道において、それはなされません。抱負は検証されずいいっ放し、つまり「抱負報道」となり、よくて「駆け引き報道」へと収斂していきます。

おそらくこのような状況では、意図的に抱負を連発するアクターが登場するでしょう。現状や実際がどうあれ、ひたすら未来に向けたきれいなメッセージを宣言するのです。

メディアはそれをニュースとして扱ってくれますし、内容の検証もしないのでアクターにとっては効果的なメディア戦略となるわけです。

さらに言えば、現実はこの小学生の宿題の例のように、わかりやすく白黒つくことばかりではありません。

例えば「丁寧に真摯に説明していく」という発言に対しての反発は、「あなたは丁寧に真摯に説明していない」ということにしかならず、このやり取りの真偽をはかるためには、実際に映像を使って検証するしかないのです(話し合いの場そのものを拒否することもありますが、その場合はその事実をかつての抱負と共に取り上げることで検証は可能です)。

 

 

報道における「アクター中心主義」

 

現在、環境が変わり日常的にテレビのニュースを見ることができる状態にあります。そこで自分が気になったある報道の形態を、ここで備忘録的に書いておきたいと思います。

その報道形態というのが、タイトルにある「アクター中心主義」です。僕はメディア関係に詳しくないのでこのような概念がメディア論にすでにあるのかどうかはわかりませんが、ここではこれを、「対象の『人物』が現在、何を言ったのか、しているのかについてを中心に報道(ニュース)番組を構成すること」と定義したいと思います。

対象となった人物が公共性の高い立場にいるとすれば、その人物の言動は自然とニュース性を帯びることになります。したがって、ニュース番組は「誰が何をした」「何を言った」という情報が多くなる傾向にあります。

したがって僕自身、人物の言動に注目が集まることそのものについては、自然な現象であると考えていますし、今回問題にするのもその点ではありません。

この種の報道が問題となるのは、報道の内容が「誰が何をした、言った」から先へ進まず、人物から離れた言動それ自体の検証(例えば発言の真偽性や過去のそれとの整合性の検証)をしなかった場合です。

タイトルにある「アクター中心主義」とは、このような問題が実際に起きてしまっている報道について指したものであり、僕が最近テレビのニュース番組を見ていて感じたのも、この報道形態だったのです。

 

ところで、この「アクター中心主義」は、言い方を変えればニュースの焦点が「人物」から離れない、という点でも特徴付けられます。

このような傾向のある報道においては、次のような問題が生じます。

例えば現在、国の行く末を左右する法案Xが国会の審議にかけられているとします。与党Aはこの法案が国家の将来のためになるとして、法案の可決を目指しています。一方、野党Bはこの法案Xに多数の不備があるとして、可決を阻止しようとしています。

さて、このような場合、「アクター中心主義」的報道はこの法案Xを巡り、何をニュースとして報じるのでしょうか。

簡潔に言えば、「アクター中心主義」は、その報道において法案Xそれ自体を対象とすることはありません。つまり、法案Xは焦点にはなりません。

重要法案Xは常に、「(A党の)首相がその有効性を述べた」とか、「B党の○○議員は法案には危険性があると主張した」 などのように、ある「人物」がそれについて何を言ったのかという形でニュースに登場することになります。

つまり、この法案はニュース番組において、人物の発言の中にしか出てきません。公共性の高い政治家というアクターの発言に媒介され、初めてニュース性を獲得するのです。

このような報道にあっては、法案Xの理解が視聴者の間に深まることは非常に困難であると思われます。

それは、番組が法案Xを対象に法案そのものの検証を独自にしないから、と言う理由だけではありません。法案Xを巡るやり取りが、国民には関係のない政治ゲームの一コマとしてしか見られないという傾向を助長するものであると考えられるからです(これは、政治不信とか政治的無関心が広がっていると言われて久しい現在においては、より切実です)。

 

おそらく、池上彰さん司会の「解説番組」は、このような「アクター中心主義」の中で、「そもそも法案Xとは何なのか?」というような疑問や、「法案Xについて知りたい」などのニーズが人々の間で高まった結果、登場したものだと思われます。

しかし、池上さんの番組は毎日やっているものではありませんし、他の解説番組も深夜の短い時間に放送されるという状況にとどまっています。

スポットニュースのようなストレートニュースでは時間の都合上、 ニュースがアクター中心で構成されることは避けられないでしょうし、そもそも複数のニュースを手短にかつ簡潔に伝えることが目的です。したがってやはりこのような解説や検証は、まとまった時間の取れるニュース番組の中で行われるべきだと思います。

もちろん、このような役割を担うのはテレビだけではありません。むしろ、新聞や書籍の方がメディアとしての形態的には、より対象についての解説や検証には向いていると思われます(し、実際にそのような記事は多いです)。

ところが、昨今これらのメディアは力を失っていますし、そもそも仕事で疲れた体で何かをゆっくり読む、というのは非常に骨の折れる作業だと思います(僕自身もそうです)。

最近になってアクター中心主義が強まっている、ということは正直僕には判断できません。テレビというメディアは昔からこうだったという意見もあるかもしれません。

しかしやはりテレビといえども報道では、人物から離れた対象もニュースとしてもっと積極的に取り扱うべきなのではないか、と僕は考えています。